きゅうり

 

盛々夏野菜のハードエッセイ & ショートストーリー 【思想、心理、書評、劇評、感想、あらすじ】
 

 

 
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原作の構造分析、文体模写、時代考証という気の遠くなるような作業を経て書き上げられた労作である。

前回紹介した、熊倉千之『漱石のたくらみ』は、徹底した構造分析が特徴の本であった。本書はこれより前に書かれたにもかかわらず、緻密な構造分析をすませていなければ書けない記述が見られる。構造分析は熊倉先生のオリジナルというわけではないのである。二例を挙げる。

1.温泉旅館でのお延の下足箱の番号は二十八であり、これは熊倉先生の主張する『明暗』の基本数に一致する。気まぐれに選ばれた数字ではない。水村先生が「そのことはわかっていますよ」とさり気なく証言しているのである。

2.温泉旅館で体調を崩した津田が寝るときの枕の向きは、縁側や床の間との位置関係から言って、小林医院の二階で津田が寝ていた時の真逆である。水村先生は、あきらかにこれら二つの場面を対比しようとしている。


何はともあれ、俺たちは『明暗』の続きが読めるようになったのだ。その偉業に感謝したい。
しかし、水村先生、津田をそこまでいじめなくても……。

続 明暗 (ちくま文庫)続 明暗 (ちくま文庫)
(2009/06/10)
水村 美苗

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苦労して読んだ名作の印象が薄れてしまわないうちに、すぐれた評論を読んで復習しておきたかった。
読んでみて、プロの読解の手つきとその迫力に震撼させられた。「復習」などという生半可なものではすまなかった。「小説を読む」という行為の深淵を覗きこみ、地下世界を旅してきたような、稀有な体験であった。
読みどころを列挙する。

1.徹底した構造分析により、筆者は『明暗』の書かれなかった最終回は二百二十八回であったと断定する。そしてこの作品における前半と後半の正確な「対応関係」にもとづいて、書かれなかった章の梗概を予測する。というよりも「断言」する。

2.漱石が作品の中に縦横無尽に配置したアレゴリーのネットワークを明らかにし、名作が持つ圧倒的な魅力の秘密へと読者をいざなう。

3.『明暗』は『こころ』の問題系を引き継ぐ姉妹編であり、「K」も「先生」も死ななかった場合にはどうあらねばならなかったかを研究する、壮大な思考実験である、と述べる。

4.筆者は小説一般の基本原理として、「作品の統一性はすぐれた芸術作品に必須の条件である」「小説の主人公は一人でなければならない」と断言する。その論法は力強くかつ新鮮であり、今後、俺が物を読んだり書いたりしていくための指標となろう。

5.さらに筆者は、西欧文学風の客観描写なるものは日本語の特性からして不可能であり、日本語のディスクールは常に作者の存在を濃厚に表現してしまうと述べる。

6.もちろん、津田の抱える「心の病」がいかなるものであり、そして彼がどのようにして癒されることになるかという問いへの、『明暗』の本文からは見えにくい答えの探求が、本書の中心テーマである。

唯一の欠点はときおり難解になることで、それは文中の主張が、(1)その箇所で初めて主張されたものか、(2)すでに主張されたことの繰り返しや展開か、(3)先行する章句や、原著や、他の研究書の中にすでに示唆されていると言いたいのか、がわからなくなるためであろう。そういうときは、深く考えずに結論だけありがたく頂戴するのがお作法である。

漱石のたくらみ―秘められた『明暗』の謎をとく漱石のたくらみ―秘められた『明暗』の謎をとく
(2006/10)
熊倉 千之

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こちらに引っ越しました。











【ネタバレ情報含む。未読の人は注意。】

1.難解さ

国民的作家の代表作にして超ロングセラー……。
その程度の認識で手を出すと手痛いしっぺ返しを食らう難解本である。
累計でおそらく数十万冊、ことによると百万冊を超える部数が出ているかもしれない。しかし、そのうちの何割が読了されたであろうか。そして何パーセントの読者が、この本に何が書いてあるかを理解しえたであろうか。
俺自身、大学生時代に2度読んでいるのだが、印象が残っていない。つまり、まったく読めていなかったのである。

本書の漱石は、読者サービスというか、読みやすくするための工夫を一切手放してしまい、「ついて来れる奴だけついて来い」と言っているように見える。

一例を挙げれば、人物の呼称である。津田が視点人物になっている回では、叔父と言えば藤井のことであるが、お延が視点人物になっている回では、叔父と言えば岡本のことだ。登場人物たちの関係が頭に入っていなければ、誰のことを言っているかもわからないのだ。やむなく系図を書きながら読むことにした。
明暗系図

同様に、第五十二回の席順
食堂の席順

も、第百三回の部屋の配置
2階の配置

も、図を書いてみなければ理解できない。

また、本書のクライマックスである津田とお秀の兄妹喧嘩が、いかなる論理的必然性によって津田の清子訪問という展開を呼びよせるかは、同じ所を何度も読み返し、さらには書かれていないことを推測で補って読まなければ理解できない。

こういうわけで、相当な難物なのである。

2.お延の世界観

しかし、苦労して読めば得るものは大きい。なぜって、本書は日本ばかりか、世界に冠たる一級の心理小説なのだから。

ヒロインのお延は、身内を含めて他者という他者を信用しない。他者は必ず彼女を出し抜こうとしていて、世間は戦場である。そういう世界観を持つがゆえに、彼女は常に知恵と勇気によって他者に競り勝ち、世間を渡りつづけるという苦しい生きかたを強いられる(注1)。
夫の津田も、義妹のお秀も同じ病気にかかっている。
まさしく、現代人の心の闇がテーマなのだ。
本書の末尾に登場する、唯一の脱力系人物である清子は、そんな彼らの対極に位置すると同時に、彼らに救済の途を指し示すはずだった。それは作者の死によって永遠の謎となってしまったけれど。

3.ジェイムズの影響

ところで、本書については、ヘンリー・ジェイムズの影響がかねてから指摘されている。今回読んでみて、影響の強さを実感した(俺が読んだジェイムズ作品は長編4本と短編数本。この程度の読書歴でジェイムズについて語ることが許されればの話であるが)。

まず、吉川夫人というジェイムズ的人物の存在である。若い男を庇護し、交際する女性の斡旋も買って出るヤリ手のオバサンであるが、既婚者同士の密会を手引きしたり、彼女の気に染まないヒロインの性格を矯正しようとして陰謀をめぐらすことも辞さない、悪魔的側面を持っている。

もう一つは、会話や思考を描写するのに具体的な内容には触れず、延々と隠喩を書きつらねてゆく独特の文体である。たとえば、

感情と理窟の縺れ合った所を解ごしながら前へ進む事の出来なかった彼等は、何処までもうねうね歩いた(第九十七回)。

ここでは、彼らは実際に歩いているのではない。なかなか核心に到達しない会話を、歩行の隠喩で描写しているのである。他にも、

最初夫人の名前がお延の唇から洩れた時、彼女は二人の間に一滴の霊薬が天から落されたような気がした。彼女はすぐその効果を眼の前に眺めた(第百二十五回)。

ここでは、いわゆる効果は目に見える実体ではなくて観念にすぎないのだが、視覚的な隠喩を使って描写しているのでこういう表現になるのである。こういうところがジェイムズ節なのだ。ジェイムズを読んだことのある人ならすぐ思い当たるだろう。

4.雑感

読んでいる最中に気がついたのだが、俺は今、漱石が本書の執筆半ばで死去したのと同じ年齢である。時代が異なるとはいえ、とても同年齢とは思えない深い思想性と、円熟した筆さばきに、文豪の偉大さを思わずにいられない。


(注1)一方で、そんなお延の生きざまは健気で美しい。本書の功績の一つは、お延という人物像を造形した点にある。本書を最後まで読み通させる力の源泉は彼女の魅力であろう(注2)。しかし、彼女自身のために言うならば、そんな苦しい生き方は絶対にやめた方がいい。

(注2)俺がヒロイン目当てで読み返す可能性のある小説を挙げてみる(括弧の中はヒロインの名前)。
・本書
・ジェイムズ『使者たち』(ヴィオネ夫人)
・ウルフ『灯台へ』(ラムジー夫人)
・島尾敏雄『死の棘』(ミホさん)
今のところ他に思いつかない。
何が言いたいかというと、お延はそれくらい傑出したヒロインだということなのだ。

明暗 (新潮文庫)明暗 (新潮文庫)
(2010/01)
夏目 漱石

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Author:盛々夏野菜

男性、既婚、事務系サラリーマン。
現代思想フェチだが、本を読むのが遅いのであまり多くは読めない。地底人生活を経て現在は臨床心理に関心がある。新鮮な胡瓜が好き。
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