きゅうり

 

盛々夏野菜のハードエッセイ & ショートストーリー 【思想、心理、書評、劇評、感想、あらすじ】
 

 

 
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相手の表情や行動から感情を読み取ろうとすると、そのたびに失敗する。
感情など読めてはいなかったことがわかる。

相手の表情も行動も曖昧で深い意味はないのに、そこからすこしでも情報を得ようとあせる。相手が次にどう出てくるかを知りたいからだ。
その結果、相手の表情と行動は、その人の感情の発露どころか、こちらの不安を映す鏡として、ただそれだけの存在として機能してしまう。
それが証拠に、こちらの読み取る感情はつねにネガティブなのだ。たとえ相手が微笑んでいても、反語的に、つまり怒りを抑圧するために微笑んでいるなどと勘ぐる。そういえば微笑がこわばっていたかもしれない、などとつぶやき、それを自分で信じこむ。

たしかに、抑圧した怒りの代償として微笑むこともあるだろう。不正に富を得ようとして懐柔のために微笑むこともあるだろう。しかし、純粋な信頼の情から微笑むこともあるだろう(むしろその場合が多いだろう)。目の前の微笑がそのどれであるかを、人は原理的に知りえない。いかに努力しても微笑という現象の表面しか見ることはできないからだ。

知りえないものを知ろうとして苦しんだあげく、結局のところ自分の不安を見いだすだけならば、そのような探求はただちにやめてしまったほうがいい。その探究心は、相手ではなく、自分がどうしたいかを知るために使おう。
自分の欲望などわかりきっていると言いたくなるかもしれない。しかし、深くリラックスして自己に沈潜し、頭よりも肚の声に耳をすましてみなければ、本当の欲望はわからないものだ。

さまざまな階層の自分がある(階層秩序についてはこちら)。
「相手の出かたを気にする自分」は、欲望し決断する最高位の自我よりも下位の階層に位置する心的装置である。自我の指令にしたがって、自我から委託された「警戒」という限定的な任務をはたすだけの下請けにすぎない。この者に、最高位の「欲望」についての判断をあけわたしてはいけない。口出しさせてもいけない。
こころの階層秩序が混乱していると苦しい生きかたになる。最高位の自我が支配権を放棄したり、反対に、最高位の自我がしもじもの雑務に手出しするような場合のことである。シンプルな規則によって統制されていない複雑なこころは、危険なエラーをまねきやすい。

自分のしたいことを実現するために行動するとき、相手が次にどう出るかという予測情報は余計なのだ。人は自由であり、そんなものに拘束される必要はない。
相手の出かたに応じて自分の欲望を調整するという不可能な生きかたはやめよう。

どうしても相手のことが気になるなら、相手が公式メッセージとして何を述べたか、そこに集中すればいい。それらは「読む」必要がない。それらに曖昧性はない。
曖昧なところにこそ真実が宿るなんてことは誰も言っていない。

(2012年1月25日に投稿した記事のカテゴリーを変更。
<旧> 自分を苦しめない暮らしかた → <新> 全体は部分に優先する) 
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たとえば俺は顧客の理不尽な要求をはじめて拒否できたとする。
相手はあっけにとられて怒ることもできなかったとする。
そんな時、俺は今回の成功は「たまたま」であり、次からはこうは上手くいくまいと思うかもしれない。
今回はたまたま信頼できる上司が近くにいたから。
今回はたまたま自分の得意な商品だったから。
今回はたまたま相手が急いでいたから。
今回はたまたま相手が重役の知人だったから。
今回はたまたまお気に入りのネクタイをつけていたから。

しかし本当にそうなのか?
この連載ではそういう風に考えない。
俺が力をつけて(力といってもこころの力である)「顧客の理不尽な要求を拒否したい」とこころから望むことができるようになったので、おのずから実現したのである。
信頼できる上司が近くにいかたどうか、自分の得意な商品だったかどうか、相手が急いでいたかどうか、相手が重役の知人だったかどうか……これらは俺の望みという重大事からみれば、ただのノイズにすぎない。取替え可能なオプションにすぎない。ネクタイと大差ない。

俺=自我はこれらの細目を知る必要がない。これらの細目を扱う仕事は下位の心的装置に「委譲」し、自動的な過程がすすむのにまかせればよい。
下位の心的装置は、俺に有利な条件を自力で探しだしたり、つくりだしたり、呼び寄せたりするはずである。
俺たちの精神とはそういうものだからだ。

しかし本気で望むことは最上位の自我=俺にしかできない。
それができるようになるためには、自分のこころと深く対話し、さまざまな「枠」へのとらわれからおのれを解放し、自由を手に入れなければならない。
 
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第1段 獨協大学の伊藤幸次教授によると、「田園監視人」は地方自治体の警察官。「田園監視官」とも訳せるのであろう。だから、女子寄宿生の言葉を日本風に意訳すれば、さしずめ「神さま、どうか警察ではございませんように」ということになろう。「畑のなかに迷い込」んだとか「まったく無邪気な」という記述から推察するに、彼女たちは警察に追われるような悪事を働いたわけではなさそうである。そういう前提に立つと、この段では、彼女たちのうちの誰かが、わけもわからず「田園監視官(≒警察)」という言葉を口走ったがために、その言葉にひきずられて混乱し、現実を見失い、ありもしない危機を恐れておびえる様子を描写したものと思われる。

第2段 アランはこのプロポを読んでいるはずの論敵に痛烈な皮肉を浴びせる。わかりやすさを優先してお下品に表現すると、「テメエがあまり現実離れした危機感におびえていやがるから、おいら、つい、前段のお馬鹿な女学生たちのことを思い出しちまったよ」
アランの楽観思想が気にくわない論敵は、楽観思想をあてこするためにわざと曲解し、危機的な現実から目をそむけるための気休めと決めつけ、「雨が降りそうなら傘を用意すればいい≒現実が危機的なのだから自衛手段を講じるべきだ」と言ったらしいのだ。
その論理をアランは「現実離れしたもの=芝居の書き割り」と決めつけ、痛烈な皮肉をもう一発お見舞いする。「おっと、テメエの話があまり現実離れしていやがるから、おいら、現実とまぼろし=書き割りの区別もつかなくなって、混乱のあまり、家の壁が本物かどうか確かめちまったよ」
ここまでは論争のために書かれたので、反語、皮肉、あてこすりが多くひどく読みにくい。次の段からは一気に読みやすくなる。

第3-4段 アランは、自然現象がもたらす不可抗力の未来と、人間が意志によってつくりだす未来とをはっきり区別しなくてはならないと述べる。後者にあっては、人類に対する信頼や自己に対する信頼こそが、希望を実現する意志のささえとなる。だから楽観思想が必要なのだ。悲観思想によって信頼を否定してはならない。

幸福論 (岩波文庫)幸福論 (岩波文庫)
(1998/01/16)
アラン

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ここまで、この不定期連載「全体は部分に優先する」におつきあいくださった方の中には、こんな疑問をもつ方もあるだろう。目標をもつことや、準備しないことは「全体は部分に優先する」こととどう関わるのか?
今回はその解説からはじめたい。

この連載では行為の階層の最高位に「目標」があると考える。つまり、行為の「全体」を代表するのが目標だ。
そして「目標」を実現するための個々の手続は、「目標」から枝分かれし、「目標」の一つ下の階層に属するノードである。各ノードはさらに細かくツリー状に分岐していく。末端に位置するノードは、たとえば指を動かすための筋肉の緊張や、特定の音を発声するときの声帯の振動であったりするだろう。

「目標」を別の言いかたで表現することもできる。前回述べた「決断する自我」である。「自我」の決断がツリー状に分岐し、末端の筋肉までいたることは上と同様なので省略する。

「目標」も「決断する自我」も、具体的な手続は下位のノードに「委譲」してしまい、顧みない。
各ノードは自分の責任において自分に割り振られた仕事を遂行する。エラーが生じたときは単独でか、あるいは他のノードと協調して補正した上で、次のノードに仕事をリレーする。エラーが補正されているので、次のノードは自分の仕事だけをすればいい。
このようにして、なかば自動的な過程が動作する。

しかし最高位の存在、つまり全体を代表し司令塔に位置する「決断する自我」が、「準備」と称して階層を跳び越し、「部分」すなわちはるか下位のノードに干渉するならば、自動的な過程は停止し、バランスが崩壊する。当然のなりゆきである。

だから俺=「決断する自我」よ、「部分」に拘泥するな、自分の持ち場である「全体」(司令塔)でつとめをはたせ。この連載はそう主張する。

そこで本題に入りたい。
俺=「決断する自我」が「腰を曲げてモノを拾ってはいけない」「うつぶせで寝てはいけない」「やらわかいソファに座ってはいけない」「あぐらをかいてはいけない」「コルセットをはずしてはいけない」等々という指示をかたくなに守ろうとして、つねに意識に刻んでおこうとつとめるならば、下位のノードに属する「自然治癒」の過程にたびたび干渉し、混乱をまねき、その過程を機能停止に追い込み、腰痛の快癒は望むべくもなくなるだろう。そればかりか「うっかり腰を曲げてしまった」「うつぶせで寝てしまった」「やわらかいソファにすわってしまった」「あぐらをかいてしまった」「コルセットを外してしまった」等々の不手際に運悪く気づいてしまうと、「決断する自我」は強すぎる警告を発し、患部を緊張させ、痛みをいっそう悪化させるだろう。

『腰痛は<怒り>である―痛みと心の不思議な関係』(長谷川淳史著 春秋社刊)は、「老化原因説」「椎間板原因説」「背骨の変形原因説」など、腰痛医療の通説が誤りであることを統計的に実証していく。画像診断の所見と痛みの発生には因果関係が認められないという。そして、真相は、慢性化した心的ストレスが筋肉の血流低下による酸素欠乏をまねき、それが痛み物質の蓄積、筋肉の痙攣、神経痛をひきおこすことにあると述べる。さらに、腰痛医療の通説が「呪い」となって患者に心的緊張を強い、痛みを慢性化させる(上に述べたような)過程をつぶさに語っている。

本書の帯には「真相を知れば、痛みは消える!」と太字で書かれている。たしかにその通りだった。回復途上にあったとはいえ、本書を読んであらゆる不安に根拠がないことを確信した結果、俺の腰痛は消えたのである。
俺は、本書の著者が訳した『サーノ博士のヒーリング・バックペイン』『心はなぜ腰痛を選ぶのか』(いずれもJ・E・サーノ著 春秋社刊)をそのうち読もうと思って買ってあったのだが、本書で腰痛が消えたため、読む必要がなくなってしまった。

俺の本書との出会いは幸運だったのかもしれない。誰もが本書を一度読んだだけで腰痛から解放されるとは限らない。俺も別のタイミングで読んでいたらどうだったかわからない。
しかし著者は再読、再々読を勧めている。真相を深く理解し「自信と勇気を取り戻」せば、痛みから解放される日は近い。

腰痛は<怒り>である 普及版腰痛は<怒り>である 普及版
(2002/03/09)
長谷川 淳史

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先週、はじめての遠近両用メガネを買った。
目下ならしている最中で、「ならし期間」につきものの眼の奥のこり、首こり、吐き気の症状がある。
一、二週間、あるいは、長くとも一か月ですっかりなれて、これらの症状は解消し、快適に過ごせるようになると思う。

メガネ

こういう現象は遠近両用メガネに限らない。
メガネを変えるたびに「ならし期間」は必要らしく、その間、多少なりとも上記の症状が出ることはさけられない。
しかし、そうは言っても苦しいものは苦しい。苦しくて、元のメガネに戻したいほどだが、新しいメガネを作るにいたった自分の決断は無駄にしたくない。お金もかかっている。
この「ならし期間」をもう少し楽にすごす手だてはないものだろうか?
ないならば、せめてこの不可解で理不尽な苦痛がもう少し理解可能にならないだろうか?
メガネをかけただけで気分まで滅入ってくるのはたえられないから。

大きな混乱の理由は、上記の症状の背後に2つの原因系が存在していることだと思う。それらが輻輳して症状を形成するために、症状の発生機構をイメージすることがいっそう困難になる。納得がいかないから余計にたえがたくなるのだ。

以下は擬似学術的、擬似医学的な記述となり、まったく正確ではないが、専門家の方はご寛恕ねがいたい。

ひとつは視覚系である。レンズが変わったことと、レンズと目の間の距離が変わったことによって以前とは異なる形で入ってくる光学的刺激を正しく処理するため、視覚器官だけではなく、脳・神経系のさまざまな部位が動員されるのであろう。
脳には光学的刺激を視覚像におきかえる巨大な翻訳装置(ただし無形の)があると思う。この装置は、視覚器官から送られてくる情報や、他の感覚器官から送られてくる補正情報にもとづいて、「前のメガネに最適化された翻訳パラメータの束」に新しいパラメータの群れを上書きしていく。それらのパラメータによって翻訳装置を試運転し、結果をふまえて微調整を行なう。試運転を繰り返して完成形に近づけていく。
これだけの複雑精妙な作業を脳・神経系に強いているとすれば、多少の倦怠感がつづいても不思議はないかもしれない。
また、試運転中は不完全な翻訳機能を視覚装置の側で補ってやらねばならない場面がいくらもあるだろう。たとえば、パラメータの感度が高すぎるときはどこかの部位の緊張を強めて入力を弱くしたり、低すぎるときは緊張を弱めて入力を強化するなどである。こういう作業が何時間も何日もつづくならば、目の疲労や首こり、吐き気も理解できる気がする。
また、メガネを変えてから日が浅ければ浅いほど、翻訳機能は不完全で、前のメガネのそれをひきずっているから、光学的刺激と自我が欲している視覚像との間のギャップが大きく、各部位に負荷がかかり、苦痛が強いのも無理はあるまい。

もうひとつは筋肉系である。フレームを変えたことにより、耳、鼻、後頭部にかかる締め付け圧力の地図が変化し、未開拓の筋肉部位がこの圧力に過敏に反応して痛みを発するのであろう。
筋肉に結びついた神経系が、この圧力には危険がないことを学習し、緊張を解くまでにはそれなりの日数がかかるだろう。
それまでの間、圧力を受けている部位に近い首の痛みや頭痛が出たり、それらが胃に影響して吐き気をひきおこすことは当然かもしれない。

最後に、視覚系のトピックに注をつけておきたい。
「前のメガネに最適化された翻訳パラメータの束」は新しいパラメータ群によって上書きされると述べた。しかしほんとうにそれだけなのか?
その「前のメガネに最適化された翻訳パラメータの束」は、どこか別の領域に保存されるのではないだろうか?
そう考えなければ、メガネのかけかえが可能な理由を説明できない。
どこかにリフィルとして保存され、必要に応じて呼び出し、差し替えられるのでなければ、メガネのかけかえは可能にならない。というか、メガネをかけかえるたびに一週間から一か月の「ならし期間」が必要となり、その間苦痛にたえなければならないことになる。
おそらく、脳の記憶領域には自我の体験(コンピュータでいえばテキストにたとえることができる)だけが保存されているわけではなくて、こういうバイナリ情報も無数に保存されている。

(2011年9月3日に投稿した記事を全面的に改稿) 

 

 

 

 
いつからこんな癖がついてしまったのだろう。
仕事でややこしい頼みごとをするとき、受話器をとる前に話の段取りを考えたり、必ず言っておこうと思うセリフをメモしておいたり、あげくのはてには、電話を見合わせてメーラーを開き、選びぬいた言葉で丁重かつ反論の余地のない文章を練りあげて送ったりする。

しかし、こういう周到な準備こそかえって自分を苦しくする。恐れ(心配)には際限がないからだ。準備すればするほど恐れもつのる。もちろん、俺を脅迫的な準備行為にかりたてているものこそは恐れである。
そればかりではない。恐れは、会話の「間」や、メールの中の微妙な言葉の選びかたを通じて相手に感染する。
相手も恐れるから反発する。

では、いっそのこと何も準備しないでいきなり電話をかけてみよう。
俺は駆け出しの新入社員とはちがう。知識も経験もある。相手の「人となり」も知っている。
心の中の司令塔に位置する俺の「決断する自我」は、受話器をとり、相手の番号をダイヤルし、相手が出るのをまつ間だけエンジンをふかせば(意志の力を発揮すれば)いい。
あとはしもじもの心的装置が、つまり、相手の言うことを聴く装置や、自分の意見を述べる装置や、自己主張の度合いを調整する装置や、会話にジョークをおりまぜる装置等々が協調して働き、なかば自動的に交渉をやりとげてしまうだろう。

先日紹介した『機械の中の幽霊』には「ムカデのパラドックス」が出てくる。ムカデに百本の足の正確な動かし方を尋ねたところ、彼は混乱におちいり、歩くこともできなくなって飢え死にしたという。ムカデの「自我」はそんなことを考えたこともなかった。具体的な足の運びはしもじもの心的装置に「委譲」し、自動操縦で動いていたからだ。
俺たち人間も同じだ。最高位の自我が恐れにたえられなくなって、しもじものレベルに干渉し「代わりに考えてやる」などと思ってでしゃばるから、混乱して機能不全におちいるのだ。

恐れが減れば不首尾を引きよせる磁力も減ってくる。
だから「準備せずに電話する」ことに習熟すれば、交渉に成功する確率が増すだろう。
おまけに、たまに失敗してもそれは偶然であり、同じ失敗をくりかえす恐れをもつ必要はないことが確信できるようになるだろう。 
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・「他者からみた自分」という幻影

街頭で他人の顔を醜いと思ってよく見たら、大鏡に映った自分だったとする。
それ以来、俺は家で鏡を見るたびに自分の顔の欠点をさがすようにつとめ、自分で思うよりも俺はずっと醜いのだ、うぬぼれるな、と自分に言い聞かせるかもしれない。

仕事で自分の気づかなかったミスを一度指摘されると、俺は自分で思うよりもずっとうっかり者なのだと信じこみ、それ以後、倍の時間をかけて仕上がりを確認するようになるかもしれない。

こういう愚かな悪癖から自分の足を洗わせるにはどうすればいいだろうか?

まず、俺をこれらの悪癖に向かわせた情熱の来歴を自覚しよう。それは、他人の知っている(であろう)真実を自分だけが知らないことへの憤りであろう。
しかし、これは自我のもつ競争的性格から不可避的に出てくる副産物であり、積極的な意味はないのだと知れば、とらわれる必要はなくなるだろう。

次に、たった一、ニの証拠から、自分の劣等性が証明されたと信じこむことの非論理性を自覚しよう。 嘘だと思ったら、反証さがしをしてみるといい。反証のほうが山のように出てくるはずだから。

「他者からみた自分」を、俺は永久に知ることができないし、操作することもできない。それなのに「自己評価を割引する」というトリックを使えばそれができるかのように思ったことがそもそもの間違いなのだ。
ありもしない幻影のために支払う代価としては、この自己犠牲は重すぎてひきあわない。 
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昨年末、俺は「全体は部分に優先する」をカテゴリーとして独立させた。以前から興味をもっていたこのテーマにじっくり取り組んでみようという気になったからである。
それと前後して、急にポリスの『ゴースト・イン・ザ・マシーン』が聴きたくなった。これは単なる偶然だったのであろうか?
まもなく、このタイトルは本書『機械の中の幽霊』の原題であることに気がついた。検索してみて、この本には「全体と部分」のことが書かれていることを知った。

・要約

第一部 秩序
物質のミクロな構造、生物体、心、言語、社会、天体など、およそ構造をもつものは「階層的秩序(OHS)」に律せられている。部分の組み合わせがサブシステムを作り、サブシステムの組み合わせが上位のサブシステムを作り、このサブシステムの組み合わせがさらに上位のサブシステムを作る。このステップを上位の方向と下位の方向へそれぞれ連鎖させると「階層的秩序」になる。各ノードは一つ上の階層からみれば「部分」、一つ下の階層からみれば「全体」という性格をもち、この性格のゆえにホロン(全体子)と名づけられる。
一面では各ホロンは「全体帰属的」な傾向をもち、上位ホロンの部分としてふるまう。上位ホロンは下位ホロンに対してきわめて簡潔な命令を下し、細かい手順は下位ホロンに「委譲」する。すると下位ホロンはそのホロン固有の規則にのっとって具体的な手順を立案し遂行する。その過程で生じたエラーはこのホロンの責任で補正されるから、上位ホロンは具体的な手順を知る必要はなく、命令が遂行されたという事実だけを知ればよい。
一方で、各ホロンは「自己主張的」な傾向をもち、同位のホロンとの間で競争関係になることもある。
そして、以上のような階層構造の存在を認めず、全体は部分の総和にすぎないと考える要素還元主義者たち(とくに行動主義心理学者たち)の論理を、著者は「地球平面観」と名づけて指弾する。

第二部 生成
進化論が主要テーマとなり、まず「突然変異」と「自然淘汰」だけで進化を説明しようとする正統派ダーウィニズムが批判される。ランダムな突然変異によって進化は説明できない。ランダムな突然変異が単独で存続することは考えられない。なぜなら他の諸器官と協調しないかぎりそのような変異は個体の生存を危うくするからだ。とはいえ、ホロンのもつ自己補正能力によってそのような変異(エラー)の影響は消去される(これを「内部淘汰」と呼ぶ)。すると、進化には方向性があると考えざるを得ない。生物体が一定の方向で準備をすすめたすえに、偶然の突然変異が起こってその準備過程を完成させる(裏を返せば、準備されなかった突然変異はエラーとして消去される)というわけである。
科学史上の大発見は、しばしば複数の者によって、全く独立に、しかもほとんど同時期になされる。これは「一定の型の発明発見の時期が熟すれば、それに点火する幸運な偶然事は、遅かれ早かれ生ぜずにはいない」からである。同様のことが進化の過程でも起こっているのであろう。
次に、進化における「幼形生殖」の戦略が語られる。成体の特殊化が進み、習慣をかたくなに守ることによって生きられるように「適応」した結果、活動性が低下し、進化の袋小路に入ってしまった種は、しばしば「幼形生殖」によって、より融通性のある古い形から進化を「やりなおす」。人類の科学や思想の進歩においても、同じ「跳ぶために退く」戦略がとられてきた。
第二部の最後で、書名にもなっている「機械の中の幽霊」という文句が引用される。これは地球平面観の論客ギルバート・ライルが、身体と心の区別を皮肉って、心の存在を嘲るために使った文句だ。著者はこの文句を逆手にとり、なるほど、確かに「機械の中の幽霊」は存在する、しかしそれは「身体と心」という単純な二分法ではなく、階層的秩序の中で論じられるべきだと述べる。

第三部 無秩序
前二部の予備的考察をふまえて、著者は人類の「危急の問題」を俎上に載せる。それはヒトというホロンのもつ「全体帰属性」と「自己主張性」の誤った接続がもたらす苦境だ。
「全体帰属性(自己超越性)」の情緒はより大きな存在と溶けあうことによる鎮静としてあらわれ、「自己主張性」の情緒は競争のための攻撃、防衛としてあらわれる。
しかし、人間にあっては「全体帰属性」が誤って攻撃性と結びけられ、神、大義、民族、信条、偉大な指導者の名のもとに大量殺戮が行われてきた。それにくらべれば「利己主義(自己主張性)」のもたらす害は問題にならないほどだ。
人類に特有のこの偏執狂的性格は、人間の脳のなりたちに原因がありそうだ。人間の脳は爬虫類型・古哺乳類型の古い脳(辺縁系)と、新哺乳類型の新しい脳(新皮質系)の複合したものである。おおまかにいえば、辺縁系は本能(内臓感覚や情緒反応)と密接に結びついていて、新皮質系は理性と密接に結びついている。しかし両者の間にはきれいに分業が成り立っているわけではない。辺縁系はしばしば理性の仕事に干渉し、さらには理性にとってかわり「舞台をひとりじめにしてしまう」。
本能と理性とのこの協調不全(これを「分裂生理」と呼ぶ)が人類のおちいっている苦境の原因であろう。しかし、本能と理性の間に橋をかけるという理想的な突然変異がそう簡単に起こるとは考えられない。だとすれば、われわれは精神薬理学の発達によって治療法が見出されることに期待すればよいであろう。
(要約終わり)


本書の表現を借りれば、俺はさしずめ「本書を読む準備ができた」がゆえに、幸運な偶然によって本書と出会ったことになる。

期待したとおりの良書だった。俺の知りたかった「全体と部分」のことが詳しく書かれている。とくに、軍隊と行政機構を例にとって、トップの簡潔な命令が、階層を下るたびに具体性を増す指示として分岐していく様子を描写したところ。そして、自我の「タバコに火をつけよ」という簡潔な命令が、神経の階層を下り、筋肉の末端まで到達し、その間に各階層は独自の機構によって動作を調節し、エラーを補正して次の階層を活性化するので、自我は筋肉の具体的な動きを意識する必要がないと述べたところ。前の2つのエントリ(このカテゴリの)で俺が提案した思考法を支持し、肉づけしてくれるものであった。大きな収穫だ。

進化論批判は痛快であった。論証は説得力があり、実例の選び方は見事、文章の歯切れもよく、本書のクライマックスであろう。

「脳のなりたち」についての記述は、俺にとって未知の領域であった。今まで抽象概念と思っていた「理性」「本能」に、それぞれ対応する器官がある(「理性≒自我≒新皮質系」「本能≒イド≒辺縁系」)という発見は驚きであった。この知見の利点は、具体的にイメージできるという点にある。しかし、厳密に対応しているわけではないから、実体化して考えるのは危険だ。なお、本書は45年前の出版であるから、理性への信頼が優勢であり、新皮質系を贔屓する傾向がある。現在はマインドフルネスが提唱されている時代であるから、暴走する理性に翻弄されることよりも、身体の声に耳を澄ますことが重視されるだろう。俺も「辺縁系がんばれ」と応援したくなった。そして、人間的理性の割り切った思考よりも、動物的本能の曖昧さを許容する思考に学ぼうではないかと、愛犬を見ながら思った。分裂生理の治療法は、むしろこっちの方向にあるのではないだろうか。

翻訳も申し分がない。
ゆいいつの欠点は、本書の結論があまりにもお粗末なことだろう。理性への信仰ぶりが素朴すぎるし、精神薬理学への期待も楽観的すぎる。
しかしそれは45年前という時代の限界であろう。そのことは本書の価値をすこしも損なわない。重要なのは、立派な結論をみちびくことではなく、「階層的秩序」の問題系を創設したことである。時代を超えて読み継がれるべき名著だと思う。
ちなみに、本書は現在品切れ状態だ。もったいない。ぜひ復刊させよう。



高価だが、すぐに読みたければ古書を買う手もある。

機械の中の幽霊 (ちくま学芸文庫)機械の中の幽霊 (ちくま学芸文庫)
(1995/06)
アーサー ケストラー

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・思想家の命題、作家の警句

学者、思想家、作家の書いた文章を読んでいて、目のウロコが落ちるようなすばらしい一節に出会ったとする。そしてその著者は俺にとって尊敬おくあたわざる人物だとする。
感動のあまり、俺は人生のさまざまな場面でその一節をおもいだし、その一節の指示するところにしたがってモノゴトを考えようとするかもしれない。

しかしそれでよいのだろうか?
その一節は、その書物固有の文脈の中で述べられた真理であり、しかも一面的な真理にすぎない。
もしかしたら文の調子をととのえるための修飾節にすぎないかもしれない。
それに、気が利いていることは必ずしもその一節が真理であることを意味しない。

だとしたら、今現在俺がかかえている問題についての自然な解釈を曲げてまで、この著者に追随する必要はない。
俺が彼を尊敬することと、彼が必ず真実を述べているかどうかは別だ。
また、その一節にこめられた洞察の深さと、その洞察が、俺の現在の問題に適用可能かどうかは別だ。
彼がフロイトであろうと、ドストエフスキーであろうとだ。

そのことに気づけば、その一節に必要以上にとらわれて苦しい選択をする必要はなくなる。
そっと手放そう。 
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・原因論よさらば

医療は病気の原因を追求するところからはじまる。原因がわかれば治療することができる。きわめて合理的で有効な方法だ。

反対に、メンタルな問題では原因論がしばしば有害に作用する。
「両親の育てかたが原因で引きこもりになった」
「悪意のある中傷を受けつづけたのが原因でうつ病になった」
「父親から虐待されつづけたのが原因で不幸な恋愛をくりかえしてしまう」
「他人に気を使いすぎるのが原因で、人からつけこまれてばかりいる」
「命じられた職務に不満なのが原因で、ミスばかりしている」
これらの原因論には確かに合理性がある。それに、意味不明の災難に説明が与えられることで、いいようのない恐怖からひとまず解放されるという利点はある。
しかし問題が2つある。
ひとつは、原因がわかっても治療できないこと。
もうひとつは、過去のことや解決できないことが原因であって取り除くことがかなわないにもかかわらず、これらの原因を告げられた当人は、原因への強いこだわりを抱き、いっそう苦しむことだ。
原因人物にたいして深い敵意をもつ一方で、宿命論的な信念により、症状を手放すことがなおさら難しくなる。

しかし、上記のような原因論はひとつの解釈に過ぎない。解釈としては間違っていないかもしれないが、可能な解釈群の中の一つにすぎない。
人間は、入力と出力が1対1で対応するような自動機械ではない。
それに、経験を解釈する文脈(思想的背景)は1つではない。
むしろ、文脈が1つしかないと思い込む彼の性向が、症状を強化し、自分を苦しめてきたのかもしれない。
人間にはもっと柔軟性があるし、世界も、世界を構成するモノゴトも、彼が思うよりもずっと多様性に富み、曖昧で、未決定で、相対的であろう。

だから、原因論は、いったん認識したあとで、きっぱりとおさらばしよう。 
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盛々夏野菜

Author:盛々夏野菜

男性、既婚、事務系サラリーマン。
現代思想フェチだが、本を読むのが遅いのであまり多くは読めない。地底人生活を経て現在は臨床心理に関心がある。新鮮な胡瓜が好き。
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