きゅうり

 

盛々夏野菜のハードエッセイ & ショートストーリー 【思想、心理、書評、劇評、感想、あらすじ】
 

 

 
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引きつづき箇条書き方式とする。なお、括弧つき数字は節の番号と一致していない。

(1)ここまでの章でも暗黙のうちに示唆されていたことだが、「心理療法」や「会話」、「ごっこ遊び」において、二人は一つの「空想世界」を共有する。そこでは言語を介さない「空想内容の伝達」が起こる。これを「超越論的テレパシー」と名づけよう。このテレパシー現象は自然発生的であり、意志の力でコントロールできない。私にその気はなくても、私の内部に相手と同じ空想が自然にめばえる。

(2)「ごっこ遊び」は、「実際の対人関係」の上に「空想の対人関係」を重ね、二つ層が同時に有効に作動する、高度なコミュニケーションだ。

(3)空想世界の共有(超越論的テレパシー)は、私の中で他者性の基盤となる。単なる外部入力(刺激)の集合ではない、空想をはぐくむ器としての豊かな他者性に、私はここではじめで出会うからだ。そして、私はその他者性・異質性を支えとして自他の分離=自己の固体化をなしとげる。

(4)創造性の担い手たる「空想」の対局に位置する、病的にして硬直した想念が「幻想」である。幼児期の感情生活に起源をもつこの想念は、可塑性が皆無であるために、他者の空想と接続する余地をもたない。

(5)そして治療者との対人関係に侵入してくる「幻想」が「転移」であり、精神分析家の身体はこの「転移」に巻き込まれることによって「幻想」に感染し、接続を実現する。

(6)「幻想」は他者の空想に接続することがなく、この世界に居場所をもたない、不可能な異物であるが、その得体の知れなさ・異物性(注1)は「違和感」として感染する。転移のスペシャリストたる精神分析家は、これを治療の手がかりとして使う。
ウィニコットは、難治性の神経症患者の男性と話していて、「女の子」と話しているような違和感をもった。やがて、患者の母親が彼を女の子として育てようとしたらしいことが明らかになった。こうして彼の「幻想」は理解可能となり、他者の空想との健康で創造的な関係を回復していった。

(注1)(3)の「異質性」とはまったく別物

(7)「幻想」を産出せしめる病的な基盤は、「基礎的視線触発」すなわち「他者の見守る視線」における歪み(たとえば母子関係の破綻)であろう。

(8)上記(6)の主客を入れ替えて患者側から「転移」の現象を記述すればこうなる。「神経症や境界性人格障害では、患者は相手の空想身体と接続する代わりに、自分が作ったステレオタイプなイメージ(幻想)を相手にあてがう。相手と交流しているつもりで、自分の幻想の中を生きている」

(9)そして、「転移が精神分析の起点となるのはこの相手のあてがう役(幻想)への入り込みという点においてである。固定した幻想のなかの亡霊的な他者(注2)に治療者が入り込み、この入り込みを突破口として空想の接続と接続と可塑性を回復させることが対象関係論系の精神分析であると定義できる」

(注2)(6)の母親のように、自分の歪んだ欲望を主体に押しつけ、自分が死んだ後でもなお主体を支配しつづける他者のことを言っている。

(10)「この亡霊的な幻想はそれとして表現されることもない」が、「こうして患者の空想表現の型に治療者がシンクロしたときに初めて患者の硬直した型が変容し始め、回復や成長が起こる」

(11)上記の場面の後、ウィニコットは、自分も相手も予測していなかった思いがけないことを口走り、自分でも驚いている。このように、創造性は「二人の双方にとってまったく新たなもの」をもたらす。

(12)こうして「空想世界の共有」は私の可能性の幅を広げ、成長=回復を成しとげ、現実への耐性を強化する。

(つづく) 
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本章の論理構造は複雑にして重層的であり、論理の運動を正確にトレースして語るには無限の労力が必要のようだ。よって、労力の節約と、俺自身の嫌気がささないための保険として、前章と同様に箇条書き方式とする。なお、括弧つき数字は節の番号と一致していない。

(1)ここで「創造性」という概念が導入される。「言語記号は意味される対象を指示するが、並行して行間に「意味」が生まれる。行間の「意味」は直接対象を指し示すわけではなく、間接的に対象を修飾する。そうして既存の意味を超える新たな「意味」を創造する」そして「意味」を自由に産出する機能・能力を「創造性」と呼ぶ。なお、「創造性」の重要性についてはウィニコットが的確に述べている。「創造的に生きることが健康な状態であり、過度の従順さは人生にとって病的な基盤なのだ」

(2)臨床場面で治療的・創造的な「意味」の産出がはじまるに先立って、一時的な「沈黙」の支配が必ずおとずれる。これは心的外傷を受ける以前の、弛緩した「無」の状態にいったん遡り、心的にリセットされた状態となること、言いかえれば、現実界の触発から距離をとりうるリラックスした状態となることに、治療的な意義があるからである。少し先回りして言うと、「夢」においてこの「沈黙」に対応する機能は、「夢」がはじまるまでの「純粋睡眠」の時間である。

(3)「意味」の生成は自律する運動であり、意志によってコントロールできるものではないが、否応なく「型」の影響を受ける。「型」は視線触発を受容するにあたって空想身体が獲得し発展させる「対応能力」である。これは作家の文体、画家の画風、俳優の所作と同じ種類のものである。そして病気は「型の作成の失敗」であり、回復は「型の作り直し」である。

(4)(ここいら辺がおそらく「空想身体」論のキモにあたる。)芸術家の創作能力は、観察眼や、入念な準備、日頃の訓練という意志的努力だけでは説明できない。むしろ「彼自身の肉体よりも柔軟な」空想身体が作動し、彼のかわりに最適な「型」をみいだす。

(読解者注。ここで少し本文を離れ、俺たちが日常で出会う「空想身体」の働きを見ておこう。第一に、モノマネ芸人の能力である。観察眼に優れ、細部の扱いに秀でているだけでは一流のモノマネ芸人になれないだろう。彼の「空想身体」は大物歌手の身体に共鳴し、そのトータルな身体感覚をたよりに歌唱を再現する。第二に、あくびの感染である。生理的にはあくびの感染は起こりえない。空想身体が他者の身体に共鳴してつりこまれるのだ。第三に、重大な決断を迫られたとき、精緻な情勢分析よりも、むしろ尊敬する先人の身体に共鳴し、彼ならばどうしたかと考えるほうが、正しい結論に至る近道であることを、俺たちは経験的に知っている。)

(5)上の注で述べたことにもかかわるが、空想身体の「非人称的」性格を強調しておかねばならない。空想身体は私の自我(つまり意志、意図、観察、分析)とは独立して、自律的、自己組織的に作動する。

(6)不健康なタイプの現実触発は、現実の中に秩序化不可能な矛盾や葛藤をはらむ。それゆえに空想身体は作動することができず、「意味」は産出されず、不安が引き起こされる。この不安には身体の硬直(緊張と不快感)がともなうが、それは「空想身体」の硬直が「生身の身体」に影響するからである。

(7)すでに述べたように、夢は現実界からの触発を馴致して無害化する。この過程において、睡眠と夢の治療的機能の核は、現実から距離をとる働きであった。ところで、夢(と夢を生成せしめている空想身体)が現実触発の処理に行き詰まったときは、距離を取るための「覚醒」が起こりうる。したがって夢だけが治療的なのではない。治療的なものの本体は「距離を取ること」なのだ。

(8)これと反対に、真性の悪夢では、主体が現実界の圧力を処理できなくなってパニックを起こす。そのとき現実触発、空想身体、生身の身体の間の距離は消失して混沌となる。そして覚醒と睡眠の間の距離も消失し、不眠に陥る。空想身体が作動しなければ、現実触発は生理学的な身体の審級へと排除され、身体症状としてあらわれるよりほかない。

(9)空想身体が「意味」生成の能力であるならば、その能力が活躍する場(地平、外延、空間)が必要である。本書ではそれを「意味のスクリーン」と呼ぶ。

(10)一方で、空想身体はその土台・前提として「他者の見守る視線」を必要とする。主体が不安をのりこえて成長しようとしているとき、すでに述べた「沈黙」とともに、他者(両親または治療者)がつねに見守っているという確信が治療的に作用する。この「見守る視線」が十分に作用すれば、やがて子どもはこの視線を内面化し、ひとりでも困難に立ち向かえるようになる。この「見守る視線」のことを「基礎的視線触発」と名づけよう。

(11)上記の「見守る視線」は、「沈黙」や「睡眠」において露出する。つまり、「沈黙」と「睡眠」は空想身体が活躍する前の「空白の時間」であるから、空想身体に由来する身体感覚やイメージに埋もれていない、ナマの「見守る視線」をとらえることができる。健康な人の場合、それは「心強さ」や「ひとりではない感覚」であろう。土台(見守る視線)の壊れている人の場合、それは恐ろしい「解体の感覚」や「落下の感覚」としてあらわれる。

(つづく) 
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この章は「不安」の描写にあてられている。本章に記載された不安の特徴を列挙する。
(1)得体のしれない未来が切迫する。
(2)ネガティブな予感にとりつかれる。
(3)傍から見れば不合理で杞憂にすぎなくても、本人にとって破局の予感は反証不可能である。
(4)生命力の枯渇がともなう(喜怒哀楽が消失し、行動は生気がなく機械的になる)。
(5)不安の本体はつねに「生存が不可能になること、つまり社会から排除されることへの恐れ」「人間関係を剥奪されることへの恐れ」である。
(6)たいていの場合、不安を触発する現実は「矛盾する社会的な規範や文脈の交点」にある。規範と規範のはざまで生存が不可能になり、言語化(「意味」の生成)も不可能になる。
(7)不安には「足の冷え」「震え」「しびれ」「喉や首の圧迫感」「胃の収縮」という身体感覚がともなう。しかし生理的な身体が低温状態に置かれたり、首を締められたり、刺激物をのみこんだわけではない。すると、この身体感覚は「知覚」レベルではなくて「空想」レベルに端を発している。この事実は、現実界の触発を受容する器は「空想身体」であるという、1章の主張を間接的に証拠立てる。

(つづく) 
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本書の要点は「空想身体」「視線触発」という二概念の提案と、これらの概念が「治癒」「回復」の現象学に与えるインパクトである。これらの強力な概念は、一見無関係な諸経験の間の有機的・立体的な関連を次々と明らかにし、不可解な経験を理解するための途を開くだろう。
以下の読解は、本書の正確な要約を目的としていない。本書を読み解く旅から俺がどんな刺激をうけ、何を持ちかえったか、そのあたりを中心に述べる主観的レポートである。
(以上、読解者のまえがき)
(以下、1章の読解)

夢には「視覚的イメージ」の側面と「身体感覚(運動感覚)」の側面がある。後者(「身体感覚」)は前者(「夢イメージ」)に先行して存在し、「夢イメージ」生成の器となる。そして「夢イメージ」の出現後も「夢イメージ」と並行して存在しつづける。この「身体感覚」を「空想身体」と名づけよう。身体感覚といっても、夢の中の(空想上の)感覚であって、夢見る人の生理的な身体感覚とは厳密に区別される。

一方、「空想身体」に夢生成をうながす現実からの入力(触発)が存在する。つまり「眼差される感じ」「呼びかけられる感じ」である。これを「視線触発」と名づけよう。ただし「視線」という接頭辞にあまり意味はない。空想の中では、触発者が視線であったか、声であったか、接触であったかは重要でない。問題は、刺激の来歴ではなくて、「夢によって馴致され、無害化されることを必要とする、現実の耐えがたさ」であり、その「切迫」なのだ。これをラカンは「現実界」と名づけた。

では、夢の空想世界が現実界からの触発をのみこんで無害化する「治癒的な力」はどこからくるのだろう。著者は「距離を取る仕組み」だと述べる。現実界からの触発(視線触発)は、夢生成をうながしたあと、夢の中に入って他者像になる。しかし夢の中は私の主観世界であるから、夢の中の他者像はすべて私の分身(自己意識)である。こうして、夢の中では「私が私に対して距離をとって眺める」構造が成立する。

さて、本章の素材として取り上げるのはフロイトの「イルマの注射の夢」であるが、その前半(第1幕)では、現実界からの触発を馴致することに成功していない。したがってそれは「不安という情動」、「喉が締めつけられる身体感覚」、「腫瘍のイメージ」としてあらわれる。「腫瘍」の得体の知れなさは、夢における「意味」の産出が挫折したことを示している。
後半(第2幕)では、三人の新しい人物が登場して喜劇を演じる。この三人のおしゃべりによって不安は解消し、自然治癒が得られる。ここで「治癒」のポイントは二つある。一つは、空想身体が象徴構造(「意味」の産出能力)を回復したために、意味(差異)の導入によって現実触発の圧力から自分を切り離し、距離を取ることが可能になったこと。もう一つは、おしゃべりの中に「笑い」の要素、つまり「ルールを外れる意外な創造性の許容」が出現し、現実触発の圧力によって強いられていた苦しい「金縛り」状況からの解放が実現したことだ。

(つづく)

治癒の現象学 (講談社選書メチエ)治癒の現象学 (講談社選書メチエ)
(2011/05/12)
村上 靖彦

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4章

この章は、「フクシマの危機」と、キリスト教神学における「神の国の到来」を同一視するという、にわかには受け入れがたい逆説を軸として展開する。ではこの逆説の意味を考えよう。
洗礼者ヨハネは「悔い改めよ、神の国は近い」と言って世捨て人となり、禁欲生活を送った。イエス・キリストは「神の国はあなたたちの中にある」と言って、弱者を悲惨から救うため権力に反抗した。両者の違いはどこからくるのか。ヨハネの存在のモードが救済の繰り延べ(したがって傍観)であるのに対し、イエスの存在のモードは「神の国の到来」以後、いいかえれば、(イエスという)救世主が到来してしまい、救済(革命)の刻限を迎えた人間の責任の重さを示している。「神の国の到来」とは自動的に救済がおとずれるユートピアではなく、神の国にふさわしい正義を実行する責任を負うことだ。フクシマの危機は、脱原発の決断を強いる破局であったがゆえにこれと重なる。江夏豊の「奇跡の投球」も、ぎりぎりの覚悟をもって、例外状況を繰り返し体験した者にしてはじめて可能なプレーであった。


5章

脱原発や格差社会の克服という大規模な社会変動の担い手として、著者は「プロレタリアート(下層労働者、失業者)」の概念を復興する。日本のプロレタリアートは、さまざまな事情から政治的に不活性な状態に置かれているが、大衆を嚮導する前衛党という図式はもはや通用しない。ではいかなる指導者が必要なのか。ここで考えてほしいのだが、階級闘争とは、支配階級、そして闘争の主体たる被支配階級自身の両方について言えることだが、彼らの言説=公式見解(発話内容)を変えさせることではない。そうではなくて、ご立派な公式見解にもかかわらず、物神化の機制により、無意識のうちに貨幣や原子力に執着してしまう傾向(発話行為)を変えさせることなのだ。階級闘争の主体が「自由に」物を考える場合、結局のところ物神化の機制にとらわれ、支配階級の言説に回収されてしまうだろう。だから彼らが無意識の洞察に到達するためには「他者という外部性」がどうしても必要だ。ではいかなる他者か。ご立派な「真理」の担い手としての他者ではなく、「真理」を躓かせる他者である。すなわち、一人はおのれの無知を武器として問答法を用いるソクラテス的「無知なる指導者」、もう一人は、十字架の上で神への不信を表明し、真理の担い手でありながら真理に疑問を呈するキリスト的「懐疑する指導者」である。ついでに言っておくと、「未来の他者」を代弁できるのも彼らであろう。




では、上記のような「無知にして懐疑する指導者」の審級を、観念としてではなく、実際の機能として、政治の場面にいかにして導入するか。もちろん、そんな都合のいい方法がそう簡単に見つかるはずはない。そのことを重々承知のうえで、著者が一つの試案として提案する(ラカン的)方式は、政策決定を担う委員会と個々のメンバーとのあり方を変更することである。委員会のメンバーAが委員会に対して意見を述べるとき、Aは権威の担い手たる委員会に直接出頭するのではなく、委員会のもうひとりのメンバーである媒介者Mに語る。このようにして委員会という「絶対的権威」に代えて「他者という外部性」を強制的に導入するというわけである。

(読解終わり)


(以下は盛々夏野菜の私見)
著者の発想が熟しきらないうちに急いで執筆され、尻つぼみの結論になってしまったような印象を受ける。もちろん、そのことは著者も承知の上であろう。哲学的思索を、政治的に実効ある行動に接続することは容易ではない。困難な結論を出すよりも、論点をはっきりと提示することが本書の役割であったと、割りきって考えるべきであろう。

しかし、本書の(仮の)結論は納得できない。俺の経験上、意見を述べる時は権威の本丸に直接乗り込むのが最も効果的であった。媒介者を引き受けたふりをして自己保身に走り、権威の言説には一切変更を迫らないばかりか、意見したこちらに失点をつけようと画策する輩が多すぎるのだ。

夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)
(2012/03/07)
大澤 真幸

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新書だから一日で読めるだろうと思い、読み始めて後悔した。本書は原発に関する哲学的考察なのだが、筆者はその該博な知識を使って知のフィールドを縦横無尽に駆けめぐり、逆説につぐ逆説を繰り出しながら、問題の本質に切り込んでいく。そしてしばしば読者は置き去りにされる。3.11から一年以内に刊行するという、著者がみずからに課した制約も影響しているのであろう、スピード感をもって執筆された本書は、節と節、章と章のつながりが見えにくい論考となっている。というわけで、以下の解釈では、枝葉の部分は飛ばし、議論の骨格となる部分の「つながり」を重視して記述してみたい。
余談であるが、「ドイツ観念論から江夏豊に至る幅広い知識」「逆説につぐ逆説」という本書のスタイルは、スラヴォイ・ジジェクを彷彿とさせる。おそらく、本書はジジェクを強く意識しながら書かれている。
では、余談はここまでにして解釈をはじめよう。




3.11の詩的(トラウマ的)真実という悪夢に、安易な解釈を与えて覚醒(日常の言説に回収)してしまうことは許されない。悪夢の中に内在してもがき、そこから、そのトラウマ的体験につりあう真実をつかみ出さなくてはならない。先回りして言えば、その真実とは「脱原発」である。


1章

3.11に代表される圧倒的な破局は、倫理の土台をゆさぶり、その虚構性を明るみに出してしまう。フクシマの危機が起こるまで、日本人にとって、いや少なくとも政府と東電の周辺の人びとにとって、高い経済効率を約束する原発の使用は倫理的に正しかった。しかしこの「倫理」は偶然に依存していたことが明らかになる。なぜなら、原発事故が現実となった今、彼らは倫理的に誤っていたのであり、免罪される余地はないからだ。いいかえれば、この倫理は「事故が起こらない」という偶然に支えられていたのである。では、倫理の有効性を消滅させるに足る大きな破局を迎えてしまった現在、われわれは何をどう考え、行動すればよいのか。議論のヒントになりそうな教訓的事実を二つ述べておこう。

A.イラク戦争は、アメリカの指導者が発明した「先制防衛」というトンデモ用語を根拠として実行された。9.11の破局を経験し、米国本土への攻撃が可能性ではなく現実となったことに衝撃を受けたアメリカの指導者は、イラクの可能的(潜在的)な脅威を、潜在的として捨て置くことができなくなり、未遂だが現実的とみなすにいたった。現実的である以上は防衛しなくてはならないという論理だ。この最悪の決定は、日常を戦争状態へと反転させる結果となり、数々の悲惨を招いた(が、ここで筆者が言いたいのはそこではない。フクシマの危機を経験した日本で、原発の潜在的な危険性が、現実的な危険性に変質したことを指摘したいのだ。そしてこのテーマは4章で「神の国=破局」の到来をめぐる議論に引き継がれる)。

B.フクシマ危機のような原発事故が論理的には起こりうることをわれわれは知っていた。しかし同時に、実際にはそんなことが起こるはずはないと思っていた。「(理性では)知っていながら(無意識的には)信じていない」という病理だ(このテーマは2章および5章の「アイロニカルな没入」「物神崇拝」をめぐる議論に引き継がれる)。


2章

日本は唯一の被爆国であり、核を嫌悪し、これを批判してきた。しかしその一方で、原発を積極的に導入し、今や世界第三位の原発大国となっている。その原発依存ぶりは、原発のもたらす経済効率の追求という論理ではだけでは説明しきれないほどにに熱狂的だ。ではこう考えられないか。「日本は、核アレルギーがあるにもかかわらず、原発を積極的に導入したというのではなく、まったく逆に、核アレルギーがあるからこそ、原子力に魅了され、その導入に熱心になったのだ」と。この病理は「アイロニカルな没入」(注1)という概念を使うと理解しやすい。つまり、意識の水準では「ただ経済的に都合がよいから」という冷笑的(アイロニカル)な態度で原発に対して距離を置いているが、実際の行動を見てみると、原子力に魅了され、熱狂しているとしか考えられないのだ。これは貨幣に対するわれわれの態度(物神崇拝)と同じだ。なぜなら、われわれは意識の水準で「貨幣などただの道具にすぎない」とわかっているのに、行動の水準では命がけで貨幣を追い求めるのだから(この「物神崇拝」のテーマは5章で再び取り上げられる)。

(注1)ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』中の「イデオロギーの一形態としてのシニシズム」で詳しく論じられている。


3章

圧倒的な破局にもかかわらず、なぜ脱原発が支持されないか。これが3章のテーマである。
まず、われわれが「ソフィーの選択」のように、二人の子どものどちらかを選べ(選ばれなかった子どもはナチによってガス室に送られる)と言われたら深く苦悩するだろう。しかし「偽ソフィーの選択」、つまり「子どもと1億円のどちらかを選べ」と言われたら、迷う余地なく子どもの方を取るだろう。ここで「子ども」を「人類」や「生態系」に、「1億円」を「経済効率」に置きかえれば、ただちに原発存続の問題が得られる。したがって迷う余地はないはずなのだ。しかし、日本ではこの「偽ソフィーの選択」が人びとの心を動かさない。
それでは、「偽ソフィーの選択」が人びとの心を動かした国々を見てみよう。ドイツは、フクシマの事故の二か月半後に全原発の停止を決定した。イタリアは、事故の三か月後に原発建設を断念した。フランスは原発大国だが、事故の三か月後の世論調査では、国民の八割が脱原発を求めている。
上記のような「日欧の差」は、キリスト教の伝統、つまり終末論思想によるものであろう。終末論思想は、歴史の終点というべき究極の未来から現在を評価する視点を有するために、「未来の他者」への想像や配慮を含む。そして「未来の他者」こそは、彼らを見舞うかもしれない破局(絶滅?)の名のもとに、われわれに倫理的判断(脱原発)を迫る資格をもつ他者なのだ。では、終末論思想をもたないわれわれ日本人にして、この「未来の他者」といかにして出会えばよいのか。というより、出会う手だてはあるのか。ある、というのが著者の立場である。どこに。われわれのうちにだ。「救済されるための手だてがあるのにまだ実行されていない」「われわれの生存に敬意が払われていない」という事実は、自覚されないままに「憂鬱」「不安」「閉塞感」としてわれわれの存在に貼りついている。言ってみればそれは「未来の他者」の現在への反響であり、「未来の他者」の現在における存在のあり方である。しかしいかんせん自覚されていない。したがって、それをいかにして自覚に導くか、明るみに出すかが以後(特に5章)の仕事となるだろう。

(つづく)

夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)
(2012/03/07)
大澤 真幸

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7月4日発売の本書を8月2日に買ったら、すでに第2刷だった。
地元の大型書店(オリオン書房ノルテ店)には平積みが二山あった。そもそもPHP文庫の平積みスペース自体、お世辞にも広いとは言えないのだが。
石原加受子先生の著書が広く受けいれられている証拠であろう。今や、日本のメンタルヘルス書籍は同氏を抜きにして語ることができない。知識を得るためでなく、自分の心の健康だけが目的ならば、専門書を読むよりも同氏の本を読んだほうがいいかも知れない。

かまえて読みにかかると拍子抜けするくらいに読みやすいのだが、切れ味の鋭さは一級である。この手の軽めのタイトルの本にありがちなエッセイ風の「読み物」ではない。プロとしての知識と経験を惜しみなくつぎ込んだ「紙上カウンセリング」の実践であり、視野狭窄におちいっている俺たち読者に変化を促すべく、丁寧に書かれた労作である。

簡単に読めるし、絶対に読んで損はないので、先回りして内容を紹介するのはあまり気が進まないのだが、ほんのさわりだけ述べておこう。
石原先生の立場は「自分中心心理学」であり、同氏の著作で常にやり玉に上がるのは、その反対の「他者中心思考」である。本書に登場する「他者中心思考」の人びとは、他者からの頼まれごとを断ることができない。しかも、断れずに引きうけてしまったあとで、「どうして私ばっかり損をするのか」とふてくされる。この人びとには、自分に「引きうけない自由」があるなどとは思いもよらないのだ。
この「いつも自分が損をする」という経験が、職場の上司・同僚、夫婦、母娘の人間関係を例として俎上に載せられる。
そして話題は「損得」の思考にも及ぶ。損得の思考にとらわれた人は人生を楽しむことができない。なぜなら、損得という借り物の尺度を優先して考える習慣のために、「自分が何を望んでいるか」を感じる能力を失っているからだ。「損をしないこと」が至上命令なので、必要や自分の欲望に関係なく、得られるかぎりのものを得ておかなければ気が済まない。

しかし、ここからが石原先生のすごいところであり、類書の著者を寄せつけないところなのだが、同氏は決して経験の批判的記述で終わらせないのだ。「他者中心」の思考にとらわれた俺たちが、いかにすればもっと楽に生きられるのか、いかにすれば「他者中心」の思考を抜けだして「自分中心」に生きられるようになるか、そのテクニックを、具体的に、しかもただちに実行可能な方法で語ってくれる。豊富なカウンセリング経験と、臨床心理学の豊富な知識に裏打ちされた核心を突く語りには即効性がある。

本書によって救われる人は多いだろう。とかく被害妄想におちいりがちな、すべての日本人に薦めたい名著である。

「どうして私ばっかり」と思ったとき読む本 (PHP文庫)「どうして私ばっかり」と思ったとき読む本 (PHP文庫)
(2012/07/04)
石原 加受子

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盛々夏野菜

Author:盛々夏野菜

男性、既婚、事務系サラリーマン。
現代思想フェチだが、本を読むのが遅いのであまり多くは読めない。地底人生活を経て現在は臨床心理に関心がある。新鮮な胡瓜が好き。
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