きゅうり

 

盛々夏野菜のハードエッセイ & ショートストーリー 【思想、心理、書評、劇評、感想、あらすじ】
 

 

 
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 

 

 

 

 
こちらに引っ越しました。












最近のテレビ番組を見ていると、俺たち視聴者には「存在論的な思考」が必要だと思う。

実をいうと、俺たちはふだんそれと意識せずに存在論的な思考を行なっているのだが、たいていの場合、その思考は微弱な違和感としか感じられないので、存在者の力強い迫力の前に影が薄れてしまう。だから、自分の考えをまとめようとしたり、物を言おうとしたりするときには、そういう思考が一瞬脳裏をかすめたことを忘れ、存在的な思考に没頭してしまうのだ。

ここで定義めいたことを言っておけば、「存在論的」とは存在(存在すること、していること)の根拠を探求することであり、それと反対に「存在的」とは存在の根拠を探求せず、存在者(存在しているもの)を無批判に信じこむことだ。俺たちの日常の思考法はこっちである。

では「存在の根拠(存在論的根拠)」とは何か。「その存在者はなぜ存在しなければならなかったか」、言いかえれば「その存在者が存在するにいたった必然性」である。何も「神」のような存在を仮定をしようというのではない。そうではなくて、誰かがその存在者の存在(その存在者が存在すること)を必要としたり、欲望したり、あるいはその存在者が存在すると都合がよいと感じたはずだ、と言いたいのだ(注1)。

こうして、テレビを見ていると存在(の根拠)が露出する瞬間に何度も出くわすことになる。

たとえば、ホノルル空港で芸能レポーターが小栗旬にむかって叫ぶ「交際は順調ですか」というフレーズ。「お幸せに」でも同じことだ。存在的には、山田優との仲を祝福しているように聞こえるかもしれない。しかし本気で祝福するつもりの者がこんなことを言うはずはない。そこで存在論的思考はこの違和感を手がかりにこう推論する。このレポーターにとって、カメラの回っている前で何も言わずにすますことは都合が悪かったのだと。なぜだろうか。自分の仕事ぶりを電波に乗せてアピールしなければ、上司の評価が悪くなり、生活に影響するからだ。それで、精一杯さしさわりのないフレーズを選んだつもりであろうが、何かを言うこと自体がそもそも大きなお世話だったのだ。もっとも、部下にそのような行為を強いて恥じない上司こそ影の主役と言うべきかもしれない。

また、アポなしでロケを敢行するタイプのバラエティ番組(撮影後に了解は取るだろうが)では、飲食店のテーブルにのっている飲料に意味もなくモザイクがかかることがある。スポンサーとライバル関係にある会社の商標を消すためだ。こうして、テレビの映像なるものの存在論的根拠(注2)、すなわち「スポンサーの欲望」があらわになる。そして、映像作品の完成度を犠牲にしてまで会社の意向を押し通すスポンサーの欲望は、「金儲けはしているけど文化の発展にも貢献しているよきパトロン」という俺たちのはかない幻想をうちくだく。

反対に、念入りに準備されたロケでは、ライバル会社の飲料が映り込むことなどありえない。この場合、「スポンサーの欲望」は消えたのではなく、むしろ統制が徹底されているのである。

そうすると、俺たちは「不在の存在論」を構想する必要がありそうである。つまり、フレームの大きさも放送時間も有限なテレビというメディアには、つねに何を見せ、何を見せないかという判断が不可避的につきまとう。気まぐれに放送されている映像などひとつもなく、すべての映像は「選別」という操作を経て流される。したがって俺たちは「何を見せるか」を考察する存在論と同様に、「何を見せないか」を考察する「不在の存在論」を使いこなさなくてはならない。

しかしそれは「テレビの存在論的考察」にとって難所である。というのも、放送された部分でボロが出ることはあっても(「交際は順調ですか」や「飲料のモザイク」)、放送してもいない部分の不自然さを論ずることなどできないからだ。とはいえ、「あるはずのものがない」現象に注意をこらせば、存在論的に考えることは可能だ。そのためにはテレビでも五大新聞でもないメディアから情報を得るようにしておく努力は必要かもしれない。最近の事例でもっとも悪名高いのは、中国の反日デモを必要以上に報道しておきながら、日本の反原発デモについては、各テレビ局が足並みをそろえて無視したことだ。中国・北朝鮮の報道管制をわらっていられない深刻な状況である。

ところで、テレビ番組における「不在の存在論」を語るうえで避けて通れないのは「カメラの隠蔽」である。すべてのテレビ番組はカメラで撮影することによって可能となるが、一般には、カメラの存在を意識させないように気をつけながら番組がつくられる。その矛盾を存在論的に露呈させたのがヒッチハイク番組である。ヒッチハイクによる貧乏旅行がテレビ番組として収録されることはありえない。言いかえれば、テレビ番組として収録されている以上、それは「ヒッチハイクによる貧乏旅行」ではない。なぜなら、収録するためには必ず撮影スタッフが同行しなくてはならないからだ。こうして次のような矛盾があきらかになる。
(1)ヒッチハイクによる移動の様子をカメラに収めるためには、すくなくともカメラマンは同じ車に乗らなくてはならない。しかし、ヒッチハイカーと巨大なカメラをもつカメラマンをともに収容できるサイズの座席をもち、たまたま運転手しか乗っていない車が、いつもそう都合よく通りかかり、ヒッチハイクに応じるとは考えられない。本当にヒッチハイクだった場合もあるかもしれないが、スタッフが前もって手配した場合が大半と思われる。
(2)ヒッチハイカーが飢えているとき、それは「本当は食べているのに飢えているお芝居をしている」か、そうでなければ、「飢えているのを知りながら、同行スタッフが、演出効果のために食物を与えずに放置している」かのどちらかである。
(3)ヒッチハイカーが病気になったとしたら、それは「本当は健康なのに病気のお芝居をしていた」か、そうでなければ、「病気になりそうなのを知りながら、同行スタッフが、演出効果のために放置した」か「ヒッチハイカーの健康管理をせずに病気にいたらしめた」かのいずれかである。

もちろん、どんなにすぐれた番組にも必ず「何を見せるか」「何を見せないか」の選別はあり、それをコントロールすることによって効果をあげる。しかし番組の存在論的根拠を隠蔽しないという条件でそれは許容されるのだ。

最後に付け加えておこう。「存在論的思考」というと難しく聞こえるが、実をいうと、こいつの正体は「動物的勘」なのだ。だから、俺たちはこいつをもっと信用して、鍛えあげて行く必要がある。人間特有の、もっともらしい「存在的」な思考法から距離をとるように気をつけていれば、それは十分可能だ。

(注1)この記述は哲学的には正確でない。存在論を正確に記述するためには、自分の身体の無意識的な反応とか、この世界に生まれたことへの無意識的不満とか、そういうレベルにまで降りていって、認識の基礎を根底から問い直すことが必要だと思われるが、俺の力ではおよびもつかない。しかしこのエッセイの範囲内ではこの程度の理解で足りると思う。
(注2)ゆいいつの存在根拠ではなくて、存在根拠群のなかの一つ。 
スポンサーサイト
テーマ * 哲学/倫理学 ジャンル * 学問・文化・芸術

 

 

 

 
なみはずれた言語感覚と、それを裏打ちする絢爛たる語彙群。文芸誌の編集者が要求するよりもはるかに高いクオリティをみずからに要求しつづけ、逆に、既存の小説の枠にはめようとして編集者の突きつけてくる要求などかえりみない(ように見える。実態はわからない)。

綿矢りさを読むと、純文学の力は健在だということに改めて気づかされる。同時に、その本に何が書かれているかはどうでもよくなる。読者は、小説の内容てなものではなく、綿矢節のもつ鬼気に当てられてうちのめされたいのだ。純文学は表現の前衛だから、物語の提示を最終目標とはしていない。それは作家が世界と対峙するあり方そのものなのだ(かといって、物語の読ませ方も巧みであり、決して筋をおろそかにしてるわけではないけれど)。

こうして、俺にとっての綿矢りさは、日本でゆいいつの前衛作家という不動の王者の位置にあり、カフカ、コンラッド、フォークナーという世界文学史上の大家と比較しても遜色がない。

しかし、こういう賛辞を書きつらねてもいまひとつ迫力がない。それで、彼女にふさわしい評言はないものかと考えていた。そして、『六十年代演劇再考』における佐伯隆幸の講演を読んで思った。綿矢りさは「アングラ」なのだ。実存という身体性のもつ痛み、そしてその痛みから出てくる毒を寸止めにして、ぎりぎりのところでユーモア小説として成立させる。その痛々しいまでの鋭さと手腕には、「アングラ」の称号こそがふさわしい。

勝手にふるえてろ (文春文庫)勝手にふるえてろ (文春文庫)
(2012/08/03)
綿矢 りさ

商品詳細を見る
 
テーマ * 書評 ジャンル * 本・雑誌

 

 

 

 
およそ演劇ファンなら知らぬ者はない伝説的な研究集会。それは2008年に早大の演劇博物館が主催した『アングラの神話・反神話 国際研究集会 60年代演劇再考』だ。

演者の顔ぶれは空前の充実ぶりだった。劇作家・演出家は登場順に宮沢章夫、岡田利規(としき)、平田オリザ、故寺山修司に代わり令夫人の九條今日子と元天井桟敷メンバーの萩原朔美(さくみ)および安藤紘平、佐藤信(まこと)、蜷川幸雄、唐十郎、別役実。評論家は登場順に大笹吉雄、佐伯隆幸(りゅうこう)、松井憲太郎、扇田昭彦、デイヴィッド・グッドマン、菅孝行(かんたかゆき)、堀切直人(なおと)。さらに世界中の若き前衛演劇人(寺山修司、東由多加を含む)を育てたラ・ママ実験劇場(ニューヨーク)のエレン・スチュワート以下スタッフ四名。

三日間で計十一本の基調講演、対談、パネルディスカッション、シンポジウムがあった。当時病み上がりだった俺は、半分に少し欠ける五本聴いただけ。全部参加しておけばよかった。

この研究集会の全記録が本になった。それが今年の三月に出た本書である。合計十二時間超の膨大なテープを起こして文体をととのえ、演者の校正を得るのは気の遠くなる作業だっただろう。この労作によって歴史的な研究集会がわれわれの財産として残ることになった。

一見地味な本だ。研究集会のキャッチフレーズだった「アングラの神話・反神話」が省かれて、おとなしい書名になってしまった。装丁も地味だ。こうして、本書の外観からは内容の濃さが伝わってこない。当時この研究集会に参加したり、参加しなくても関心をもった人ならともかく、若い演劇ファンが書店で本書を手にとるという出会いのかたちは困難だろう。俺自身、発売直後に平積みになっていたのを目にしてはじめて書籍化を知ったというありさまで、背表紙しか見なかったら本書を手にとったかどうか疑わしい。

しかし、類書にうずもれて初版で絶版になってしまうのは惜しい。貴重な証言集というだけではない。アングラ演劇の表現者たちは、大文字の歴史に逆らってもがき苦しんだあげく、その「痛み」の中からもちかえった表現によって観客の共感をさらった。彼らと並走した評論家たちは、その「痛み」をともにしながら記録し、分析し、議論し、アジった。そして俺たち読者はその熱に感染してめまいをおぼえ、自分の立ち位置を「再考」せずにはいらいれなくなる。

かといって、決して難解な本ではない。すべて講演の記録だから口語で読みやすいし、一本一本は長くないので一気に読める(佐伯隆幸氏の講演だけちょっとむずかしい)。初心者には、扇田昭彦氏の講演が入門として役に立つだろう。

以下、俺が特に感銘をうけた四本について、感銘の「ツボ」だけを収録順に述べる。


・蜷川幸雄「演出家の役割」(聴き手=扇田昭彦)

櫻社の創立メンバーだった蜷川さんが日生劇場でシェイクスピア劇の演出をしたとき、商業演劇をやるとは何事かと、何十対一で吊し上げを食った。その後櫻社は解散に至る。この強烈なトラウマによって、蜷川さんは性格が変わってしまったし、以後、当時のできごとを封印し、人前で話す機会を避けてきたという。


・菅孝行「六十年代演劇の歴史的意義と現在」

戦前・戦後を通じて左翼演劇人によって担われてきた「新劇」は、全ソ作家同盟の提唱する「社会主義リアリズム」の統制を逃れえなかった。ソ連本国では、社会的リアリズムの統制に従わない芸術家が、異端の烙印を捺され処刑されていた時代だった。日本でも、モスクワの指令に背くことは、処刑されないにしても異端者として演劇界から追放されることを意味した(一方、戦中の「軍国主義リアリズム」は、社会主義とは真逆のイデオロギーを、同じ「リアリズム」の形式にはめこんだ代物だった)。戦後、「社会主義リアリズム」に和製スタニスラフスキー・システムが接ぎ木されて、演劇人の桎梏はいっそう強化された。欧米資本主義文化の猿真似が「鹿鳴館」だとすれば、それに対抗する軸だったはずの社会主義が、結局は権威への従属を強要するにいたったこの時代は、「逆鹿鳴館」というべき暗黒時代だった。そこで、六十年代演劇は、演劇を日常性の呪縛からも、政治的圧力からも、戯曲テキストの権威からも解放した。それは逆鹿鳴館的な「糞リアリズム」へのプロテストだった。


・佐伯隆幸「アングラの「亡霊」」

アングラ演劇は「反=政治性」によって特徴づけられる。それは「普遍」を僭称し、歴史の進歩を信じ、「現在の労苦は明日むくわれる」式のありえない希望を語って結局のところ問題をくりのべる、「新劇」のなまぬるい政治性への反逆であった。左翼の言う「世界革命」は不可能だ。しかし、世界のいたるところに(もちろん俺たちの日常の中にも)存在する不条理を目にして、自分の無力を自覚し、自分には何もできないことを知りながらも、魂の憤激をおぼえ、どうしても関与せずにはいられない、そういう瞬間に、俺たちは世界史と切り結んでいるのではないのか。そのとき、俺たちが表現の根拠としてゆいいつ頼りにできるのは、ご立派な言説ではなくて、自分自身の「身体性」なのだ。


・デイヴィッド・グッドマン「アングラの行方――運動、救済、革命」

(最後の一本は、国際研究集会の翌週に三日連続で行われた小規模なセミナーの記録である。)
明治政府は神道を国家の基盤に据えようとこころみ、徹底した宗教改革を行なった。廃仏毀釈によって寺院の八十パーセントを消滅に追い込み、民間信仰と結びついた諸芸能を弾圧した。歌舞伎界は社会的地位の約束と引きかえに卑猥な要素、不条理な要素を捨てさせられた。もっとも深刻だったのは、民間信仰と伝統演劇に内在する、死者を祀り、怨霊を鎮魂する機能の喪失であった。やがてこの急進的な宗教政策は緩和されるが、日本人の精神に限りないダメージを残した。しかもそれは表面にはあらわれず、意識下に鬱屈した不安と恐怖として抑圧された。こうして、「明治以降の日本の近代演劇や文学の仕事のひとつは、この鬱屈した意識を筋立てて説明し、意味づけることであった。明治政府によって封じられた日本の民間信仰の神々を日本の作家たちは文学の空間に解放しようとした」「アングラ演劇とは、……日本人の意識からほとんど消滅させられた神々や死霊を舞台の上で解放し、日本の近代演劇の使命を集団単位で果たそうとした演劇運動だったのである。河原乞食と自称し、神社の境内にテントを張って神々を呼び寄せることによって、積極的・意識的に明治維新以前の演劇の精神的・宗教的機能を取り戻そうとしたのである」


最後に、本書はこの研究集会を企画・運営した若き演劇研究者、梅山いつき氏の手になる初の単行本であることを記しておきたい。氏の活躍がなければ本書は誕生しなかった。また、本書の刊行からちょうど一か月後に、氏の博士論文の書籍化である『アングラ演劇論――叛乱する言葉、偽りの肉体、運動する躰』も刊行された。彼女の登場によって、六十年代演劇の本格的な研究がやっとはじまる。

六〇年代演劇再考六〇年代演劇再考
(2012/03)
不明

商品詳細を見る
 
テーマ * 書評 ジャンル * 本・雑誌

 

 

 

 
ものの本にこう書いてあった(誰の何という本だったか失念してしまった。失礼)。上司が部下に指示をだすとき、自分に関しては「棚上げ」しなくてはならないと。つまり、自分にできないことを部下に指示するにあたって躊躇してはならない。「上司として指示すること」と「自分にできるかどうか」は別の水準の問題であり、同日には論じられないというわけである。

同じことを日常の対人関係に応用してみたい。そこには「上司と部下」という問題系は存在しないけれど、上記と同型の「相互性」という幻想が俺たちの行動を根深く呪縛している。それを命題の形で記してみよう。

・自分が「他者からされたくないこと」を、他者にしてはならない。
・自分が「他者からしてほしいこと」を、他者にしてあげなくてはならない。

これら「相互性の命題」は一見疑問の余地がなく、この命題を守らずして人間社会は立ち行かないと思える。それは一応真理としてみとめよう。
しかし、これを絶対に犯すことのできない不動の真理と考えたら、俺たちはあまりに窮屈な思考を強いられ、身動きできなくなるだろう。精神に異常をきたすかもしれない。

実際には、俺が「他者から絶対にされたくない」と思っていることをされても平気な人は無数にいるし、俺が「他者からしてほしいと思っていること」をされたらかえって迷惑に思う人も無数にいるはずだ。ここにはさまざまな水準の問題系が複雑にからみあっているので、平面的な命題の形ですべてを理解した気になることは誤りなのだ。

それゆえ、自分を「棚に上げる」ことは許されている。いやむしろ、相互性の呪縛を解除して自由な判断を行なうために「棚上げしなくてはならない」とあえて言っておこう。 
テーマ * 心と幸せ ジャンル * 心と身体

 

 

 

 
Mari Hamada Live Tour 2012 "Legenda" 5月26日、中野サンプラザ公演をフル収録したDVDが12月5日に発売される。

Mari Hamada Tour 2012 “LegendaMari Hamada Tour 2012 “Legenda
(2012/12/05)
浜田麻里

商品詳細を見る
 
テーマ * ハードロック ジャンル * 音楽

 

 

 

 
俺の最高血圧は、病院とか人間ドックで測ると深呼吸しても126以上になる。しかしフィットネスで測ると108から118くらいだ。それで、血圧計の調整不足かもしれないと疑っていた。医療機関ほど厳密に管理する必要がないから、メンテナンス料を節約しているんではないかと。

その疑いが誤りであることに先日気づいた。
それは「軽運動」の時刻が迫り、ご老人の来館者が増えはじめる時間帯であった。血圧を測ろうとするご老人がもたもたしたために、俺は二つしかない(注1)血圧計の一つにありつくのが遅れた。直後に測った最高血圧は128だった。深呼吸し、測りなおしても同じだった。要するに、俺の通常の値より10から20高かったのである。
それで理解した。
フィットネスで、しかもリラックスした状態で出る108から118という値は、俺のリラックス時における最高血圧を正確に示しているようだ。人見知り気味の俺にとって、人と話さずにすむフィットネスはリラックスにうってつけの空間だから、ここで最も低い値が出ることは理にかなっている。
次に、対人関係の微弱なストレスがかかった状態、すなわち「ご老人のもたもた」とか、「主治医への報告=脱力バージョン」(注2)という状況では126とか128という値になる。
さらに強いストレスの場合(「主治医への報告=緊張バージョン」)は140代の後半にはねあがある。

しかし、対人関係のストレスは不可抗力ではない。ストレス状況は実在ではなく解釈にすぎない。問題はむしろ俺のこころのもちかたなのだ。つまり、
(1)ご老人がもたもたしたときに俺がストレスを感じるのはご老人の咎ではない。ご老人にはもたもたする権利があるし、それによって俺や周囲のこうむる迷惑など取るに足らぬ。
(2)主治医に病状を報告するときに模範的な患者を演じようとして緊張する(みずからストレスを生み出す)必要はまったくない。主治医は俺がどんな話しかたをしようと、必要な情報を聞き出すスキルをもっている(注3)。

こうして俺は「血圧」をキー概念とし、「燃費の高い生きかた」の点検をはじめた。すると、もっとも厄介なのが「プチ正義感」だった。交差点の近くに路上駐車するやつ、電車で足伸ばしてすわるやつ、酔って路上でわめくやつ、こういう輩をみかけたときに、俺はすこし胸苦しくなり(血圧が上がっているしるしだ)、行って小言のひとつも言いたくなったり、(電車の例では)そいつの足にけつまずきに行きたくなる。結局実行はしないのだが。
しかしその程度の不行儀が何だというのか。人には他者に迷惑をかける権利がある。迷惑の報いは避けられないけれど、それは本人が受けとめればいいことで、迷惑を差し控えさせる強制力にはならない。
ならば、こちらも自分の権利を行使して、平常心という選択、つまり「かかわらない」「影響をうけない」というひそかな決意をすればいい。
いらざる正義感のために心身のエネルギーを少しずつ浪費していたら、俺の心身のパフォーマンスはつねにその分だけ低下してしまうし、長い年月の間には膨大な損失になる。

(注1)フィットネスといっても市の体育館である。フィットネスであることは間違いないのでこの呼称で押し通す。
(注2)前々回のエントリ「燃費の高い生きかたをやめる」参照。
(注3)すべてのドクターがそうとは限らない。俺の主治医がたまたま優秀なだけかもしれない。 
テーマ * 心と幸せ ジャンル * 心と身体

 

 

*Template By-MoMo.ka* Copyright © 2012 まず深呼吸、一歩引いて気楽に行こう, all rights reserved.

Author:盛々夏野菜

男性、既婚、事務系サラリーマン。
現代思想フェチだが、本を読むのが遅いのであまり多くは読めない。地底人生活を経て現在は臨床心理に関心がある。新鮮な胡瓜が好き。
VBA Expert Standard Crown
VBA Expert Standard Crown

未分類 (1)
思想とメンタルヘルス (34)
シアター (8)
シネマ (0)
ミュージック (4)
デジタル (2)
自分を苦しめない暮らしかた (19)
全体は部分に優先する (9)
高橋和巳 (3)
アラン『幸福論』 (2)
自我の二重化という手法 (2)
鄭義信 (8)
浜田麻里 (4)
外国文学 (1)
日本文学 (10)
政治 (9)
マスコミ (3)
疑似科学・擬似医学 (3)
石原加受子 (2)
掌編小説 (7)

 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。