きゅうり

 

盛々夏野菜のハードエッセイ & ショートストーリー 【思想、心理、書評、劇評、感想、あらすじ】
 

 

 
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二晩経って、もうすこし感動の意味がわかってきた気がする。

心中をのりこえて手にした小人たちとの幸福な生活(彼女じしん、この生活を白雪姫に例えている)は、お甲が人の優しさに触れ、生まれて初めて味わう深い「癒やし」の時間であった。それはすさんだ生活を送ってきたお甲にとって、命と引きかえにしても惜しくないほど大切だった。だから、鮮血を迸らせながら披露する水芸は悲劇の形象なんかではない。彼女は自分の命を差し出すことによって、愛する小人たちの優しさに応えたくてしかたがないのだ。これは歓喜の舞いなのだ。

一方、鮮血を浴びてのたうちまわるアリダは傍観者にとどまる。彼がいくらお甲に肩入れしようと、お甲が舞っているのは小人たちのためであって彼のためではない。しかし、お甲の人生に立ち会うことによって得た深い感動は、今後の彼の人生を変えずにはおかないだろう。 
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昨日の昼公演に行き、一晩経ってまだ興奮がさめない。そんなことはいまだかつてなかった。

本公演のどこが凄いかを一言でくくるなら、「あふれる詩情」と「キッチュ」の融合という奇跡であろう。もちろん、すべての唐戯曲はこの称号にあたいするかもしれない。とはいえ、唐さんの多幕物ではこの両者がもっと複雑なかたちでからみあう。いいかえれば、両者のあいだの断層は、作家の力量により、ストーリーの中で馴化されるのだ。それにひきかえ本作は、「あふれる叙情性」のいっさいが、終幕における「血糊の噴出」というあざとい視覚効果の猟奇性によって一気に形象化される、単純きわまる構成であり、馴化の余地がない(注1)。両者の断層は深く、薄氷を踏むようなバランス感覚と、なみはずれた力業(ちからわざ)を同時に発揮することができなければ成功はおぼつかないはずだ。ところが、本公演はこの両方をわがものとし、断層を一気に飛びこえてみせる。俺たちがおぼえる感動の深さは、この困難な跳躍の高さと速度に比例するのではないだろうか。そう考えれば、かつてない感動の深さに説明がつく気がする。

本公演最大の収穫は女優・大空祐飛さんであろう。シェイクスピア顔負けの叙情性をもち、それゆえに手強い、唐戯曲との格闘の中から、崇高というべきヒロインの存在をひきだしてきた。そうなのだ、この崇高さこそが唐戯曲ヒロインの理想形なのである。

登場場面とか、ラストとか、名シーンはたくさんあるのだが、もっとも俺の印象に残ったのは、いきなり正座して、滝の白糸の口上を述べはじめるところだ(注2)。正座した彼女は、口上を述べるまえにほつれた髪をなでつけて(注4)、見えない観衆への敬意をあらわす。戯曲には書き込まれていないこの小さな動作が、舞台に緊張を走らせ、幕切れの悲劇に向けて一気にドラマを加速させる。

白糸太夫の装束に着替えて披露する水芸のシーンは、菖蒲と噴水に囲まれてたぐいまれな美しさだし、手首を切り、鮮血を迸らせながらクレーンにのって宙を舞うラストも美しい。「それでは皆さま、手首の蛇口を外しましょう!」こんな美しい決めゼリフを書ける作家は二人といないだろうが、このセリフを彼女ほど完璧に言える女優もいないだろう。

それから、彼女の存在感の秘密のひとつが、挑むような、それでいてつねに淋しそうな目線であることは、この舞台を観た人なら誰でも気がついているだろう(注3)。

ところで、『唐十郎全作品集 第四巻』の解説によると、朝日新聞<彦>は1975年の初演を評して「この公演が必ずしも成功していないのは、第一に、元来がこじんまりとしたまとまりのよさをもつこの一幕劇が、いわば強引に”演劇スペクタクル”に拡大されたため、そこにどうにも埋められぬすき間、つまりは一種の空々しさがつきまとうためだ」と書いたそうな。しかし本公演を観たあと、俺はこの批評を「たわけ」と思った。すべての要素が幕切れの悲劇に向けて収束していくこの戯曲の構造は、血しぶき飛び交う”演劇スペクタクル”を不可避的に要請する。したがって、この野心あふれる戯曲は、現場に対し、そして観客の想像力に対し、(朝日新聞<彦>の言葉で言えば)「すき間」を埋めてみろと挑戦しているのだ。そんなこともわからないのだろうか。

いやそれとも、俺の観ていない初演の舞台成果がその程度のものだったのだろうか。今となっては知るすべはない。しかし、演出の蜷川氏は、「エンタメターミナル」のコメントで「殊にこの作品には出会った時から恋をし続けており、今回はその恋がひとつの成就を迎えたと言って良い仕上がりになりました」と述べている。すると、本公演は過去4公演の中でぬきん出た舞台成果を上げていて、それゆえに、俺は最初に述べた「詩情とキッチュの融合」を語ることができたということなのかもしれない。融合が成功しているのを見なければ、語ることはできないからね。

(注1)お甲を中心としてあらすじを述べればこうである。お甲はかつて激情に駆られ、男と二人で手首を切り心中をはかって生き残った。その後過去を清算し、地味だが平穏な生活を小人たちと送っている。そして今、彼女は自分の命とひきかえにその小さな幸福を守ろうとして、もう一度手首を切る。

(注2)「あ、そうだ、滝の白糸。(急に変な声で)これより、お目にかけまするは白糸太夫の涙の恋がらみ、ちぎれてはなれし、天界の、あの人の供養の特別興行でございます」(角川文庫『唐版 滝の白糸』81ページ。冬樹社『唐十郎全作品集 第四巻』230ページ。ただしどちらも絶版。今年の連続公演を期に「盲導犬」「唐版 滝の白糸」だけでも復刊されないだろうか。)

(注3)舞台写真からその片鱗が見て取れるかもしれない。

(注4)2013年12月29日の追記。WOWOWの放送をみたら、この動作はしていなかった。俺の記憶ちがいかもしれない。

お甲の癒やしの物語--蜷川幸雄演出「唐版 滝の白糸」(つづき)

作品公式ホームページ

アマゾンに収録戯曲集の画像が見当たらないので、スキャン画像を掲載しておく。
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1.melody.「Take a Chance

大うつ病の診断を受けるすこし前、この曲ばかり聴いていた。1コーラス目の最後、「はっきりと答えが見えなくても 行く先は自分の気持ちに聞こう」のところを聴くたびに、自然と涙があふれてきた。自分の気持ちを置き去りにし、無理に無理を重ねた結果、心身がボロボロになっていた。しかし救いを求める方法がわからなかったし、逃げ出したら人間として終わりだと思っていた。

今の俺は援助の求めかたを知っているし、人間には苦しまない権利があるということも理解している。俺たちの社会にはセーフティネットがあり、そう簡単に破滅しないようになっている。しかし当時はもう決して引き返せないところまで来てしまったというディストピア的な絶望感にとらわれていた。そして、「義務」というヴァーチャルにのみこまれていた俺が、かろうじて「自分の身体」というリアルに繋ぎとめられていたのは、この曲のおかげだった。


2.ももいろクローバーZ「サラバ、愛しき悲しみたちよ

サビの部分「サラバ、昨日をぬぎすてて 勇気の声をふりしぼれ 「じぶん」という名の愛を知るために」のところは何度聴いても泣ける。昨日までのしがらみなんて捨ててしまえばいい。今自分はどうありたいのか、何をしたいのか。それが、私の生きる意味のすべてなのだ。

シングル盤
realize/Take a Chancerealize/Take a Chance
(2005/08/17)
melody.

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サラバ、愛しき悲しみたちよ(初回限定盤)(DVD付)サラバ、愛しき悲しみたちよ(初回限定盤)(DVD付)
(2012/11/21)
ももいろクローバーZ

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収録アルバム
Be as oneBe as one
(2006/04/12)
melody.、m-flo loves melody.&山本領平 他

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5TH DIMENSION5TH DIMENSION
(2013/04/10)
ももいろクローバーZ

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いじめっ子Aがいるとする。いじめっ子ではイメージしにくいとしたら、強権的な上司Aでも、意地悪な友人Aでも、支配的な父親Aでもよい。そしてAに反発を覚えている私は、その反発を態度で示したくなったり、逆にAを懐柔しようとして機嫌を取りたくなるかもしれない。問題は、どちらの場合も緊張して苦しさを感じるということだ。身体の「緊張」は主観的には「苦しさ」として感じられ、内実は同じものである。

ところで、この「緊張=苦しさ」は相手(A)に感染する。つまり相手も苦しくなるのだ。私の身体と相手の身体が、緊張という共通言語によって自動的にコミュニケーションしてしまうのである。相手の「うざい」という感情は、この苦しさを指している。それで苦しさを処理するために攻撃せずにはいられなくなる。

攻撃することはあきらかに悪であるが、このように攻撃のスイッチが入る過程が存在することも事実だ。だとすれば、攻撃することの倫理的な是非はともかく、攻撃のスイッチを入れない工夫をすることには合理性がある。

そこで私にできることは、「緊張=苦しさ」をシグナルとして、自分の行動を組み替えることである。ある行動にとりかかったり、あるいはその行動のことを考えたときに「緊張=苦しさ」が生じる場合には、その行動は自分のためにならないと判断して別の行動に差し替えればいい。「緊張=苦しさ」は相手の攻撃スイッチを入れるばかりでない。それ自体、私の身体的ダメージとなり体をむしばから、自分の健康のためにも回避すべきなのだ。

では、まず深呼吸して緊張を静めよう。そして余裕があるときはどういう行動をすれば緊張せずにすむかを試してみよう。さまざまな行動について考え、そのたびに自分の身体反応(緊張しているかどうか)を確認するだけでいい。


このエッセイは小池龍之介氏の各著作の影響下で書かれている。興味のある方は、特に下の本の第六章を参照されたい。

もう、怒らない (幻冬舎文庫)もう、怒らない (幻冬舎文庫)
(2012/01/14)
小池 龍之介

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神楽坂の喫茶店で行われた連続公演だ。

人生漫画@cafe SKIPA
-----揚野浩 著(光風社書店)『プロレタリア哀愁劇場』より

小さな喫茶店のテーブルと椅子を片づけた四畳半程度の空間が舞台で、観客は約二十人程度。本作の上演スタイルは「物語る演劇」。原作(小説)を戯曲として再構成することなく、原作の地の文も会話文もほとんどそのまま二人の俳優に割りあててある。ベテランの木野本啓氏は寺中、新人の高橋祐介氏は川路と清子の担当。俳優はこの二人だけなので、警官、矢板氏、老婆、社長という脇役は、二人のどちらかが張り子の仮面を被って演じるという趣向だ。トレーラーの運転席は高いところにあるので、二人はキャタツを二台ならべ、それぞれの天板に腰かけてその高さを表現している。

ところで、俳優の身体にとってセリフと地の文とでは距離感が異なるから、これらの両方を同時に語ることは難度の高い技であるはずなのだ。しかしかれらは絶妙なバランスでこれらの距離感を使いわけ、どん底生活を生き抜く登場人物の必死さと、一歩引いてかれらを眺めている作者の視線を、立体的に浮かび上がらせる。「やっぱり黒テントの俳優は上手いなあ」と舌を巻いた。原作に頻出する擬音語の処理も丁寧で、この芝居のアクセントになっていた。

山崎方代@茶廊トンボロ
-----田澤拓也 著(角川出版社)『無用の達人 山崎方代』などより

cafe SKIPAの姉妹店で、隣接する茶廊トンボロに作り付けのテーブル席があり、そこに宮小町、斎藤晴彦、滝本直子、平田三奈子の四氏がすわり、内沢雅彦氏(宮崎恵治氏とダブルキャストのようだ)はレジの前に立っている。観客の大部分はカウンター前の椅子にすわってテーブル席の方(カウンターとは逆方向)を向いている。残りの観客(俺を含む)は、カウンターの中のハイスツールにすわって観ている。

俺は原本『無用の達人 山崎方代』をちゃんと読んでいなくて人物の名前が頭に入っていないうえに、フリードリンクの白ワインを飲んでしまい、劇の構造を分析するどころではなかったのだが、まあとにかく、方代ゆかりの人物たちがひとりずつ、方代の人物像とエピソードを語って行く構成であったことは確かである。人物たちのうち二人はくま(方代の姉)と吉野秀雄(歌人)。あとは俺の頭の中でしっかりと分節化できていない人物なので、記憶しようがなかったのだ。失礼。

本作もやはり「物語る演劇」であるが、原本はノンフィクションであって会話文が少ないため、上の「人生漫画」のように俳優と登場人物を一対一で対応させることが難しい。それで五人の俳優が一センテンスずつ、ほぼ同じ分量のテキストを交代で語って行くスタイルであった。

そして俺の観た回には、なんと、『無用の達人』の著者=田澤先生が、方代ゆかりの女流歌人三人(注2)と一緒に、観客としていらしていた。

山崎方代の破天荒な生きかたは、自由なるものの意味について再考を迫る。「自由」はみっともなくて、ある意味えげつない。心のままに生きるということは、人目を気にしないし、多少の迷惑はかえりみないということでもある。言いかえれば、底なしの自由が欲しければ、紳士と思われたい欲を手放す必要があるということだ。しかし、俺たちは他者から評価を得ることに汲々とし、自分を信じとおすことを躊躇してしまう。いまさら何が惜しいのか、なぜ自分を信じないのかと自問してみるが、自我という病気は自分で思っていた以上に重症らしく、自由の手前で足踏みするだけなのだ。


この連続公演は、黒テントが神楽坂のイワト劇場を手放し、新宿山吹町(最寄駅は江戸川橋)に移転してから最初の作品であるそうだ。黒テントはその長い歴史の中で、はじめて常設劇場をもたない劇団になったようである(注1)。今回の公演は、規模からいうと番外公演よりも秘演会と言ったほうがふさわしい。たった二十人で濃密な演劇空間を独占する贅沢な時間であった。しかし黒テントには、やはり大きな劇場での公演を実現してほしい。俳優の宝庫というべき、実力派ぞろいのこの劇団には、日本の演劇界を牽引する使命があるはずだ。

(注1)木野本氏は「人生漫画」終演後の口上で、「俳優というものは空き地でも路上でも、そこに空間さえあれば演じることができる」と言っていた。
(注2)そのうちの1人は山形裕子さんであることが、彼女たちの会話からわかった。山形裕子さんは、『無用の達人』各章の冒頭で方代の回想を述べておられるので、俺のいいかげんな読み方でも記憶に残っているのだ。

無用の達人 山崎方代 (角川ソフィア文庫)無用の達人 山崎方代 (角川ソフィア文庫)
(2009/06/25)
田澤 拓也

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Author:盛々夏野菜

男性、既婚、事務系サラリーマン。
現代思想フェチだが、本を読むのが遅いのであまり多くは読めない。地底人生活を経て現在は臨床心理に関心がある。新鮮な胡瓜が好き。
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