きゅうり

 

盛々夏野菜のハードエッセイ & ショートストーリー 【思想、心理、書評、劇評、感想、あらすじ】
 

 

 
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こちらに引っ越しました。












浜田麻里さんが、"Marigold(2002)"以来のハード/メタルエイジの集大成というべきモンスターアルバム"Legenda"をリリースした。

赤土の大地を背景にしたジャケット写真と、花文字フォントのタイトルは、前作"Aestetica(2010)"のアルバムアートと共通であり、同じ路線のアルバムであることがわかる。


・前史

ハード/メタルを信条としながらも、つねにに自分らしい表現を模索しつづけ、この間、試行錯誤の連続だったのであろう。様式が確立する途上の部分にクリシェの支配がめだち、聞き所は多いが捨て曲もある、中くらいのアルバム群を生む結果となっていたことは否定できない。

それが、"Sur lie(2007)"で新しい作曲家を起用するとともに、音作りにいっそう徹底してこだわり、参加ミュージシャンへのコントロールも強め、楽曲全体の底上げとアルバムの統一感の醸成に成功した。

さらに前作"Aestetica"で冒頭曲'Stay Gold'に代表される「ゴシック」「様式美」の世界との出逢いによって突破口を開き、緻密にして情熱的、そして隙のない音世界をつくりあげた。たしかに、彼女にはアフリカンなノリよりもブリティッシュな暗さのほうが似合う。


・総論

そして本作"Legenda"では、前作の延長線上で「ハード」にして「ダーク」な傾向を強めるとともに、楽曲の選定にも音づくりにもいっそうのこだわりをみせ、ミュージシャンにはカミワザ的プレイを要求し、完成度を上げた。co-producerというべきサウンド面のブレーンは大槻さんから増田さんに交代した。浜田さんの自作曲が増え、新しい作曲家の曲の起用も多い。
しかし、本作のもつ「鬼気」にあてられてしまうと、こういう言葉を書きつらねることも、無用なむなしいわざではないかという気がしてくる。
今までの浜田麻里ではない。今までの浜田さんは、ハード/メタルを自分のものとして消化しつつも、その形式を借りて表現している印象があった。しかし本作では、浜田さんの強烈な歌詞世界が、内的必然性としてハード/メタルの様式を要求した感じがする。

「女性ロックとしては前例のないところにきてしまった」と彼女はインタビューで述べている(CS MUSIC AIR "MA HEADLINES♯35")。この傑作を完成させた人の深い自信からでた発言であろうと合点がいく。

ところで、近二作(前作"Aestetica"と本作"Legenda")は、その隙のない完成度においてウィスパーエイジの掉尾を飾った二作("PHILOSOPHIA(1998)"と"Blanche(2000)")に似ている。この二作をリリースしたあと、浜田さんは一気にハード/メタル路線への転換をはかった。
今回、高い完成度を達成してしまった浜田さんが、今後もハード/メタル路線で活躍することに満足できるのか、心配になった。もちろん、それは今後の彼女の展開をみていかなければわからないことで、今考えてもせんのないことである。

本作について、浜田さんは「日本のいつまでも閉塞感ただよう風潮、そこに私の心意気を見せたい」「ダークで陰鬱な表現だけれども、だからこそカタルシスを感じる手段はあるんじゃないか」と語っている("MA HEADLINES♯35")。
前者は、自分の牙を隠して時代に迎合し、状況に呑みこまれて憎悪の眼をしているエリートたちへの痛烈な皮肉として、またその状況にもかかわらず風に向かって立つ異端児たち、つまり「不実な恋花」や「哀しきwarriors」、そして「乱世の花」の肖像として歌い上げられる。
後者は、状況への怒りよりも、逆境にたちむかう異端児たちの決意の凛々しさが、リスナーの心を揺さぶる。
そしてリスナーは「自分を信じて生きよ」という力強いメッセージを受けとる。もちろん俺もだ。ありがとう、浜田さん。

本作で浜田麻里は本当に伝説(Legenda)になった。


・各論

タイトル"Legenda"の意味について、浜田さんは「異端児たちの逸話集」("WeRock"027)と述べている。そういう視点で歌詞をみていくと、本作の難解な歌詞世界に少しは接近できるかもしれない。

以下の解釈は、本作の難解な歌詞と、浜田さんの歌詞に馴染んでいないリスナーとの間を架橋する試みである。この解釈を読む人が、浜田さんの歌詞世界と自分との接点をひとつでも多く発見し、この傑作アルバムをより深く味わってくれることを願う。
俺自身よくわからないところがたくさんあり、正確な解釈をする自信は全くない。しかし、一見とりつくしまがないほど難解な歌詞に、強引と言われそうなほど立ち入った解釈をすることによって、すこしでも多くの手がかりを提示したい。
俺の解釈に不賛成でかまわない。あまりの難解さに手がかりを見いだせないままでいるよりも、俺の解釈への反感ををテコに本作の歌詞世界に分け入っていただければ嬉しい。

01.Crisis Code

<大意>抑圧されたイドの激情が危機の予感=暗号として感じられる。その正体をつきとめ、激情を解放せよ。
<本人解説より>「危機感やドキドキする感じ」を出した("SANKEI EXPRESS" 2/15付 サウンドボックス)。

<タイトル>危機の暗号

<1行目>戦慄=危機の予感。
<2行目>激情を捨てて安逸を貪っているのが愚鈍。
<4行目>哲学的混沌=美辞麗句でイドを抑圧する世界。
<5-6行目>イドがあるから夢を見る。
<7-8行目>激情を抑えているから憎悪の眼になるのであろう。
<9-10行目>謎(暗号)を解く最後の鍵(イド)を教えよう。
<11-12行目>怒り(≒激情)の感情を手懐けられ、イドに気づくチャンスを永久に失う前に。
<13行目>decipher=解読する、はっきりさせる。millor=mirrorの誤植? 鏡の中の見知らぬ人々(自分の中の未知の部分=イド)の正体を明らかにせよ。
<14行目>恐怖における「危機の暗号」を解読せよ(つまりイドを見いだせ)。
<15行目>vocation=使命。それが使命だ。
<16-19行目>人々に激情を捨てさせても無駄だ、やがてまたひそかに激情を抱くのだから。
<20-21行目>泣くことさえ禁じられた、悪夢のような街でも。

02.Momentalia

<大意>過去も未来も幻にすぎない。刹那主義者となって今を楽しめ。

<同じ系譜の作品>'Unconscious Beauty'(無意識美人)in "Aestetica"

<タイトル>モーメンタリア(造語)=刹那主義者

<12行目>愚かな若者たちは、
<13行目>自分を信じることができず、
<14行目>激情を出し惜しんで未来のために取っておこうとする。
<15-16行目>老兵たちは過去の栄光にすがっている。

03.Heartstorm

<大意>激情に取り憑かれ、破滅的に生きる男と、その彼を愛し、寄り添う女の伝説

<同じ系譜の作品>'Broken Glass' in "Blanche"

<タイトル>心の嵐

<18-19行目>あなたの待つ方は茨の道だけど、篠突く雨のベールにおおわれて見えない。今はそのベールの上に甘美な幸福を幻視していよう。

04.Crimson

<大意>恋に生きる女の肖像

<同じ系譜の作品>’Frozen Flower’ in "marigold",'Ash and Blue' in "Sense of Self"

<1-3行目>倒置が使ってある。普通の語順に直せば「不実な恋花のひとひらが煌めいて光った」。「恋花」は恋する女と花とのダブルミーニング。恋しても媚びないから不実に見える。
<4行目>「深き紅」は花の色。ジャケット写真はこのイメージであろう。
<7行目>「実らぬ恋をしている女」または「実っても人から祝福されない恋をしている女」。
<9行目>魔性の女と呼びたくば呼べ。その魔性とやらの激しさで咲き誇ってやれ。
<15-16行目>運命のいたずらに動揺してしまう心の弱さを恥じて。

<付記>紅(くれない)の色を表す言葉としてあえて'Crimson'を選んだのは、King Crimsonに対するリスペクトの表現ではないだろうか。

05.El Dorado

<大意>癒しの理想郷

<同じ系譜の作品>'Promised Land' in "Philosophia"

<3行目>流離=故郷から遠く離れてさすらうこと。
<4行目>Led Zeppelinへのオマージュか。
<7行目>エスペラント=世界共通語。「理想郷」からの連想か。
<20行目>旅人を迎え入れるのは、理想郷に住みついた月世界人か。

06.Forest

<本人解説より>強いメッセージ性を含んでいます("WeRock"027)。

<第1コーラス>世界終末戦争の戦場(?)となった森は死体の山になっている。哀しきwarriors(兵士)が死体を跨いで走り抜けていく。彼はきっと絶望して泣いているだろう(長谷川きよしの「悲しい兵隊」を思い出す)。

<第2コーラス>上記の近未来SF譚は現代の精神世界の荒廃ぶりと重なり合う。
<9-10行目>エリートたちは己れの誇りと愛をいとも簡単に投げ出し、虚栄と因襲のとりこになる。
<11-12行目>彼らの欲望は汚辱にまみれている。彼らの描く腐った未来図など、誰かにくれてやればいい。
<14行目>こんな歪んだ現実にのみこまれるな。
<16行目>この世の謎を解く鍵=人々が誇りと愛のために生きられるようになるための鍵。
<17-18行目>(ここで近未来SF譚がフラッシュバックして)核爆弾で海が吹き飛ばされて消えていく。半分消えかかった海から潮騒の残響が聞こえる。人類の欲望のゆくえはこんな悲惨な未来だった。
<20行目>生ける屍=因襲にまみれて無意味な生を生きている奴らを跨いで走れ。
<22行目>しのびよる汚辱を絶ち切って眠れ。

後編につづく)

LegendaLegenda
(2012/02/15)
浜田麻里

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テーマ * ヘヴィメタル ジャンル * 音楽

 

 

 

 
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・上演記録

場所=神楽坂 イワト劇場
上演時間=約2時間30分

上演された挿話(順序は不正確、失礼)

はじめに
土堤の春
「青べか」を買った話
繁あね
朝日屋騒動
経済原理

―休憩―

蜜柑の木
芦の中の一夜
長と猛獣映画
留さんと女
三十年後


・総論

今回の黒テント公演で座長役をつとめたのは内沢雅彦さん(終演後の挨拶も斎藤晴彦さんではなくて内沢さんだった)。
彼が黒テント出身の旧友、鄭義信(ちょんうぃしん)さんに舞台化を持ちかけ、公演が実現した。

黒テントには「物語る演劇」の伝統がある。「物語る俳優」は戯曲の「ト書き」や小説の「地の文」を自分のセリフに織り込んで語る。登場人物の数と俳優の数は一致しなくていい。一人の俳優が複数の人物を演ずるだけでなく、複数の俳優が一人の人物を交代で演じたり、ときには複数の俳優が一人の人物を同時に演ずることもある。自分の演技を終えた俳優が必ず退場するとは限らない。劇の進行を見守ったり、感想を漏らしたりもする。

黒テントが1970年代のすえ、ブレヒトの「教材劇」などを参考にしながら確立した手法で、小説も詩も舞台化することができる。

当時高校生だった俺は、金芝河(きむじは)の詩を舞台化した『笑う恨(はん)』(第1部=キャバレー金芝河、第2部=糞氏物語)を観て衝撃をうけ、それ以後熱烈な黒テントファンとなった。

その後、集団としての黒テントが様々な試みに挑戦してゆく中で、この手法にこだわってきた作家・演出家がゲンさんこと山元清多(きよかず)氏であった。とくに揚野浩(あげのひろし)作『プロレタリア哀愁劇場』は、俺にとって今でも忘れることのできない名演である。山元さんは2010年に亡くなった。

今回、「物語る演劇」の全盛時代に黒テントに在籍していた義信さんが25年ぶりに招かれて構成・演出をつとめ、この手法によって可笑しくも悲しく、そして底抜けに楽しい舞台をつくりあげた。

地の文をセリフに織り込むところは「物語る演劇」の定石どおり。冒頭、浦粕の町の情景を描写するくだりは全出演者が1フレーズずつ交代で語ってゆく。1フレーズずつだぞ。並の稽古量ではできない。黒テントは、ときどき、こういう圧倒的なチームプレーのワザをみせてくれる。

語り手の「私」は5人のベテラン俳優が担当し、挿話ごとに交代する。その5人も「私」を担当していないときは他の重要人物になる。

舞台は打ちっぱなしの床と、その中央にしつらえられた能舞台風のステージとの二重構造になっている。上のステージが「劇世界」だとすれば、下の床部分は「半分劇世界、半分現実」の中間地帯であり、出番待ちの俳優たちががステージに向かってヤジを飛ばしたり、楽器を持って演奏する空間になる。また場面の移動を表現するのにも使われる。

原作が原作だけに、全編下品な言葉のオンパレードだが、特に笑ったのは「おーかんけ」の唄を全員で歌いながら練り歩くところだった。
おーかんけ(大権化)おーかんけ おいなりさんのおーかんけ おぞーに(雑煮)とおあーげ おあげのだんからおっこって あーかい***ーすりむいた こーやくだい(膏薬代)にくれせーま くれせーま
もちろん伏字のところも歌っちゃう。これを何度も何度もいやというほど歌う。そのしつこさに、いっそう笑いが止まらなくなる。


・各論

「「青べか」を買った話」は、私(内沢)が芳爺さん(斎藤)の術中にはまり、ポンコツ舟を売りつけられる様子がリアルで笑えた。間合いの取りかたが絶妙であった。内沢さんと斎藤さんはどちらもはまり役で、この二人にしかこの場面は演れないなと思った。

公演チラシののイラストにもなっている「繁あね」のお繁(滝本直子)は、劇中、私(小篠(おざさ)一成)と対面して話すことはない。私の背後のブレヒト幕(胸の高さのカーテン)の上から人形劇のように首だけ出して私に呼びかける。この演出は成功していて、お繁の存在が穢れを通りこして聖者になってしまったような気がした。

「朝日屋騒動」では「あさ子」(平田三奈子)の啖呵が聞きものだった。原作よりおっかねえ。

「経済原理」の悪ガキどもの筆頭は黒テント最年長の三人(斎藤、小篠、そして服部吉次)が演じた。そのにくたらしさがかわいかった。

「蜜柑の木」は女房の「お兼」と寝た男たちに小銭をせびって歩く「しっつぁん」(木野本啓)のうすら笑いがいじましくて笑えた。お兼に岡惚れする助なあこ(米田圭亮)の純情ぶりもよかったが、俺がもっとも気に入ったのは、助なあこの寝言を仲間の水夫(内沢)が真似るところ。目をつぶり、声をふるわせながら「お、か、ね、さん」「おら、おめえが、好きだ、死ぬほど好きだ、よう」とうめく時の、容赦のないえげつなさが最高であった。内沢さん、この挿話ではほんの脇役なのだが、このセリフひとつで主役を食っちゃったなと思った。それほどの出来だった。もちろん、ふだんの内沢さんが掛け値なしの紳士であることは保証する。

本編唯一の純情ラブロマンス「芦の中の一夜」では、姐さんかむりのお秋(岡薫)が綺麗だった。幸山船長(服部)はお秋の思い出を語り終える。いつの間にか彼はサックスを握っている。彼はブルースを吹き鳴らす。

「長と猛獣映画」の長(内沢)が映画の中の猛獣を現実と取り違えて犠牲者に警告を発する場面は秀逸であった。スクリーンの中の、彼が現実と思っている生命の危機に身もだえし、全身をかきむしり、身も世もあらぬていでうろたえ、絶叫しまくる。長の「本気」が伝わってきていとおしくなった。

最後の挿話にしてクライマックス「留さんと女」の留さん(小篠)はお秀からバカ踊りを命じられ、ののしられながら踊る。私(内沢)はそのさまを見ていることに耐えられなくなり、早々に勘定をすませて退散する。それでも私の怒りはおさまらない。私は叫ぶ。「巡礼だ」それは私が愛読していたストリンドベリ『青巻』の一節である。「苦しみつつ、なおはたらけ、安住を求めるな、この世は巡礼である」

「三十年後」の挿話がはじまると、ステージ上の私=山本周五郎(斎藤)、カメラマン(木野本啓)、千本の長(宮崎恵治)を除く俳優たちが「二重構造の下の方」で壁に向かい、冬じたくをはじめる。
三人が沖の弁天をたずねる場面は、義信さんによって書き換えられた。弁天社は津波で破壊され、その一帯でたくさんの犠牲者が出たことがわかる。そのとき、冬じたくの人びとはステージ上に折り重なって倒れ、息絶える。ここに東日本大震災の犠牲者への鎮魂を読み込んでも大きな間違いではないだろう(そこへさらに内沢さんの故郷、釜石を重ねてみるとしたら、深読みのしすぎであろうか)。


・雑感

義信さんが、プロデュース公演ではなく一劇団の公演を外部演出家として手がけることは珍しい(もしかして初めてかな?【注1】)。底辺に生きる人びとへの目線で定評のある義信さんと、表現手法の開拓者である黒テントの出会いがまたとない観劇体験をうみだした。毎度のことながら、義信さんが観客を楽しませるために用意する抽斗の豊富さには感心してしまう。終演後の客席には深い満足感をたたえた空気感があった。一般の評価も高いようだ。しかしイワト劇場の定員は約100名。15ステージで1500人しか観ていない計算になる。その程度の規模で終わらせてよい作品ではない。この勢いを駆って、もう少し広い劇場で再演を実現してほしい。

青べか物語 (新潮文庫)青べか物語 (新潮文庫)
(1963/08)
山本 周五郎

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・追記

(1)この公演のパンフレット(観客は全員もらえる)には浦粕マップがついている。原作を読むのに便利だと思う。
(2)今回舞台化されなかった挿話「おらあ抵抗しなかった」の糞生意気な銀公や、「家鴨(あひる)」に出てくるDV亭主の増さんも義信さんの演出で観てみたい。

(2012年1月24日投稿の記事に加筆・修正)

【注1】(2012年7月23日の注)よく考えたらはじめてではなかった。オペラシアター「こんにゃく座」も外波山文明氏の「椿組」も演出している。 
テーマ * 演劇 ジャンル * 学問・文化・芸術

 

 

 

 
もううんざりだといわれるかもしれないが、ここでもう少し話は複雑になる。
「欲望し決断する自我」は民主主義政権の元首で、ニセ指揮官たる「警戒心」は猜疑心の強い暴君なのだ。

民主主義だって? おまえ、ケストラーの回で「階層的秩序」を軍隊にたとえたじゃないかと言われそうだ。
ごめんなさい、そのとおりです。
わかりやすく解説するために比喩は必要だが、比喩には限界がある。
限界のある比喩に整合性をもたせようとすれば余計収拾がつかなくなる。
だから、「民主主義的軍隊」とかいう苦しい辻褄合わせはひかえ、体系化はあきらめよう。

民主主義政権の元首である「欲望する自我」は、命令を発するだけは発しておいて、あとは自動的な過程が進行するのにまかせる。つまりほったらかす。下位の心的器官群は、それぞれ、おのれに割り当てられた任務を遂行するだけが仕事であり、やり方はまかされている。それゆえ、たとえ面従腹背でも、「面従」の部分で自分の任務を遂行して次の心的器官にリレーすることができさえすれば、こころの底で何を考えていようと自由なわけだ。こうして各心的器官の独立性は担保される。また独立性が保証されていればこそ各器官はスムーズに機能し、全体の成果も上がる。

一方、猜疑心の強い暴君である「警戒心」が指揮官の地位に君臨している場合、彼は下位の心的器官が任務を遂行するやり方に口うるさく干渉する。干渉された心的器官はたえきれずに反乱を起こす。
どのようにしてか? 「目標」を乗っ取るのだ。それも暴君に知られないようにこっそりと。

「裏目標」が隠然と設定される。しかしオモテであろうと裏であろうと、目標は全体を代表する強力な存在であるから、あらゆる器官はその目標(いいかえれば無意識的欲望)を実現すべく自動的に協調して働き、自分でもそれと知らぬ間に成果を出してしまう。

こうして、早朝会議の日に寝坊する。
嫌いな上司の名前をど忘れする。
急ぎの仕事中にパソコンがフリーズする(それと気づかずに、不具合を招くような無理な操作をしている)。
好きな異性の前でけつまずく。

こういう例は枚挙にいとまがない。
フロイトの『日常生活の精神病理学』の中にもたくさん出てくるであろう。

フロイト全集〈7〉1901年―日常生活の精神病理学フロイト全集〈7〉1901年―日常生活の精神病理学
(2007/01/10)
高田 珠樹

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【ネタバレ情報含む。未読、未見の方は注意】

壱、「賭け初め泣き初め江戸の春」の場では、小林弥太郎(後に一茶)が俳諧をこころざす契機となった事件が演じられる。事件はフィクションだと思うが、劇中に出てくる俳諧作品はおそらくすべて真作であろう。これらの句を作者(井上ひさし)はエピソードの中に器用に埋め込み、まるでそれらの句の詠まれた現場が再現されているかのように錯覚させる。

ところが弐、「芝居仕立て」の場で、壱の芝居は浅草元鳥越町の自身番(じしんばん≒自警団の番所)を舞台として、町内の俳諧仲間一座(名づけて「明神一座」)が演じる劇中劇、いまでいう「再現ドラマ」であったことがわかる。窃盗の下手人に擬せられた一茶の人物像をあぶりだして「吟味」するための芝居らしい。
『小林一茶』というタイトルにもかかわらず、一茶自身は窃盗の嫌疑をうけて夏目成美(せいび)の寮に足止めされているために、この劇には一切登場しない。本人を登場させなくても伝記劇を成立させてみせるという、作者の自信のほどがうかがえる。
かわりに、「御吟味芝居」の中で一茶を演じるのは、もと狂言作者で、今は同心見習の五十嵐俊介。いまでいえば巡査であろうか。「ホシの立場になって考える」ために、みずから下手人=一茶の役を買ってでた。

ところで、今回、俺は全編の要約をやるつもりはない。各場面のからくりを解き明かすのはひどく骨の折れる仕事だし、骨が折れる割には作品の香気をそこなうばかりであろうからだ。興味のある方には読むなり、観るなりしてもらったほうがいい。決して損はしないから。

ああ、でも我慢できない。2つだけ見どころを述べさせて欲しい。
八、「咥え紙」の場で、随斎庵の主の地位をかけて畳の上をのたうちまわる一茶と、ライバル俳諧師の竹里(ちくり)を描いた場面がすばらしい。物書き(俳諧師)の苛烈な執念は、作者のそれとも重なるであろう。
九、「灸」の場で、花嬌(かきょう)の愛の句を一茶に取り次ぐのは、源助という老僕に身をやつした竹里である。彼は一茶に短冊を届けるまでのほんのいっときの間に手を加え、色気もそっけもない句に「改作」してしまう。すごいのは、作中で竹里の改作を経たあとの句のほうが、文献学上の女流俳人・織本花嬌の作だという点だ。「改作前」のほうが実は作者による改作なのである。つまり作者は真作の来歴を捏造するというアクロバットをやってのけた。井上ひさしが「すげーだろ」と言っている気がする。はい、参りました。

さて、本作の主調をなすのは、芭蕉を手本とし、業俳(ぎょうはい)として身を立て、俳諧の道をきわめようとする一茶の生きざまである。しかしこのことは、彼をしてつねに金策に走らせることとなる。
俳諧そのものは金にならない。しかし連句の会につらなり、一流の俳諧師たちと交わっていなければ技倆は上がらない。そこで、春から夏にかけては諸国をめぐり、地方の俳諧好きの旦那方と俳諧をやって草履銭や心付けをたくわえてすごさなくてはならない。
かくして、一年中江戸にとどまって一流俳人との俳諧に明け暮れる生活を夢見る彼は、夏目成美が嘘でも随斎庵を進呈しようといえばその話に飛びつく。あるいは、花嬌を妻とし、深川にある織本家の出店で年金つきの楽隠居を決めこむ計画に食指を動かす。
しかし彼は結局貧乏俳諧師のままであった。この年も冬を越すために江戸に戻り、夏目成美の寮で煤払い、庭掃き、雑巾掛け、留守番をひきうけ、食事と寝所にありついていた。

その夏目成美の寮から四百八十両が忽然となくなった(これは一茶の日記に記された史実)。
本作では、一茶が盗みの疑いをかけられる。
御吟味芝居を通じて、一茶犯人説の不自然なところが気になってきた見習同心の五十嵐(一茶役)は、やがて、この芝居は明神一座がぐるになって一茶を犯人に仕立てるために仕組んだ茶番であったことを見ぬく。
一座に紛れ込み、劇中、一茶の肩をもつ発言をくりかえしていたしがない「めし泥棒」が、ライバル俳諧師の竹里その人であったことも明らかになる。
五十嵐は真相を知った竹里の身の危険をさとり、同心見習の肩書きを楯に一座の不穏な動きを封じた上で、竹里に、どこまでも逃げろと命じる。さらに言う。


五十嵐 ……そうだ、竹里、こんど一茶に出会うことがあったらこういってやれ。江戸と切れるんだって。成美などをありがたがっていちゃだめだよって。

めし泥(竹里) へい。

五十嵐 奥信濃に引っ込んじまえって。

めし泥 (完全に退場していたが、また屁っぴり腰であらわれて)しかし……

五十嵐 わかっています。奥信濃には碌な俳諧師がいない、そういう連中と歌仙を巻いていると技倆(うで)が落ちるってんでしょう。

めし泥 そうなんです。

五十嵐 発句に命をかけりゃいいんだ。発句ならひとりで出来るだろう。芭蕉翁の猿真似はよして、発句によって立てばいい。千句も万句も発句を作るのだ。座を捨てて、自分ひとりになるんだよ。


「制約が多く苦しい生きかたを自分に強いるのはやめて、自由に生きよ」
一茶を演じた役者自身が、この真理を、不在の一茶に向かって伝言している……。
自分を思い遣る自分が出現し、救済がおとずれる。
「自我の二重化」という手法が感銘深い効果を生んだ瞬間である。

さらに続きがある。
この五十嵐という男を、わざわざ狂言作者あがりの人物として設定した作者の真意は何であろう。
もちろん、ここには劇作家=井上ひさしが重なる。作者自身が一茶の人生を祝福し、応援するために登場しているのだ。

技法と主題が完璧な調和を果たした、日本戯曲の傑作中の傑作であろう。
二重三重、いや五重六重の複雑な伏線が一点のほころびもなく辻褄を合わせられ、かといって「物書きの執念」という重い主題についてもいささかも妥協していない。
何十回書きなおせばこんなすごい戯曲が書けるのだろう。
「ウェルメイド劇」という言葉はこの戯曲のためにあるのではないだろうか。
この作者と同時代に生まれたことを幸福だと思った。

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テーマ * 書評 ジャンル * 本・雑誌

 

 

 

 
不安があると「」にすがりたくなる。
不安が強くなるとますますすがりたくなる。
しかし「枠」を受け入れると、それは俺を縛る制約になりはてる。

たとえば、腰痛をわずらい、医者から一日30回の腹筋を指示されたとする。
腹筋の指示にも30回という数字にもさほど深い根拠はないのだが、強い不安にとらわれている俺にとって、それは命がけで守りぬかねばならぬ至上命令とうつる。

それで、20回しかできなかった日は、激痛にさいなまれる自分を空想して恐怖におびえる。

反対に、その恐怖を味わいたくない気持ちが強すぎる場合は、人生の楽しみのすべてを犠牲にして、かたくなにその指示を守りぬくかもしれない。
その場合、腹筋の指示だけでは飽きたらず、「腰を曲げてモノを拾ってはいけない」「うつぶせで寝てはいけない」「やらわかいソファに座ってはいけない」「あぐらをかいてはいけない」「コルセットをはずしてはいけない」等々の指示を自発的に追加し、より強固に防衛をはかるかもしれない。
これらの指示をかたくなに守ったら人間的な生活はできない。不可能な生活であり、かえって腰に緊張を強いるだけなのだが、現実の効用よりも恐怖に対する防衛の切実性がまさり、守らない自分というものが考えられなくなる。こういうこころの状態は強迫的と名づけていいだろう。呪術の域に近づいていると言えるかもしれない。

一足飛びには難しいけれど、不安は不安として受けいれ、防衛しない道もある。今回はこれに詳しく触れないが、このブログは一貫して不安(=恐れ、恐怖)との付き合いかたについて語っているつもりだ。 
テーマ * 医療・病気・治療 ジャンル * 心と身体

 

 

 

 
以前「思考の暴走」について論じたことがある。そこで俺は「価値」=「意味のシステム」=「大文字の他者」(高橋和巳先生の「」も同じ)への「とらわれ」が閉じた回路を形成し、思考はショートし、悪循環に陥り、際限がなくなると述べた。

一方、本連載「全体は部分に優先する」ではこれまで「こころの階層秩序」を論じてきた。最高位の自我は欲望を実現させるための決断を行ない、この決断を複数の小課題に分割し、ひとつ下の階層の心的装置群にリレーする。これらの各心的装置は、おのれに割り振られた小課題をさらに小さな課題に分割し、もう一つ下の心的装置群にリレーして、おのれはそれらの統率に当たる。こういうサブシステムがはるか下の階層までツリー状に分岐し連鎖してゆく。

こころの階層秩序が混乱していると苦しい生きかたになる。(1)最高位の自我が支配権を放棄したり、(2)反対に、最高位の自我がしもじもの雑務に手出しするような場合のことである(本連載第7回「こころを読むのはやめよう」)。
(1)は「欲望し決断する自我」が、おのれの判断を「相手の出方を気にする自分」=警戒心にあけわたし、この者が最高位に君臨することを許してしまったために、指揮系統(階層秩序)が機能不全に陥った状態を指す。
(2)は最高位の自我が「準備」と称して階層を飛び越え、はるか下位の心的装置に警戒を強いるために、階層秩序の自動的な過程が停止し、意識的になさねばならない作業が爆発的に増加し、処理が追いつかなくなって行き詰まった状態を指す。
つまり(1)は下から上への干渉、(2)は上から下への干渉である、というのが、本連載のここまでの主張であった。

しかし、俺はここにきて、下位の心的装置に警戒を命ずる(2)の自我が、「欲望する自我」と同一の存在とは思えなくなった。警戒という仕事は「欲望する自我」の担当ではないからだ。してみると、ここでも不当に自我の位置を占拠した「警戒心」が活躍している。だからこそ、この者は下の階層に警戒を命じるにいたった。
こうなると、階層秩序の混乱を述べるのに二つの回路を想定する必要がなくなる。(2)は深層において(1)と重なり、現象的には多様なあらわれかたをする、こころの諸問題は、「警戒心による自我ののっとり」に集約できると思うのだ。

こう考えることには利点がある。「欲望する自我」を敵にまわさなくてすむからだ。俺を苦しくさせているのが「自我の場所にいる者」であることは間違いないのだが、それがもし「欲望する自我」と同一の存在だとしたら、俺は「欲望する自我」を憎まなくてはならなくなり、自分の欲望も否定することになる。こころは、複雑な条件をかいくぐって絶対の真理を追求するほど器用にはできていない。
しかしその者が不当に自我の場所を占拠しているニセ指揮官に過ぎないなら、いくら憎んでもいいわけだ。「怒り」のエネルギー、つまり、俺をこれほどまでに苦しくさせた者に対する「怒り」のエネルギーは、ここに集中砲火させればいい。

さらに進もう。冒頭パラグラフの話題にもう少しで行き着く。

「警戒心」という名のニセ指揮官は、もともとは自我の下位に属し、他の者たちと協調して「欲望」に奉仕する、「注意力」という名のしがない下請け職人であった。しかし、幼き日の俺が自分の不快な体験を拡大解釈したり、他者から世間の厳しさや人生の厳しさを吹きこまれて「枠」=「大文字の他者」を内面化するにいたって、「注意力」は「枠」の後ろ盾によって肥大化し、「警戒心」という有力分子に成長した。「警戒心」の勢力が増すにつれて、俺は、自分の欲望を追求するよりも、まず自分の身の安全をはかることが優先課題だと信じこむようになった。こうしてこころの序列は逆転し、「欲望する自我」は退位を余儀なくされ、かわりに「警戒心」が最高位に君臨することとなった。
しかし「警戒心」は「注意力」の成れの果てであって、歩哨の能力しかもっていない。歩哨に指揮官がつとまるわけはない。「こころの階層秩序」は、正統な指揮官である「欲望する自我」に最適化されていて、いくら歩哨が命令してもシステムは動作せず、混乱が起こるばかりである。
「警戒心」という下等な装置が最高位の意識を掌握しているので、思考は統制がきかず、暴走する。
そこで展開される思考は、主役をつとめる者(警戒心)の能力に応じた、融通性のない、硬直した思考であろう。つまり、ありうべき危機の兆候への過剰な警戒、来るべき恐怖へのおののき、危機への準備を怠ったり対処を誤った(かもしれない)自分への際限のない攻撃であろう。
(これが恒常化すると「うつ」になるだろう)

もっとも、「警戒心」が主役の座を占めていることは俺にとってあまりにも当然なので、この者がニセの支配者とは思いも寄らないかもしれない。自分の欲望を信じて生きるなんて不可能な夢想としか思えないかもしれない。しかしこっちが本物なのだ。

だから「警戒心」を退位させてもとの「注意力」の仕事に専念させよう。
そして「欲望する自我」の指揮権を取り戻そう。

まず深呼吸。そして、ゆっくり、整然とモノゴトを考えられるようになるために、体力をつけよう。
それから、警戒心に支配されて身につけた「こころの癖」を、辛抱強く、一つずつ手放そう。
手放した「こころの癖」が甦ってきそうになったら、「怒り」のエネルギーを使って押し返そう。 
テーマ * 心と幸せ ジャンル * 心と身体

 

 

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Author:盛々夏野菜

男性、既婚、事務系サラリーマン。
現代思想フェチだが、本を読むのが遅いのであまり多くは読めない。地底人生活を経て現在は臨床心理に関心がある。新鮮な胡瓜が好き。
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