きゅうり

 

盛々夏野菜のハードエッセイ & ショートストーリー 【思想、心理、書評、劇評、感想、あらすじ】
 

 

 
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こちらに引っ越しました。














1974年 光風社書店発行の連作短篇集
作者名の読みは あげの ひろし

目次
人生漫画
ゲリラの棲む岸壁
F4ファントムジェット機を降ろせ
プロレタリア競艇哀話
プロレタリア蟻地獄渡世
プロレタリア哀愁劇場

一、ニ、三話の語り手は寺中くん。かれは「けそけそした性格」のために、公務員、不動産屋、選挙カーの運転手、バーテンと次々に職を変えたあげく、今はトレーラーの運転手になっている。同僚の川路くんとコンビを組み、会社からなかば強制された形で最大積載量20トンのトレーラーに45トンの鉄筋を積んで走り、警察の検問をけむにまく。

さんざん搾取されてその日暮らしをしているかれらは、同僚のいやがる難度の高い任務を「カネのため」に次々と引きうける。こうして日本に五台とない巨大なスクレパーや、蒸気機関車や、35トンクレーンの陸送をなしとげる。それでいて、いよいよカネに困れば会社の持ち物である「軽油」や「ブリジストンタイヤ」を売り飛ばして生活費の足しにすることも躊躇しない。

港湾労働の頂点に立つ<博多開運株式会社>の配車係長=石山氏は、カリスマ性があるが一筋縄でいかない山師的人物である。二人に蒸気機関車や35トンクレーンの陸送を斡旋したのはかれであった。

第二話「ゲリラの棲む岸壁」では、青春時代に社会主義思想にかぶれた経歴をもつかれが、若い運転手たちを「日雇いゲリラ」として組織し、原子力潜水艦寄港反対闘争に送り込む。

第三話「F4ファントムジェット機を降ろせ」では、九州大学の建設中の校舎に突っ込んだ米軍機の撤去を請け負う。防衛施設庁、大学当局、文部省、中核派、米軍の思惑が交錯し、誰にも手が出せなくなっていたいわば「火中の栗ひろい」に、寺中くんたちを動員して敢然と挑んだのだ(注1)。

第五話「プロレタリア蟻地獄渡世」では、波止場の荷揚げ人夫上がりで素行の悪い消防士コンビ(一色肇と栗原多情丸)が山火事の出火原因をつきとめる。しかしその出火原因は市役所にとって都合が悪かったので、二人は解雇される。

最終話「プロレタリア哀愁劇場」では、暴力手配師の栗原清右衛門、アメリカ人カークランド、身体障害者の玉島富良吉が登場し、かれらと寺中くんとの心の交流は神話的な次元に達する。

破天荒なエピソードはいうにおよばず、博覧強記の作者が随所で披瀝する薀蓄、リズム感のある洒脱な文体、そしてシニカルな人間観察は、本書がもつ強烈な魅力の源泉であろう。

俺が本書の存在を知ったのは、1987年、68/71黒色テント(現在の黒テント)が「赤いキャバレー」のレパートリーとして最終話『プロレタリア哀愁劇場』を舞台化したときだった。俺が観た黒テント作品の中でベストプレイというべき一本である。玉島富良吉を演じた俳優、内沢雅彦さんとはそのときに知り合った。

当時、本書は手に入れにくい本のひとつだったが、やがてインターネットが普及し、全国の古書がデータベース化されるようになるとわりと簡単に見つかった。しかし手に入れて安心してしまい、そのまま眠らせていた。

今回、『プロレタリア哀愁劇場』から26年ぶりに、同じ黒テントによって第一話「人生漫画」が舞台化されることを知り、あわてて読み始めた次第なのだ。掛け値なしの傑作なのに、このままでは忘れられてしまう。復刊する手だてはないだろうか。

黒テントのウエブサイト
「人生漫画」の公演は9月26日、27日、28日@神楽坂 cafe SKIPA

(注1)第三話の末尾はこうだ。「墜落する途中、ジェット機の右の車輪が吹ッ跳ンで、その車輪だけが今も六階建の建物の三階あたりにひっかかっている」これ、ロートレアモン『マルドロールの歌』第六歌の末尾に似ていないかな? 
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テーマ * 書評 ジャンル * 本・雑誌

 

 

 

 
予想外のできごとが不意打ち的に起こった場合、しかもそれが嬉しいできごとであるほど、金縛りにあって適切な行動が取れなくなってしまうことがある。そういう場合、俺は目の前で進行しているできごとの意味が把握できず、嬉しいできごととして認識できていない。現象に多義性があって、解釈の幅があるほどそうなる。後で冷静になり、現象の全体を眺めれば「これしかない」とわかるのだが、目の前で現象が進行している現場では、その各パートに過度に注目してしまい、全体像を見失っている。思うに、俺には自己信頼が不足しているのだろう。それでとっさに「そういう幸福は俺に値しない」と考えてしまう。「だから、そんなことが俺に起こるわけはない」と。こうして、一見否定的と見える(注1)パートにひきずられて解釈に失敗する。

こういう事態の対処法は、予定調和を信じること、つまり「世界は俺に最適化されている」と信じることなのだ。それは精神的に健康であるための基本であろう。数年前の俺にはとてもできなかったけれど、今の俺にとってはたやすいことだ。だからもうすこし。今よりもうすこし強く、俺が自分のことを信じられるようになれば、形勢は一気に逆転し、無意味に後ろ髪引かれることなく、適切に行動できるようになるだろう。

(注1)俺には主観的にそう見えるということであって、現象の側には責任はない。 
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ブルース・フィンク著『後期ラカン入門』(人文書院)の発売が予定の9月6日より少し遅れていた(注1)ので、その間、同じ著者の『ラカン派精神分析入門』(誠信書房)の一部(三~五章)を読み返していた。明晰にして丁寧な解説を特徴とする、ラカンの入門としては右に出るもののない名著であるが、ラカンの主張自体が複雑きわまるのだから、そう簡単に頭に入るというわけにはいかなかった。しかし昨日『後期ラカン入門』が届き、早速開いてみると、序文の中でラカンの仕事が素描されていて、さすがはブルース、臨床に軸足をおき、難解語の実践的な意味を少ない字数で明晰に述べている。俺はその部分を読んですこし展望が開けた気がしたのだ。そこで、俺の現時点におけるラカン理解を簡潔に整理してみたい。『後期…』の本文を読み進める前に、俺としてはいったんこういう作業を経由しておくことが必要と思ったのだ。でははじめよう。


有名な「人間の欲望は他者の欲望である」という命題の意味は、人間は自分の(無意識的)欲望をもって生まれてくるのではなく、他者(大文字の他者A)つまり両親の欲望を植えつけられることによってはじめて欲望をもつ存在になるということだ。私の欲望に私は主体的にかかわることができず、他者から一方的に押しつけられるのだ。こういう存在のあり方が「疎外」。反対に「疎外」の解消、すなわち「他者の欲望」からの離脱が「分離」だ。そして、この「疎外」という不安定な存在様式は思春期以後に「神経症」という名の問題をひきおこす(たとえば自由を望みながらも自由を追求できない自縄自縛におちいる)。そしてそこには、私に自分の欲望を押しつけ、私の主体性を不当に奪い、不本意な境遇にいたらしめた(たとえば私の自由を制限した)他者つまり両親への強い怒りがともなっている(注2)。もっとも、他者から欲望を植えつけられない限り、そもそも私は欲望をもつにはいたらない、言いかえれば人間になることができないのだが。

ところで、他者つまり両親は、無力な幼少時代の私にとって、私の生殺与奪をにぎっている一方で、強烈な愛情によって私をのみこんでしまいかねない危険な存在でもある。したがって「他者の欲望」と正面から向き合うことはトラウマ的であり、私はそれに耐えられない。「他者の欲望」とのこのトラウマ的な出会いを「享楽」といい、私はやがてこれに直面するのを避けるために「幻想」(たとえば際限のない強烈な自由ではなく、制限された自由に甘んじる幻想)を生み出し、これと表裏一体の関係にある「神経症」を病むことになる。

ラカン派のキーワードというべき「対象a」については、まず、対象という名称にもかかわらず「欲望の原因」を指していることを言っておかなければならない(注3)。次に、この概念がいかなる技術的な要請によって導入されたかを押さえておかないと、見かけ上の多義性にめまいがして混迷におちいることになる。「対象a」とは、精神分析において分析家が占める立ち位置なのだ。ラカンによれば、被分析者は、毎度のセッションで自分の夢や願望を分析家に報告しているうち、やがて、自分が夢や願望を生みだすのは分析家に話すためだと感じるようになる。要するに分析家は「欲望の原因」とみなされるのだ。こうして「転移」が起こる。かれ(被分析者)は自分の欲望の中に住みついてしまった(注4)分析家の存在に耐えられなくなり、主体性を取り戻すための抵抗をはじめる。つまり、分析家を権威的人物(大文字の他者A)とみなし、機嫌をとって懐柔しようとしたり、想像的ライバル(小文字の他者a’)とみなして攻撃を加えたりする。しかしここで、分析家はかれの挑発に応じて権威的人物としてふるまったり、想像的ライバルとしてふるまってはならない。人格をもたない空虚な「対象a」としてふるまい、かれの不満の内容をひたすら言語化させることにつとめなければならない。するとかれは自分の挑発が必ずしも功を奏しないことを理解し、それにともなって、かれが(分析家に代表される)他者にたいして抱いていた固定観念(≒幻想)も変更(横断?)を余儀なくされる(たとえば、「他者が私の自由を制限している」という考えは、「自由の制限を望んだのは実は自分だった」という考えに変わるかもしれない)。やがてかれが欲望を主体化(他者から押しつけられた欲望を、自分自身が望んだものとして引きうけなおすこと)することに成功するならば、そのとき、かれは不合理な思考や行為を自分の意志でやめることができるようになるだろう。

(注1)結局9月12日か13日に書店に並んだようだ。
(注2)この怒りは意識されていることもされていないこともある。
(注3)そして欲望の原因は「他者の欲望」なのだから、対象aは「他者の欲望」でもある。
(注4)もちろんそれはかれの被害妄想にすぎない。

ラカン派精神分析入門―理論と技法ラカン派精神分析入門―理論と技法
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後期ラカン入門: ラカン的主体について後期ラカン入門: ラカン的主体について
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『後期ラカン入門』の序文は人文書院のサイトからダウンロードすることもできる。
http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b110261.html 

 

 

 

 
近い将来に起こるかもしれない危機のことを想像して、思わず身体がこわばるときは、深呼吸して身体をゆるめてみよう。そうすれば次のことがわかるだろう。
(1)すくなくとも今は危険な状態ではないこと
(2)したがって危険にそなえて身構えるのは無益であること
(3)その無益なわざのために、体力を消耗し、ひや汗をかき、平静さを失うにはあたらないこと

こうして、さし迫った危険は自分の脳内にしか存在しないということが、心身両方のレベルで理解できるだろう。
そうなると、ありうべき危機から距離をとって、事実のみを冷静に検討することができるだろう。 
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*Template By-MoMo.ka* Copyright © 2013 まず深呼吸、一歩引いて気楽に行こう, all rights reserved.

Author:盛々夏野菜

男性、既婚、事務系サラリーマン。
現代思想フェチだが、本を読むのが遅いのであまり多くは読めない。地底人生活を経て現在は臨床心理に関心がある。新鮮な胡瓜が好き。
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