きゅうり

 

盛々夏野菜のハードエッセイ & ショートストーリー 【思想、心理、書評、劇評、感想、あらすじ】
 

 

 
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 小僧は性質が悪かった。駅のホームですぶりをし、周囲の迷惑などかえりみなかった。コーチに屈辱的なあだ名をつけ、仲間の少年たちにもそのあだ名を使うように強いた。誰が弱者であり、誰が自分の身を守れない木偶の坊であるかを瞬時に見分け、的確に狙いを定めてダメージを与える手腕は、天才的と言ってもよいほどだった。よく通るボーイソプラノの声で、きたない言葉を機関銃のように連射するさまの、うっとうしさといったらなかった。
 コーチがうつ病になってやめたあと、監督の依頼でチームの面倒をみることになった大学生は、誠実な人間であったが、決して小僧に隙を見せるようなことはなかった。小僧に気づかれることなく、小僧の悪辣な行状をつねに監視していた。たいていの人がそうである程度に、すこしサディスティックなところのあるこの青年は、小僧の悪事を見つけるたびに腕をねじり上げた。ということは、小僧の行動を予測し、悪事の瞬間には近くにいるようにしていたのだ。こうでもしなければ、小僧は監視の裏をかいていっそう悪事をエスカレートさせていただろう。
 小僧は四番でエースだったが、その行状があまりにもチームの和を乱すものであったために、リーグ戦のとき、青年からの提案によって、監督からベンチスタートを言いわたされた。代役のピッチャーが好投しはじめると、小僧は市営スタジアムのバックネットに指をかけてヤモリのようにはりつき、のぼり始めた。そうすれば、小僧の意のままになるチームメイトたちは、ピッチャーよりも小僧の方にいっそう大きな声援を送ることがわかっていたからだ。しかも、チームメイトの中でバックネットをのぼる勇気のある者が小僧以外にいないことは事実であった。それはそうだ。小学生といえども、ヒトの体重を支えるような構造にはなっていない。バックネットの高さの半ばまでのぼった小僧は、スタジアム中の注目を集め、勝利の記念に、右手をつきあげておたけびを上げた。そしてバランスを崩し、首から落下した。

 
テーマ * 自作小説 ジャンル * 小説・文学

 

 

 

 
「他者の思惑を気にせずに生きる」という生きかたを実行しようと思っても、楽しむことを禁じられ、自分のほんとうの気持ちに気づくことなく育った者にとって、それは一度も経験のない未知の領域であるから、何から手をつけてよいか見当がつかず、途方にくれるしかないだろう。

こういうときには、微熱のときに自分がどうふるまうかを思い出してみるのもいいかもしれない。最低限の義務は果たすけれど、気力は衰えているので、複雑な人間関係の問題を解決するために努力しようなどとは夢にも思わないだろう。つまり「今日は開店休業」という心境であろう。

そして、廊下で同僚とすれ違ったり、短い打ち合わせで同僚と会話したりするときに、熱があることをあえて打ち明けるいとまがない場合には、相手に正面から向き合わず、深くは入りこまず、かといって失礼にはあたらないように「適当にやりすごす」だろう。そうなのだ。この「適当にやりすごす」という感覚こそが、「他者の思惑を気にせずに生きる」という生きかたのモデルになるのだ。実行してみれば、それによって自分の評判を落としたり、同僚からの信頼を失うようなことには決してならないことがわかるはずだ。

 
テーマ * 心の持ち方 ジャンル * 心と身体

 

 

 

 
身体の不調を感じ、その原因に思い当たり、ニ、三の症候がその原因説にあてはまると、俺はその原因説にとりつかれてしまい、他に原因があるかもしれないという疑いをもたなくなる。こうして周囲の声に耳をかさなくなり、情報を仕入れる努力もしなくなってしまう。そうなると、自己治療のための偏った生活習慣や、病状の悪化にたいする過剰な恐怖心によって、かえって俺の健康は失われていく。

やがて、俺が信じこむ原因説にはいつも共通の特徴があることがわかってくる。それは深刻で絶望的という点だ。おそらくそれには経済的な動機がある。つまり損失を最小におさえようという思惑である。無数に想定できる原因群の中の「最悪なもの」に備えておくことによって、近い将来に悲惨な現実に直面してあじわうかもしれないショックを、前もって相対的に軽減しているつもりなのだ。しかしその結果はどうであろう。俺はつねに、よりによって、無数に想定できる原因群の中でも「最悪」の病気にかかるのと同じ恐怖をあじわうことになる。どう考えてもコストの高すぎる、不合理な選択だ。

そうではなくて、無数に想定できる原因群の中の「最も軽くて他愛ない」ものを選択するようにすればいい。病気らしきものの正体は、実際にはほとんどそれだから、この方法ならば最小のコストで対処できることになる。もしその原因説が間違っていたら、二番目に軽いものに切りかえればいいだけのことだ。そもそも、俺は原因を探求したかったのではなく、身体の不調を癒したかったはずだ。だったら、手軽に癒せそうな仮説のほうから順番に手をつけるのが筋である。

しかも、強い恐怖心に支配される必要のなくなった俺は、余裕をもって症候の意味を評価できるだろう。複数の病気が同じ症候をもつゆえに、症候はつねに多義的であり、妄想的解釈の温床となる。したがって、まず冷静になることが癒しへの第一歩なのだ。 
テーマ * 心の持ち方 ジャンル * 心と身体

 

 

 

 
遅ればせながら掌編小説の口上を述べておきたい。

資料を集めてコツコツと肉付けしていくタイプの小説は俺には向かないと考えるにいたり、プロットをそのまま発表してみたのが、最初の「美里ばあさん」である。

俺は複雑な現象を簡潔に述べる抽象度の高い文体を確立しようとして努力してきた。だからどちらかというと具体描写は苦手なのである。それで、ひとつプロットだけの小説をしばらく書きつづけてみようと思った次第だ。

現実のできごとから触発は受けているが、これまで書いた四つの小説には、参考にしたできごとやモデルというものはない。四人の(正確にいえば三人と一匹の)主人公は、俺の純粋な分身なのである。四人のうち三人は韜晦のために性別を変えてあるからわかりにくいかもしれない。しかし美里ばあさんも、沙友里も、雌猫も、偽装した俺なのだ。俺という人物に興味をもってくださった方は、そのことをを頭に入れたうえで再読してみるのも一興かもしれない。もちろん、ディテールまで正確に俺をなぞっているわけではないけれど。 
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 この家にもらわれてきたとき仔猫だったあたしは、まもなく、ママさんへの深い「信頼」を示すまたとない方法を発見しました。なんということはありません。毎日きまった時刻にママさんの前にあらわれて「ニャー」と鳴くことです。しかし、その「ニャー」に心をこめればこめるほど、あたしは一方でジレンマにおちいっていきました。なぜならあたしとて猫族の一員ですから、対猫関係の中でさまざまな小事件がひっきりなしに起こり、対処を迫られるため、必ずしも決まった時刻にあらわれることができなくなったのです。それに、あたしはいつも絶好調というわけではありません。「ニャー」の調子が低いこともあれば、「ニャー」と発声する元気さえ出ないこともあります。そして困ったことに、こういう不手際は、タイムリーで心のこもった「ニャー」とのギャップによって、自動的に「信頼」の反対、つまり「不信」という意味をもってしまうようなのです。ママさんが悪いわけでもあたしが悪いわけでもありません。「差異」とか「記号」というものは、最初からそういうものなのです。もちろん、それはギャップがそう見せているだけのことであって、事実、あたしは不信のかけらももったことはないのです。
 あたしがこのような結論にたっしたのは、ママさんの様子が、ひどく落胆しているように見えたからなのでした。いえ、あたしなんかの観察など気にとめないでほしいのです。そうでないならそれにこしたことはないのです。でも、あたしの観察がもしほんのひとかけらでもあたっているのなら、あたしは、あたしの信頼がすこしも変わっていないことを弁明したいのです。もちろん、猫族のあたしには叶わないことなのですが。そして、できることならママさんにあたしのことを長い目でみてもらえる余裕をもってほしいと思うのです。なぜって、ママさんがあたしの「ニャー」をこころから喜んでくれるという百パーセントの確信をまだもてずにいる今、臆病者のあたしには、ママさんの前に駆けていって高らかに「ニャー」と鳴くことはきっとできないから。あたしにできることは、あたしの愛と信頼は不動であることを、あたしの日々の態度によって、すこしずつ、証明しつづけることなのです。 
テーマ * 自作小説 ジャンル * 小説・文学

 

 

 

 
非言語的メッセージの扱いにくさはその多義性にある。それ自体では意味のない「非言語的メッセージ」が意味をもつにいたるのは解釈の枠(コード)の働きなのだが、問題は、解釈の枠じたいが無数に可能であることだ。こうして一つの行為(非言語的メッセージ)は、解釈の枠が異なれば複数の意味をもつことがあり、場合によっては真逆の意味をもつこともある。たとえば微笑というメッセージは、「好意」を意味することもあれば「敵意の隠蔽」という意味をもつこともあろう。しかし、心を読むことができない以上、かかるメッセージの因ってきた背景をつぶさに知ることはできない。しがたって相手に真意をただす以外に真の意味を知るすべはない。だとすると、われわれのとりうる途は次の三つである。

(1)相手に真意をただす
(2)特定の解釈に賭けてみる
(3)どっちつかずのまま放置する

さて、(1)が実行できるのであればただちに問題は解決する。しかし、真意をただす行為じたいが危険であれば(たとえば攻撃と受けとられる恐れがあれば)それはできない。

一方(2)は最悪である。人は、真意がわからないという不安のあまり、運を天にまかせて特定の解釈にしがみつき、暴走することがある。積極的すぎる解釈を行なった場合(たとえば相手の微笑が好意を意味していないのに好意と解釈した場合)は「迷惑行為」に走り、反対に消極的な解釈を行なった場合(たとえば相手の微笑を「敵意の隠蔽」と解釈した場合)は「引きこもり」にいたることになろう。しかし相手の真意は謎のままなのだから、どっちに振れるにせよ、あまりに危険な賭けと言わなければならない。前者の場合は社会的な信用を失うことになりかねないし、後者の場合はかけがえのない友にみずから絶縁を言いわたすことになりかねない。

では(3)を実行してみよう。行為の意味が言語的に明らかになるまで待ってみよう。明らかにならないならばそのまま放置しよう。たぶん、やがて勘違いであったことがわかるだろう。よくも悪くも激震が起きたというのは錯覚であって、昨日までと同じ日常が続いていたことがわかるだろう。そして「心の迷い」の原因は、非言語的メッセージに反応したことであることがわかるだろう。

追記 言語的メッセージであっても、「暗示」のように多義的なメッセージは非言語的メッセージと同様に無視しよう。多義的メッセージの意味を特定できるという誤った自信こそが危険なのだ。事実として、特定することは不可能なのだから、不可能であることを何も悲観することはない。むしろ、不可能なことを実行しようとする努力こそが事態をややこしくし、悲劇を呼びこむ。

こころを読むのはやめよう 
テーマ * 心の持ち方 ジャンル * 心と身体

 

 

 

 
 神奈川県でいちばん旨いうどんを食べに行こう。誰かがそう言ったので、俺たちの一行は**市のy字路にむかった。y字といっても小文字のyであって、左右対称ではなく、二画目(長いほう)にあたる国道の中ほどの位置が、一画目(短いほう)にあたる県道の終点になっている。
 それで、俺たちはyの字の二画目終端の方向から、字画の方向とは逆向きに(下から上へ)すすんできて、この交差点にさしかかる。
 しかし、こう述べただけではまだ正確でない。そこで、あなたの脳内でyの字を左右反転させてほしい。ここで俺が描写せんとしている実際のy字路はそういう形であった。
 どちらでもかまわないじゃないか、という声が聞こえてきそうだが、俺の記憶と読者の脳内イメージが一致しないのは、書き手としてやはり納得がいかない。わかりにくかったら図を描いてみてはいただけまいか。
 さて、俺たちは国道の左側の歩道を歩いてゆく。くだんのうどん屋は反転したyの字の又の中、つまり国道と県道が交差したすこし先の、国道を跨いで右側にある。だから、うどん屋に行くには国道を横切らなくてはならない。しかしこの国道は交通量が多い。それでちょうど、うどん屋の正面の位置に歩道橋がかかっている。
 俺が先頭に立って歩道橋にとりかかることになった。しかしこいつが問題なのだ。鋼鉄製で、赤い塗料で塗装されたその歩道橋には手すりがない。階段のステップは黒い鋼鉄製で、しかもメッシュになっている。そればかりか、ステップとステップの間隔は上下に一メートルも空いている始末だから、歩行者はひとつ上のステップをつかんではい上がり、ロッククライミングばりに、命がけの登攀をしなくてはならない。メッシュの目に指をかけてぶら下がればすこしは安定感が増すかもしれないと考えたが、メッシュの目が細かすぎて指が入らない。恐怖に足がすくむ。
 そんな危険をおかすべきだろうか。うどんを食べるために。それとも、危険を避けて、うどんを断念し、引きかえすべきだろうか。ところでだいたい、あの店のうどんを食べたことのある人は、皆この歩道橋を使ったのだろうか。
 しかし、と俺は思う。悩む価値もないと。そして車列のあいだをくぐって国道を横切り、さっさとうどん屋に入ってしまう。うしろの連中が、おずおずと俺に追随しはじめる。
 こうして俺は一行よりひと足早く入店したのだが、俺の目に入ってきたのは、うどんが配膳されるのをまっている数人の客だけだった。店主はどこにいるんだろう。しかし俺が彼らに尋ねたのは、店主の所在などではなかった。「皆さん、本当にあの歩道橋を使ったんですか」
 誰もはっきりと返辞をしない。かといって、歩道橋を使わなかったことを恥じて、ばつが悪そうにしているというのでもない。 
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『焼肉ドラゴン』を含む最新戯曲集がやっと出る。

鄭義信戯曲集 たとえば野に咲く花のように/焼肉ドラゴン/パーマ屋スミレ鄭義信戯曲集 たとえば野に咲く花のように/焼肉ドラゴン/パーマ屋スミレ
(2013/05/16)
鄭 義信 (チョン ウィシン)

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テーマ * 新刊 ジャンル * 本・雑誌

 

 

 

 
 それは沙友里が九歳のときだった。小さくて食も細い沙友里は、兄のまねをして、ごはんをおかわりしてみた。たくさん盛ってもらったが、二口食べてすぐに満腹してしまった。しかし母は許さず、最後の一口まで責任をもって始末することを命じた。それで沙友里は咳き込み、嗚咽しながら気丈に完食した。小さな胃がきしみ、死ぬほど苦しかった。その晩、沙友里は具合が悪くなり、翌日の晩まで眠りつづけた。
 この罪深いしつけは、動物的な本能に逆らって食の快楽にふけってもよいということを、沙友里に学習させた。やがて、何か不安をもつたびに、苦しくなるまで食べつづけるようになった。肥満することはなかった。そもそも、大量の食物を全部栄養にしてしまうほどには、内蔵が強くないのかもしれなかった。しかし胃はきりきりと痛んだ。
 いつも、食事を楽しむと言うよりも、一刻も早く平らげてしまいたいと考えている人のように、せかせかして、義務をはたすような食事ぶりだった。出されたものを残すことはまずなかった。かくも胃の使いかたがへたなので、おなかの調子はいつも悪かった。それゆえトイレにいく回数が多かった。小ではなく大のほうだ。もっとも男子とはちがって、言わなければ小か大かはわからないのだが。音姫もあるし。では頻尿と思われていたのだろうか。女子から指摘されたことはなかった。しかし本人はひどく気に病んでいた。
 かわいいので男子からはよく声がかかった。しかし男子と一緒に一日を過ごすと、途中でトイレに行かなければならない。その回数が、連れの男子よりも多くなるのではないかとつねに気にしていた。回数を減らすために、トイレに行かず耐えていたこともあった。
 それで五人目の男子とわかれたあと、内科医の勧めにしたがって心理カウンセラーに会った。不思議な体験だった。というのは、初対面の男の人と話して緊張しないのははじめてだったからだ。カウンセラーは、沙友里がひそかにおそれていたように、心の中に土足で踏みこんできたり、トラウマに直面化させるようなことはしなかった。ただ、ひごろ沙友里を拘束し、身動き取れなくしている、さまざまな義務感、道徳心、そして打算を一瞬手ばなして、子どもらしい素の自分と向きあえるようにみちびいてくれた。こうして沙友里ははじめて「あたしってかわいそうなんだ」と思った。涙が流れた。
 しかし習慣の力は強力だった。沙友里はあいかわらずせかせかと義務を果たすように食べ、そして食べすぎておなかをこわすのだった。もっと根本的な治療が必要だった。沙友里が考えたその治療法は、九歳の自分に会い、手をさしのべ、味方になってあげること。そして当時の母と対決し、誤ったしつけをやめさせることであった。
 次にカウンセラーと会ったとき、催眠療法の先生を紹介してもらった。翌週、その先生に後催眠暗示をかけてもらった。その晩の夢に出てきた九歳の沙友里は、まさに二杯めのごはんの三口めを、むりやり口の中に運ぼうとしているところだった。二十一歳の沙友里は、九歳の沙友里の腕をそっとつかみ、「食べなくていい」という意思を伝えるために首を横に振った。そして小さな沙友里をそっとだきしめて言った。「だいじょうぶよ。あたしがついてるからね。何も心配しなくていいから」
 すると母の顔が鬼のようにゆがみ、膨張して巨大な風船になった。沙友里が大砲をぶっ放すと、風船は粉々になって飛び散り、寝室の中の二つの影があらわれた。それは、九歳の沙友里と、添い寝している母だった。
 夢の中の不思議な能力によって、沙友里には事態が見てとれた。あのとき、沙友里に完食を強要した母は、沙友里がすぐにねを上げて食べるのをやめると思っていたのだ。そして思いもよらない展開にあわてふためいた。目を覚まさない沙友里に寝ないでつきそい、ごめんねといいながら朝まで泣いた。朝がくると、娘の命を救うために、てきぱきと主治医の往診を手配した。
 そういうことを十二年間おくびにも出さず胸にしまっていた母に、沙友里は「意地っぱり」とつぶやいた。そして抱きしめていた大砲に弾をこめずに、やさしく、空砲をお見舞いした。 
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 優子、麗子、美里の三人のばあさんはいつも行動を共にしている。リーダー格でやり手なのが優子ばあさん、ぐずで足手まといなのが美里ばあさん、可も不可もないのが麗子ばあさんだ。
 美里ばあさんが自転車に引っかけられて足首を捻挫したとき、優子ばあさんは泣いている美里ばあさんを尻目に相手の女子大生との交渉を買ってでて、前払いで治療費をせしめた。領収書の提示を求められることもなかったので、美里ばあさんは健康保険で整形外科を受診し、ロキソニンテープを二週間分もらい、ついでに腰のマッサージもしてもらったが、受けとった額の一割もかからなかった。美里ばあさんはしきりに恐縮して残額を返したいと言いはったが、優子ばあさんはそんなことをしたら足元を見られて報復されるかもしれないと言っていさめた。「それに」と優子ばあさんは言った。「あんたはとても怖い思いをしたんだから、それくらいの迷惑料をもらって当然なのよ」
 ともに伴侶を亡くして独り者の麗子ばあさんと大輔じいさんはたいそう仲がよくて、町で公認のカップルといってもよいほどだった。あるとき、大輔じいさんがどういう経緯でか隣町の紗香ばあさんとお茶を飲んだことが明らかになった。それで優子ばあさんは大輔じいさんの家にのりこみ、裏切り者とののしり、麗子さんは二度とあんたの顔なんか見たくないと言っていると、たんかを切って立ち去った。麗子ばあさんは優子ばあさんに心からの感謝を述べ、その後、大輔じいさんから何度電話がかかってきても、メールがきても応じることはなかった。
 ある日、優子ばあさんのもとを美里ばあさんが訪ねてきた。麗子ばあさんと一緒ではなかった。美里ばあさんは怖い顔をしていた。長いつきあいだが、優子ばあさんはいまだかつて美里ばあさんのそんなに怖い顔を見たことはなかった。そもそも、気弱な美里ばあさんが怖い顔などするはずもなかった。美里ばあさんはその怖い顔で優子ばあさんをにらんで言った。「あなた、麗子さんの気持ちわかってる? 麗子さん、三日三晩泣き暮らしたのよ。大輔さんへの気持ちと申しわけなさとで、食べ物も喉を通らなかったんだから」そして、うろたえる優子ばあさんの目をのぞきこみながら、優子ばあさんのつま先を踏み、体重をかけた。  
テーマ * 自作小説 ジャンル * 小説・文学

 

 

 

 
こちらに引っ越しました。












義信(うぃしん)さんは本作でついに喜劇の新しいジャンルを確立したのではないだろうか。すべての要素が義信さんのカラーに染まっている。

(1)必ず三回繰り返すギャグ。この三回を一ユニットとするギャグの集中砲火が、手を変え品を変え、一幕全体にわたって延々とつづく。

(2)「泣く子も黙る大女優」麻実れいに、一幕でコミックソングを熱唱させたかと思えば、二幕では狂気の高速ステップを踏ませ、喜劇俳優としての資質を120パーセントひきだした。かくもはじけっぱなしの麻実さんを観る機会はまたとないだろう。

(3)老いも若きも、俳優たちを容赦なく全力疾走させる。本当に肩で息をする様子がギャグになっているほどだ。

(4)義信組(うぃしんぐみ)の俳優は物を食べながらセリフを聞かせることができなくてはならない。沢村一樹と麻実れいは、ともにかけそば一杯を食べるあいだしゃべりつづけるし、終幕では全員で本物の「おはぎ」をほおばりつづける。

(5)俳優たちは、たびたび芝居を中断し、立ち止まり、真顔になって「ぼやき」はじめる。俳優の私生活にまで踏み込む会話の徹底ぶり。

名作『焼肉ドラゴン』や『パーマ屋スミレ』では、こういう場面が芝居の「スパイス」として効いていたものだ。しかし本作では完全に攻守が逆転し、ドラマの筋立てよりも、明らかにこっちのほうが目的になっている。
スケールの大きな喜劇だ。作劇のテクニックから俳優の生理にいたるまで(後者にかける情熱は日本の演出家の中でダントツであろう)、演劇という芸術がもっているありとあらゆる要素を駆使し、一瞬たりとも退屈することを観客に許さない。いまや日本を代表する劇作家・演出家の一人として、おしもおされぬ存在となったかれの、プロとしての自負と、徹底して泥臭い芝居づくりにこだわる現場感覚に感動をおぼえた。『焼肉ドラゴン』『パーマ屋スミレ』を観たときよりも、いっそう深く、しみじみと思った。鄭義信は偉大だと。

アトリエ・ダンカンプロデュース「しゃばけ」 
テーマ * 演劇 ジャンル * 学問・文化・芸術

 

 

 

 
遠近両用メガネの装用とともに、俺の視力はいまだかつて経験したことのない新しい境地に入る。

(1)視野の全体がクリアに見えるということはもはやなく、ぼんやりとしか見えないことに甘んじなくてはらない部分(とくに斜め方向)がある。しかしそれは「正面遠方」と「正面下方」を重視して設計された遠近両用メガネというものの特性なのだ。むしろ俺はこの日から別の生物の視力を手に入れるといっていい。斜め方向をクリアに見るという、実用的にはさして意味のない能力の喪失を嘆くよりも、新しい視力に早く適応し、その可能性を十分にひきだすことに集中するほうがいいだろう。

(2)単焦点レンズでは、変化するものは対象物の位置だけであった。しかし遠近両用レンズは度数が累進的に変化するから、変数(変化するもの)が二つになる。つまり「対象物の位置の変化」と「レンズ上の部位による度数の変化」だ。俺は、自由に位置を変える対象物を、レンズ上のさまざまな部位を透して見る。こうして二つの変数の相互作用による見え方の変化には無限のバリエーションが存在することとなり、日常の経験から類推できる範囲を超えてしまう。

(3)上記(2)の現象をいっそう強烈に認識させられるのは、二本目の遠近両用メガネに替えたときであろう。遠近両用メガネをつくりなおす場合、十中八九、加入度数が増すはずであるが、それは、度数変化のグラデーションのカーブがきつくなるということでもある。グラデーションのカーブがゆるいときは書物の活字に焦点の合う視野は比較的広かったが、カーブがきつくなるとその視野は一気に狭くなる。こうして、一本目の経験にもとづく「こう見えるはずだ」という予断がまったく役に立たなくなる。光学に疎い者は、へたな予断をもって結局失望に至るよりも、知的努力によって視覚の変化を馴致しようとするのをやめ、この新しい視力が実際に世界をどう見せてくれるかを、自分の身体によって一から体験しなおすほうが賢明であろう。 
テーマ * 心の持ち方 ジャンル * 心と身体

 

 

 

 
本書の提唱する「解決志向アプローチ」ではこう考える、人は自分のメンタルな諸問題を解決するスキルを有していると。しかし、人はさまざまな原因でその能力をうまく引きだせなくなってしまうばかりか、自分がそれをできていたことさえ時として忘れてしまう。そして知的な努力によってその能力を補おうとし、いっそう深みにはまっていく。

たとえば、不安をコントロールできないかもしれないという不安は、いっそう不安をつのらせる。しかし「解決志向アプローチ」によれば、そもそも人は不安を自動的にコントロールするスキルを有している。それゆえ、不安のコントロールなるものについて知的に理解する必要もないし、練習する必要もない。ただ単に、ふだんの自分が実際にはとても上手に不安をコントロールしていることを思いだし、その体験をいきいきと喚起しさえすればいい。そのための導き手が催眠療法家である。こうして、「不安のコントロール」は賽の河原に石をつむ類いの難事業ではなくなり、およそすべての人間にわけへだてなく与えられた基本的なリソースであることがわかる。人はその問題を深刻に考えすぎて、自動的な過程の作動に自分でブレーキをかけていたのだ。

(同様の過程が、本書の第5章で「おねしょ」と「筋肉のコントロール」をテーマとして詳述されている。)

さて、本書は俺にとってエリクソン書籍の3冊目だ。専門家向けセッションの記録であり、省略が多いのと、そもそも俺が今までなじんできた思考法とはかけ離れた思考を強いるために、読み進むのに苦労する。実際、途中まで読んで半年ほどほったらかしていた。しかし久々に読んでみて、この学派がもつ柔軟な思考法は、俺の回復にとって不可欠なツールになりつつあると思った。

俺は催眠療法家をめざしていない。あくまでもひとりのクライアントにすぎないが、それでも本書を読むことは有益だと思う。そもそも、神経症の核にある「不合理な信念」、これは視点を変えれてみれば暗示(催眠)の一変種なのではないか。もっともそれは複雑に入り組み、何重にもロックのかかった厄介な暗示ではあろうけれど。当然、そこからの回復過程も催眠と無縁ではありえない。

ミルトン・エリクソンの催眠療法入門―解決志向アプローチミルトン・エリクソンの催眠療法入門―解決志向アプローチ
(2001/05)
W.H. オハンロン、M. マーチン 他

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食生活を変えようとしてみて、俺は自分の満腹中枢がこわれているんではないかと思うようになった。生理的な満腹感が食欲のブレーキにならないのだ。満腹感にたいする感受性が弱いともいえる。生理的には満腹しているはずなのに、食卓が空になるまで食べつづけなければ気がすまないのは、満腹感に優先する衝動が存在するからにほかならない。俺はこれを貪欲さや、過食行動をひきだすストレスの際限のなさだと思っていた。たしかにそれもある。しかしもっと強力なエンジンが存在することを思いだした。「残さず食べなさい」という超自我の命令だ。

「残さず食べなさい」というしつけは、たしかに幼児期の特定のステージでは有効に作用するだろう。しかし度が過ぎれば(注1)、満腹して食べるのをやめるという動物として当然の本能的手続きを破壊してしまう。しかも、それは悪しき習慣に火をつける。というのは、満腹感に優先する価値がひとつでも存在することを学んでしまった子どもは、やがて征服欲やストレス処理のために満腹感の警告を無視して暴走することをおぼえるからだ。長じてウエイトコントロールをしなくてはならなくなったとき、それが重大な障害になることも知らずに。

俺は今、満腹感にたいする感受性を回復しようとしている。その過程で「残さず食べなさい」という超自我の命令に気づいたことはさいわいだった。動物としての生理に逆らう不合理な信念はさっさと始末するに限る。

さて、こうは言ってみたけれど、俺は「動物としての生理に逆らう不合理な信念」をごまんとかかえているのではないのか。いつの日か、すっかり始末しおえて楽になりたいと思っているが、今回、超自我の命令に気づいたことは、モデルケースとして、俺のこれからの道行きにひとすじの光明となるだろう。

(注1)たとえば、食べ過ぎて苦しんでいるのにやめるのを許さないとか。 
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こちらに引っ越しました。













サッカーファンでもない俺が本書にコメントすることを不思議に思う人がいるかもしれない。実は昨年の4月15日、TBS『噂の東京マガジン』が町田市とFC町田ゼルビアについて、偏見にこりかたまった卑劣な報道を流しているのを偶然観てしまった俺は、その報道姿勢に大いに疑問をもち、批判記事を書いた。当時、このブログのアクセス数は一気に増え(といっても弱小ブログであるから一日にせいぜい数十アクセスであるが)、その記事にはこのブログ最多の15拍手がついた。俺にとってインパクトの強いできごとだった。そして昨年末、一時的だがアクセスがまた一気に増え、その理由を調べているうちに上記の記事がFacebookで紹介されたことを知った。そこには酒井良選手のブログのリンクもあり、同選手のブログをみると、本書が紹介されていた。

本書はFC町田ゼルビアを設立し、発展させ、サポートし、J2昇格のために尽力したひとびとの列伝である。町田ゼルビア代表・守屋実氏(20ページ)、「町田ゼルビアを支える会」を立ち上げたサポーター・石黒修一氏(44ページ)、学校法人玉川学園総務部長・山田剛康氏(53ページ)、ゼネラルマネージャー・唐井直氏(63ページ)、ランコ・ポポヴィッチ監督(66ページ)、Jリーグ専務理事・中野幸夫氏(92ページ)、町田市・石阪市長(99ページ)、酒井良選手(124ページ)、元町田サッカー協会理事長・重田貞夫氏(153ページ)、オズワルド・アルディレス監督(184ページ)。

大企業を母体としない市民クラブによるJリーグへの挑戦。それはドイツを手本とし、スポーツを町の文化としてねづかせていく壮大な試みの一部であった。そして「美しく攻撃的なサッカー」を理念とし、その理念に徹底的にこだわるぶれない信念(165ページ)。プロサッカーチームの新しいかたちを模索し、着々と成功をおさめているかれらの、知恵と勇気と努力に拍手を送りたい。報道で流されたスタジアム問題の真相は第3章で詳しく語られる。メディアセンターの建設という起死回生の秘策を市長が決断したことによって、J2入りは一気に具体化した。

さて、2012年のシーズンをJ2最下位で終えたFC町田ゼルビアは、JFL(3部リーグ)へ降格となり、2013年、ふたたびJ2入りをめざして戦う。がんばれ町田ゼルビア。

FC町田ゼルビアの美学: Jリーグ昇格を勝ち取った市民クラブの挑戦FC町田ゼルビアの美学: Jリーグ昇格を勝ち取った市民クラブの挑戦
(2012/03/23)
佐藤 拓也

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テーマ * 書評 ジャンル * 本・雑誌

 

 

 

 
日本の会社員の悲劇は、需要が極端に少ないために顧客優位となり、わずかな利益と引きかえに要求される労苦の程度が、個人の人格を蝕むレベルにまで達していることだ。クレームと返品が増え、うつ病者も自殺者も増える。小さな失敗をあげつらっていじめぬく風潮は、デフレ状況の必然的な産物だ。それが避けえない自然現象ならば甘受もしよう。しかし、もしそれが官僚主導で進められた政策の失敗が招いた「人災」であり、避けようと思えば避けえた悲劇だったとしたらどうであろうか。しかも彼らはその失敗に口をぬぐい、失敗を認めないために屁理屈を並べ、悪政を継続して国民をいっそう不幸にしようとしているとしたら。

著者によれば、現在の「平成恐慌」は、日本を太平洋戦争にいたらしめた昭和恐慌のときと同型の失政が原因である(90ページ)。当時の浜口内閣はデフレ状況にもかかわらず緊縮財政を断行し、節約・倹約を奨励した結果、「国内経済は一段と落ち込み、社会は乱れ、人心は荒廃した。多くの国民が家族離散の憂き目に遭い、とくに農村では生活に窮しての娘の身売りが日常茶飯事となっていた」しかも、当時の大マスコミも現在と同じようにデフレ政策礼賛の記事をたれ流しつづけた(92ページ)。デフレ状況は資産価値を相対的に高め、富裕層には有利だからだ。この状況を救ったのは犬養内閣の高橋是清蔵相だった(93ページ)。彼は積極的な公共投資によって有効需要を創りだす政策をとった。

詳細は本書に譲るとして、このようにデフレ状況下の緊縮財政は禁忌なのだ。国家財政の建て直しを旗印にした構造改革や緊縮財政は、経済を疲弊させ、結果として税収も減り、いっそう財政を厳しくさせる。一方で、公共投資によってデフレ危機を救った例は枚挙にいとまがない。

では、なぜ日本の政治は歴史に学ばないのか。なぜ同じ失敗を繰り返すばかりか、それを止めもせず、いっそう傷口を広げて国民を不幸にさせるのか。それは新自由主義(69ページ)かぶれの学者、経済人、官僚、政治家が発言権をもっているからだ。新自由主義は政府による公共投資を認めない。

たしかに、新自由主義思想は企業家マインドをくすぐる。政府の口出しがなく、自由に商売ができるユートピアを幻想させるからだ。しかし、誰もが他者を出しぬき、自分だけ金持ちになろうとすれば、少ないパイの奪い合いとなり、ほんの一握りの勝者を除くすべての者は必然的に敗者となる。しかも力関係の序列は決まっていて新参者に席などない。デフレ状況下であればその傾向はいっそう強まる。負け戦とわかっていて、社員の尻たたきながら勝負かけることの、どこに夢があるのか。

一方、自分だけでなく、潜在的な購買者である他者も金持ちになることを許容するならば、状況は変わってくる。豊富な有効需要があれば利益にありつく者の数が増える。勝ち組はいっそうの富を手にし、負け組にもチャンスが生まれる。成功の見込みがあれば投資も増える。

しかし、その有効需要を創りだすことができるのは新自由主義者の嫌う「公共投資」なのだ。安価で高品質の製品があるだけでは消費行動は起こらない。買うための「カネ」がなくてはならない。

それとも、新自由主義者の裕福な諸先生方、デフレを放置して貧乏人が苦しむのを見たいですか。
もうやめようじゃないですか。全国民が豊かになって、もっとおおらかに人生を送れるようになろう。


【追記1】本書は「目からウロコ」の連続だが、特に感銘をうけた点を二つ述べておく。

(1)バブル崩壊後、政府は不良債権を洗い出すために金融商品の「時価会計」(および不動産の「減損会計」)を採用し「取得原価主義」を捨てた。これによって企業収益は減り、デフレが加速された。「不良債権処理」という観点からは一見正しいように見える「時価会計」であるが、「取得原価主義」と比較してどちらかが100%正しいということは言えない。結局はさじ加減の問題なのだ。米国のポールソン財務長官は、リーマン・ショック発生時、金融機関への「時価会計」の適用を即時停止した(65ページ)。反対に、日本の竹中大臣は「時価会計」と「減損会計」のやりすぎによってUFJ銀行を倒産に追い込み、東京三菱との合併を余儀なくさせた(67ページ)。要するに、正義にも限度があるのだ。いや、いかなる正義も相対的だというべきか。

(2)俺は銀行の貸し渋りによる中小企業の倒産は銀行の体質に問題があると思っていた。しかしそれだけではなかった。それは金融庁が義務付けた「自己資本比率規制」だ(66ページ)。この規制のために、国際ルール上は本来規制を受けない中小金融機関まで貸出を抑制せざるをえなくなった。現実を見ず、一方的な机上の「正義」を押し付ける、日本の官僚の悪弊がここにも見られる。

【追記2】「財政危機」という詭弁の正体については本書でたっぷりと述べられているが、ここでは一国の財政を家計と比較することの誤りについて一言しておく。たしかに、家計は節約・倹約につとめるほど資産が増えるだろう。家計は「使っても増えない」からだ。しかし一国の経済は違う。国家の規模では「使えば増える」、いいかえれば、政府がお金を使って金回りをよくすれば、乗数効果によって使った以上に税収も増える。逆に、使わなければ税収も減り、ジリ貧になって行く。つまり、大マスコミの嫌う「バラマキ」こそが経済を救うのだ。むしろ公共投資に「バラマキ」という蔑称をつけて酷評する大マスコミの真意のほうが問題だ。

【追記3】ブックマーク
本書には詳細目次がついていない。拾い読みする人のために、注目すべき章節の見出しとページ番号を一覧にしておく。

・公共投資は経済成長にプラスにならない(という虚言) 19ページ
・石油危機後の安定成長は積極経済で実現 26ページ
・デフレの原点は橋本財政改革 48ページ
・財務省は「粗債務」で判断し財政危機だと誤認 50ページ
・小渕首相が危機を克服 54ページ
・均衡財政政策の導入で財政デフレに 57ページ
・なぜ均衡財政を導入したのか 59ページ
・労働基準法の改定――解雇が自由なリストラ・デフレに 62ページ
・昭和恐慌と平成恐慌との類似点 97ページ
・財政支出の効果を否定するマネタリストの見解は誤り 108ページ
・デフレ突入を寸前で阻止したオバマ大統領 112ページ
・日本は世界一財源の豊かな国 119ページ(新規国債の財源についての提言を含む)
・財務省の二枚舌 125ページ
・なぜ財務省は財政危機を煽るのか 136ページ
・政府財務省による国民の騙し方 140ページ


日本を滅ぼす消費税増税 (講談社現代新書)日本を滅ぼす消費税増税 (講談社現代新書)
(2012/11/16)
菊池 英博

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テーマ * 衆議院解散・総選挙 ジャンル * 政治・経済

 

 

 

 
「日本未来の党」は卒原発、脱増税、反TPPを掲げている。国民目線に立てばこの結論しかないと思う。しかし官僚、財界、大マスコミにとってはけむたい存在のようだ。俺がそう思った理由を二つ述べる。

1.同党には坂本龍一、菅原文太、稲盛和夫、鳥越俊太郎、茂木健一郎という好感度の高い著名人が賛同しているのに、この事実をテレビはほとんど取り上げない(注1)(注2)。

2.同党の名前でGoogle検索しても、公式ホームページのリンクがなかなか見つからない。それどころか、トップでヒットしたのは読売のあくどい「こきおろし」社説だった。こういう検索結果に作為が入っていないはずはない(注3)。

自分たちにとって不利なものを徹底して抑えこむ。そういうエリートたちに行政、経済、報道を握られてしまっているというのが、中国や北朝鮮を嗤っていられない日本の現状なのだ。

しかし幸いにして、俺たちの情報チャンネルはテレビや五大紙だけではない(注4)。いいかえれば、テレビと五大紙だけを自分の情報源とすることは、自分の生活とささやかな幸福を一握りのエリートたちにあけわたす自殺行為だ。

俺にとって、小沢氏や亀井氏という尊敬すべき政治家が合流していることは、この党に興味をもつ最大の要因のひとつである。しかし大マスコミは、同党の実態は「小沢新党」であり、闇将軍の復活だと書きたてる。まあ、それはそれでいい。エリートたちが、自分たちの支配に風穴を開ける見識と実行力をもっているのは誰であるかを理解している証拠だからだ。

一方、彼らにとって「日本◯◯の会」は恐れるに足らない。彼らの支配を転覆させることはないからだ。◯◯氏がいくら暴言を吐いても報道されつづけるのは、彼の発言が、結局のところエリートたちの欲望と一致しているからであろう。そして、勝ち組にぶら下がって大言壮語し、自分だけは得をしよう思っている、あわれな庶民(注5)の欲望とも。

ところで、同党の公約には一つだけ不満がある。それは「公共投資」を謳っていないことだ。エリートたちの主導する、狂った構造改革と意図的なデフレ政策のもたらした日本の不幸は、積極的な公共投資によって解決される必要がある。もっとも、小沢氏も亀井氏もそのことは十分理解しているはずだから心配ないと思うけど。

(注1)マスコミウォッチを仕事としているわけではないのでリサーチはしていないが、すくなくとも俺はこの事実についてテレビで一度も見なかった。ニュースバリューは十分であり、繰り返し報道するに値すると思うのだが。
(注2)坂本龍一氏や茂木健一郎氏は、今後、テレビへの露出が激減するのではないだろうか。かつてワイドショーの常連コメンテーターだった故井上ひさし氏は、コメ自由化反対の発言をはじめたとたんに、さっぱりテレビで見かけなくなってしまった。この国で、官僚の意に沿わない発言をするとそういう目に遭うのだ。もっと怒れ日本人。
(注3)検索エンジンの運営会社は営利企業だから、スポンサーへの配慮は避けられない。したがって、検索結果は純粋な統計的実体ではない。スポンサーの意向に沿った記事を上位ヒットさせたり、意向に沿わない記事を上位ヒットさせない細工をすることは、事業として成功させるために不可欠である。
(注4)俺のニュースソースを一応記しておく。あまり熱心に情報を集めるタイプではないので参考にならないかもしれない。いずれもつねに目を通しているというわけではないが、『週刊ポスト』、『日刊ゲンダイ』、「田中宇の国際ニュース解説」、そして新書たち(特に「集英社新書」と「講談社現代新書」)だ。
(注5)これこそがエリートたちの思う壺なのだ。勝ち組幻想をいだいてエリートたちに肩入れするが、エリートたちの権益拡大のためにさんざん利用された上で、負け組として切捨てられる。そんなことはわかりきっているじゃないか。負け組を出さない社会をつくることこそが重要なのだ。
 
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こちらに引っ越しました。











ぼくに炎の戦車を』を観てきた。

男寺党(ナムサダン)の目も彩な民族衣装、サムルノリの演奏、サンモノリの美技に圧倒されて、俺は幕開けからすでにトランス状態になっていた。

今回は『焼肉ドラゴン』や『パーマ屋スミレ』のような緊密な構成の戯曲ではなくて、いくつものエピソードが同時進行で進み、各俳優に見せ場を作る手法が使われている。これも鄭さんお得意の作劇術のひとつだ。

主役級の男優陣は、今回、体当たり・絶叫型の演技で気を吐いている。
馬渕英俚可安寿ミラという手練れの女優陣は、こなれた芝居で舞台をひきしめている。
もっとも俺の印象に残ったのは、鄭義信(チョンウィシン)ワールドの常連といえるおかまキャラを演じきったイ・ヒョンウンと、今や鄭義信作品に欠かせない存在となりつつある星野園美だった。そして広末涼子。派手さや器用さは感じられないけれど、ていねいな役作りをコツコツと積み重ねた堅実な芝居で、一座を牽引していた気がする。この三人の存在感はきわだっていた。

シリアスな重たい場面のあとに歌と踊りのシーンが挿入され、一瞬として観客を飽きさせない構成はいつもどおり。しかしこういうシーンにも批評精神は生きている。たとえば一幕三場の「東京節(パイノパイノパイ)」。植民地の日本人が帝都の情景をコミカルに歌うシーンは、「支配する側」に属する人びとのの無意識の驕りを露出する。そういえば平田オリザ氏の『ソウル市民』にもこの歌は出てくる。

朴勝哲(パクシュンチョル)の今回の演奏はアコーディオンではなくてジャズピアノ。

男優、女優を問わず水をガブ飲みさせたり、食物を頬張ったまま長ゼリフを喋らせ、俳優に負荷をかける演出は今回も健在だった。出番が終わった途端にトイレにかけこむ俳優さんの姿を想像してしまう。しかし、すぐれた俳優さんほど、肉体的負荷がかかったときにいい芝居をすることも事実なのだ。

こうして、見どころ満載の舞台なのだが、俺がこの公演の最大の成果と思っているのは、東京のど真ん中、赤坂、TBSの劇場(赤坂ACTシアター)に、大日本帝国による朝鮮支配の歴史をひっぱりだしたことだ。しかもそこは外務省の目と鼻の先なのだ。終幕で、草彅剛演じる柳原直輝は演説する。「先生は君たちを、朝鮮の人たちを愛しています。そして、そのことが……愛することが、今の朝鮮では認められないことであります。許されないことであります。けれど、先生は愛することをやめたわけではありません」これは決して清算済みの過去ではない。なぜなら、今、俺たちが同じことを言うにも勇気が要るからだ。直輝のように命を懸ける必要はないとしても、さまざまな人の思惑を気にしたり、場合によっては議論を受けて立つ覚悟をする必要がある。では、なぜいまだにそうなのか。そのことを深く考えるのに、今回の劇場はうってつけの場所だった。

『焼肉ドラゴン』、『パーマ屋スミレ』、そして本作と、政治の問題を正面からとりあげてきた鄭さんの直球勝負はどこまで続くのか。終演後、鄭さんにその話をしたら、こういうハードな作品はすこしお休みだと言っていた。雑音の集中砲火をかいくぐってのしんどい作業だったのだろう。今後しばらくは、鄭さんの本領である極上のエンタテインメントを楽しもう。すでに来年春、同じ赤坂ACTシアターの公演『しゃばけ』(畠中恵原作)も決まっている(チラシはこちら)。しかしすこし休んだら、やはりど真ん中ストレートの直球勝負を観せてほしいと願ってしまう。 
テーマ * 演劇 ジャンル * 学問・文化・芸術

 

 

 

 
鄭義信(ちょん・うぃしん)さん作・演出の『ぼくに炎の戦車を』が、TBSの赤坂ACTシアターで11月3日から始まっている。主演は草彅剛。

鄭さんの作品は長いこと観ているけど、今回の人気はすごい。メディアも反応している。

座席はもちろん完売。

戯曲の掲載されている『悲劇喜劇12月号』が発売日の11月7日になっても近くの書店に出ないので不思議に思っていたところ、すでに品切れ。俺が書店に行けない昼間のうちに売れていたのだろう。通販でかろうじて手に入れた。

NHK EテレのETV特集で11月25日の22時から「日韓 記憶のシナリオ ~劇作家・演出家 鄭義信~」が放送される。

AERAの最新号(11月19日発売)に鄭さんのインタビューが掲載される。


追記 12月1日現在、Amazonに悲劇喜劇12月号の在庫が2冊ある。

悲劇喜劇 2012年 12月号 [雑誌]悲劇喜劇 2012年 12月号 [雑誌]
(2012/11/07)
不明

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浜田麻里 Live Tour 2012 “Legenda”がBSフジで放送される。
11月18日(日)25:00~25:55
11月24日(土)28:00~28:55(再放送)

番組情報ページ

追記 曲目リスト
01 Crisis Code
02 Crimson
03 Antique
04 Heartstorm
05 Momentalia
06 Blue Revolution
07 Paradox
08 Fantasia 
テーマ * ハードロック ジャンル * 音楽

 

 

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盛々夏野菜

Author:盛々夏野菜

男性、既婚、事務系サラリーマン。
現代思想フェチだが、本を読むのが遅いのであまり多くは読めない。地底人生活を経て現在は臨床心理に関心がある。新鮮な胡瓜が好き。
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