きゅうり

 

盛々夏野菜のハードエッセイ & ショートストーリー 【思想、心理、書評、劇評、感想、あらすじ】
 

 

 
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2年半前に発表のあてもなく書いたエッセイが出てきた。ブログを始める前なので、一人称は「俺」ではなくて「私」になっている。すこし難解だけど、よく書けているのでお目にかけたい。今以上に「癒し」を渇望していた当時の俺の心境がよく出ている。
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記憶がこころを癒やすのはなぜだろうか。

記憶といっても、愛情とか名誉とか美食の記憶のことではない。そういう記憶は私を幸福な気分にさせるかもしれないが、こころを癒やすわけではない。

ではどのような記憶なのか。それは、ありふれた風景の一部とか、日用品のいろ・かたちとか、街頭で聞こえてくる音楽とか、その他もろもろのはかない存在がほんの一瞬だけよびおこす、かすかな記憶の断片である。あまり遠くない過去に、何か記憶に痕跡を残すようなできごとが起こったにちがいないのだが、痕跡があまりにも微弱なので、今となってはそれがいかなるできごとであったかも、またそのできごとがいなかる印象を胸にきざんだかも、思い出すことができない。

それにもかかわらず、私はたとえようもなく深い安堵感につつまれるのだ。

そしてこの安堵感は次のような考察へと私をみちびく。未来というと、私たちはとかく自由と可能性にあふれた善きものと考えがちだけれど、私の原始的本能はそれとは逆の見解をもっているようなのだ。こいつの見解によれば、未来は善きものであるどころか、義務と課題と約束によって私を拘束するストレッサーであり、自由の敵なのである。

その一方で、過去の記憶こそは、それも、もはや解決済みで、可塑性を失い、現在と地続きではなくなり、わずかな興奮しかよびおこさなくなった過去の記憶こそは、拘束のおよばない別天地であり、自由の大陸なのだ。だから、私もしくは私の原始的本能(どちらでもよいのだが)は、このような記憶に出会うと、拘束なき世界をかいま見て、癒やされるのである。
 
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俺が胃の治療のため定期的に通っている病院では、問診を受けながら腕帯を巻かれ、血圧を測定されることになっている。それで、前回と前々回の受診時に、最高血圧が140を超えてしまい、気になっていた。
血管や心臓の心配をしているのではない。フィットネスで測るといつも120に届かないから、循環器系の問題でないことはわかっていた。

ではどうしたのか。ドクターから問診を受けるとき、俺はどうも立派な受け答えをしようとして緊張するようなのだ。目下の自覚症状を、誇張せず、過小評価せず、自分の解釈をまじえず、ありのままに言語化しようとする配慮のために、限界まで注意力を使ってしまう。そして話し方は早口・ハイトーンになる。もちろん無自覚にだ。
それで今回、問診の時に脱力を心がけた。その結果、覇気のない話しかたになってしまったけれど、最高血圧は126だった。

それで考えた。血圧を測る数十秒の間だけ、ドクターが質問を控えてくれればいいのにと。

しかしすぐ考えなおした。俺の「緊張」のほうが不要だと。ドクターの問診は、血圧を上げてまで身構えなければならないような危機的状況ではない。血圧126の話しかたで十分だ。この程度のことで血管に負担をかけるにはおよばない。
血管だけではない。アドレナリン神経を酷使すれば、全身が緊張して体力を失うばかりでなく、心的なダメージも溜まって行く。燃費の高い生きかた(注1)となり、なんでもない日常生活を送るのに巨大な肉体的・心的エネルギーが必要になるから、つねに疲労し、うなだれて生きねばならない。

次に、問診以外で俺が緊張する場面を思い出した。上司に報告する時と、初対面の人と話す時だ。問診の時と同じ早口・ハイトーンの話し方になる。
では、早口・ハイトーンになりそうな身体感覚を緊張の兆候とみなして、これを感知したら一気に脱力の方向へ身体のモードを切りかえるようにすればいい。
知(配慮)のレベルではなくて、身体感覚のレベルを意識することがコツのようである。

(注1)俺がこの言葉を知ったのは誰の著作だったろうか。小池龍之介先生かな、斎藤学(さとる)先生かな…。どちらかのような気がするが、両先生の本を十数冊ずつ読んでいるので、多くてチェックしきれなかった。あるいは全く別の人かもしれない。

せっかくだから両先生の代表作を紹介しておこう。

考えない練習 (小学館文庫)考えない練習 (小学館文庫)
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3.「特殊な力」と「普遍的な力」の違いは何か(第五章、第六章)

資本主義社会において、その実質的な支配者である資本家は、みずから武器をもって労働者を抑圧することはない。彼らは経済的な権力、すなわち「言うことを聞かない労働者を雇い入れずにすむ」という一見合理的な権力を振るうだけだ。その一方で、資本主義社会における階級対立は、対立を抑制する「国家」という名の暴力装置を誕生・発展させる。そして階級対立の抑制を必要とするのは資本家だから、国家権力はせんじつめれば資本家の手先といってよいのだが、階級対立が比較的落ち着いている間は、表面的には全国民の私有財産を守るという「まっとうな」目的に奉仕するにとどまる(もっとも、私有財産の蓄積にいちじるしい不均衡があるという事実は隠蔽される)。しかし階級対立が尖鋭化してくると、資本家は国家への関与(癒着、買収)を強めるので、国家はそのあつかましさをあらわにし、公然と労働者を弾圧することも辞さなくなる。こうして、資本家がみずから手を下さずに、国家権力をして労働者の抑圧に向かわしめる、その「媒介された=直接的でない」暴力の形態をレーニンは「特殊な力」と呼ぶ。

ここで「帝国主義」に触れておこう。資本家は労働者の搾取を「ほどほどに」しなくてはならない。労働者が労働力を再生産できなくなってしまうと、搾取することが不可能になるからだ。一方で、資本の論理は際限のない蓄積を強いる。ここでジレンマが生じる。労働者の搾取には限界があるのに、資本の論理には限界がないからだ。このジレンマを解決するために、資本家は商品市場および労働市場の(国境を越えた)拡大を画策し、政府を動かして領土拡張のための戦争に向かわせる。領土拡張にとり憑かれた、この悪辣な国家形態を「帝国主義」と呼ぶ。

さて、国家の「媒介された=特殊な」形態は、次のような事態を生じさせる。先に述べたように、資本家は、みずから手を下すことなく、国家権力をして労働者を抑圧させる。では、その国家権力を担う階級は何なのか。ここでいう国家権力とは、労働者を抑圧する暴力装置としての「警察」と「軍隊」を指すのだが。もちろん、これら機関の構成員の大半は労働者階級である。してみると、これは「頭」が資本家で「胴体」が労働者という怪物なのだ。では「胴体」が「頭」を乗っ取ったらどうなるだろうか。これがロシア革命で実際に起こったことである。かれらは労働者階級に属していたがゆえに、革命勢力に転向させることが可能だった。さらに、当時は第一次世界大戦のために多くの人民が駆り出され武装させられていた。それは革命勢力が一挙に強大な暴力を手にする好機だった。

そのとき、(警察、軍隊の)労働者が行使する力は労働者自身のための力となる。つまり「特殊な=媒介された」性質を失い、「普遍的な=直接的な」力へと変化する。レーニンによれば、これこそが革命の瞬間である。
さらにいえば、ここにも第二章で述べられたレーニンの「現実主義」思想が息づいている。「いまここ」にないものへの夢想を革命の基盤にするのではなく、あくまでも「いまここ」に存在するもの(ここでは警察および軍隊の労働者が担う国家権力)を素材として革命を成し遂げんとする思想だ。

白井聡『未完のレーニン』のツボ(前編)

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先日、俺はコンビニで「マウントレーニア・カフェラッテ(240ml)」、「雪印コーヒー(500ml)」、「メグミルク・クリームスイーツコーヒーゼリー(120g)」のどれを買おうかと悩んでいた。いくら考えても決め手がなく、結論が出なかった。

それでまず、考える負荷を減らすために、メーカーと価格(失念)とカロリー表示を気にするのをやめた。「衛生上の問題を起こしたことのない良心的なメーカーの製品」が欲しいわけでも、「価格の安いもの」が欲しいわけでも、「糖尿病リスクの少ないもの」が欲しいわけでもないと気づいたからだ。問題はあくまでも俺の欲望なのだが、俺はここで、その欲望が倫理的、経済的、医学的な正当性には制約されないということに気づいたのだ。

次に、これしきのことが決められずにうじうじしている自分が恥ずかしくなり、即断即決で決めたくなった。この方式で決めるとすれば「雪印コーヒー(500ml)」しかなかった。しかし、まもなくこの決め方は即断即決というよりもむしろ「やけっぱち」であることに気がついた。俺には、深刻ではないが、飲食でストレスを解消する傾向がある。そういうとき、俺は「ストレスの刺激を制するに他の刺激をもって」しているのであって、飲食を楽しんでいるわけではない。実際、あまりおいしいと思っていない。無意識的には、わが胃を刺激して痛めつけるマゾ的快楽のために飲食しているといってもいい。そういう目的では、量が多く胃にずしりとくる「雪印コーヒー(500ml)」が最適であった。こうして、俺が「やけっぱち」な衝動に身をゆだねたとき、無意識的思考の正確無比な計算により、一瞬にしてこれが選び出されたというわけなのだ。そんな思考を信用するわけにいかない。

ところが、これで俺はメーカー、価格、カロリー表示、衝動のいずれもあてにできないことになり、八方塞がりになってしまった。

そのとき、わがブログのタイトルを思い出した。そして、まず深呼吸した。次に、上の問題から離れるために、コーヒー飲料の売り場から一時退却し、雑誌売場へ移動した。そして、一分後にもとの場所にもどった。

それでわかった。俺が欲しかったのは「コーヒーゼリー(120g)」だった。 
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1.世界初の社会主義革命に成功したレーニンの思想は、他の思想家のそれとどこが違っていたのか(第二章)

・無政府主義者との違い

無政府主義者は、ブルジョア国家を破壊するに足る強大な力(暴力)を措定しながらも、ブルジョア国家破壊の後、この強大な力のゆくえがどうなるかについて何の展望ももたず、その力が自然消滅するという空想的な考えしかもたなかった。それゆえに、彼らの思想は無力なユートピア思想にとどまった。
一方、レーニンは「ブルジョア国家の破壊」と「国家なき社会の実現」との間に、過渡的形態としての「プロレタリア独裁」という暴力が必要と考えた。

・カウツキーとの違い

学者カウツキーは、革命を可能ならしめる客観的条件を科学的に探求した。しかし、階級社会から革命後の社会への移行を「質的変化」として把握する場合、つまり「無」の中から革命が立ち上がり、階級社会に取って代わるという図式で理解する場合、あらゆる科学的正当性は、革命の成功という現実性について何も約束することができず、傍観することができるだけだ。
一方、職業的革命家レーニンにとって、革命は可能性でも必然性でもなく、現実性であった。つまり革命(そして階級社会のたそがれ)は萌芽の形ですでに始まりつつあり、「起こす」とか「起こさない」とかいう選択はすでに無効になっている。したがって、革命家の使命は、このすでに起こっている革命を後退させないこと、そして「量的に拡大」することだけなのだ。


2.レーニンが修正マルクス主義やテロリズムと対立したのははぜか(第三章、第四章)

修正主義とテロリズムは「自然発生性への拝跪」という点で共通している。
修正主義の称揚する自然発生的な労働運動は、条件の相対的な改善という短期的利益を引き出すだけで、階級社会(資本主義)のもたらす悲惨には指一本触れることができないばかりか、むしろそれを延命させる。
そして、テロリズムは改革の情熱だけを暴走させ、それを社会的な運動として組織して行くことができない。
どちらも目先の満足にとらわれて「革命の大義」を見失っている。
労働者の置かれた悲惨な状況は、「労働力の商品化」というトラウマ的なできごとによってもたらされた病理であり、対症療法的に満足を処方していても解決されることはない。むしろ、これら目先の満足に対しては禁欲的態度をとり、現象の深みにあるトラウマ(資本制)を絶つことに全力をそそがなくてはならない。

ロシアの知識人はブルジョア階級の出身者が大半を占めていた。彼らは「人民の殺害」(人民の犠牲)の上に自分たちが存在していることに「疚しさ」を感じていた。こうして彼ら(ナロードニキ主義者)は「悔悟する知識人」となり、自然発生的に、密かな功利的計算にもとづく「人民との和解」、すなわち修正主義的な「目に見える成果」「人民の生活の即座の向上」を旗印にしたのだ。しかしレーニン(と彼のイスクラ派)はこういう論理からきっぱりと手を切り、「教条的に」革命の大義を追い求める。なぜなら「人民との和解」は、真にトラウマ的なできごと、つまり「労働力の商品化」というできごとを撃つことができず、現在の世界の中で被抑圧者人民を「相対的に」解放することしかできないからだ。真の解放は「疚しさ」「和解へのあせり」の「外へ」出て、革命の鬼となり、現存する世界とは別の世界へと人民を導くことによって可能となるのだ。

(つづく)

白井聡『未完のレーニン』のツボ(後編)

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(2007/05/11)
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この章では、ジャン・ジュネの悲惨な生涯において、前章で述べられた「原ユートピア」つまり「現実の反転」がどのように機能したかを概観する。

(1)彼が「歌」と呼ぶ創作活動は、混沌として悲惨な日常に秩序を導入し、現実を受容しうるものとするために不可避な活動であった。もっともそれは彼特有の秩序だけれど。

(2)「犯罪行為」(たとえば殺人)は、殺人事件に動揺する周囲や、司法組織を再創造することによって、無意味な恐ろしい世界に「意味」を導入し、一時的であるにしても彼の自我を安定させる。

(3)裏切りに伴う「後悔」や、死刑の「不安」という情動は彼を耐えがたくさせる。こうして、仲間への裏切りは後悔を消去することによって聖なる「ダイヤモンド」に反転し、死刑はそれにともなう不安を消去することによって「薔薇」という聖性に反転する。

(4)彼が生存のために必要としたこの「情動の消去」は、彼によって「愛」と名づけられている。

(5)彼の「歌」は、常に意味の手前にとどまり、他者との接続を拒否し、すべての経験を乾いた「結晶」へと反転させる。なぜなら、彼の現実はあまりにも疎外的であるために、意味を生成させたり、他者とつながったりすれば、強烈な情動が流れこんで彼を絶望させてしまうからである。つまり、彼の「歌」=創作=世界認識は「情動の消去」を根本原理としている。こうして、孤独であることは彼が生存するための条件なのだが、それでもやはり孤独であることは耐えがたい。そこで、彼は「不在の誰かとのつながり」や「死者との婚礼」という幻想を必要としたのだ。なぜなら「不在の誰か」も「死者」も情動を喚起しないから。

治癒の現象学 (講談社選書メチエ)治癒の現象学 (講談社選書メチエ)
(2011/05/12)
村上 靖彦

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人の心には、健康を保証するための「安定装置」とでも呼ぶべき能力が生得的に備わっている。それは「現実の反転」を可能にする。つまり、大切な人の死に直面したとき、意図しなくても、空想(たとえば夢)の中でその人を蘇らせ、出会うことができる。この能力を「原ユートピア」と呼ぼう。

(つづく) 
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フランソワーズ・ドルトの症例レオンは、三歳半までの間、椅子にベルトで固定された状態で一日の半分を過ごし続けた。彼の障害は運動能力の未発達だけではなく、無表情、無気力など多岐にわたっていた。運動が制約され、運動感覚が触発されなかったため、空想身体の作動する余地がなかったのだ。
ドルトの提案で粘土細工をはじめた彼が最初に作ったのは四本の「ソーセージ」だった。これは彼のバラバラな身体感覚のメタファーになっている。実際、そのときの彼は身体のコントロールに成功していなかったため、歩くこともままならなかった。そしてソーセージという作品の無意味さ(粘土を丸めて延ばしただけ)は、彼が現実触発を処理しようとしたものの失敗し、「意味」を産出するに至らず、未分化で硬直した「幻想」の状態にあることを示している。
その後のセッションで彼は「椅子」を作り、ソーセージの発展形である「人形」をその椅子に乗せる。これは彼の創造性が開花し「空想」が可能になったことと同時に、身体感覚の回復をも示している。実際、彼は歩くこともうまくなってくる。

以上の治療過程を可能ならしめたエンジンは、治療者ドルトの「つながろうとする(空想を共有しようとする)」欲望と「レオンを触発している現実を知ろうとする」欲望である。後者はラカンの「分析家の欲望」に等しい。治療者が「知りたい」と表明することは、レオンの空想世界に「探求すべき謎(未知のX)」を導入し、彼の現実を構造化する。
なお、この構造化は「原因志向的」ではなく「解決志向的」であるべきだ。つまり、「あなたの悩みを知りたい」と言うべきではなく、「あなたが本当にしたいことを知りたい」というべきなのだ。

レオンの回復過程では、「歩く能力」と「話す能力」の獲得が並行して起こっている。この事実は「言語構造の身体への書き込み」が重要であることを示している。つまり、単に「文法を学ぶ」とかいうことではなく、「行為」と「発語」のダイナミックな連動をくりかえし体験することによって、言語を「身体で覚える」ことが重要なのだ。
そして健康な身体にあっては、言語は抑圧の装置ではなく、創造性の装置として機能する。

(つづく) 
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Author:盛々夏野菜

男性、既婚、事務系サラリーマン。
現代思想フェチだが、本を読むのが遅いのであまり多くは読めない。地底人生活を経て現在は臨床心理に関心がある。新鮮な胡瓜が好き。
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