きゅうり

 

盛々夏野菜のハードエッセイ & ショートストーリー 【思想、心理、書評、劇評、感想、あらすじ】
 

 

 
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 

 

 

 

 
愛犬との散歩の一こまである。

その日、雪がつもったので愛犬にレインコートを着せてでかけた。
そのレインコートはウエスト部分のゴムがすこしきつい。
彼はオスだからオシッコのときに足を上げるのだけれど、ゴムがきつくて思うようにコントロールできないようだった。

そして彼の苦闘がはじまった。
ガードレールに向かって左足を上げてみる。
くるっと半回転して、今度は右足を上げてみる。
すこし進み、今度はガードレールの端を狙ってみる。
次はガードレールとガードレールの間の何もない空間を狙ってみる。
移動して、植え込みの多年草を狙ってみる。
場所を変えて試し、また場所を変えて試す。
しかし何度場所を変えても足の上がり方に納得がいかず、放尿できない。

ついに、ガードレールより丈の高い、ブリキの市街図を見つけた。
狙う。空中で足が静止する。
オシッコがほとばしる。
おめでとう。俺はきみのけなげさがいとおしい。いっぱいナデナデしてあげようね。

ではこの現象を考察しよう。

彼は目標物に足をもたせかけていない。
だから、背景に何があろうと、また何もなくても、潜在的に彼は放尿の姿勢をとるための筋力は有している。
では何ゆえ失敗しつづけたのか? また何ゆえ最後に成功したのか?

彼の試行錯誤は「場所の変更」というかたちでなされた。より精密に言い直せば、さまざまな高さの目標物を試すために場所を変えつづけたのだ。
一方、彼は姿勢を変えることに重点を置かなかった。もちろん、結果的には、放尿の姿勢がとれたことで放尿に成功したことは間違いないのだが。

ここに、俺たちの学ぶべき知恵がある。
放尿の姿勢をとるための筋肉運動は、目標物に当てるための砲術の全体の中に部分として従属している。
そして彼はその砲術に習熟している。
だから、やみくもにさまざまな姿勢を試すよりも、適切な高さの目標物をさがすという一点に集中したほうが効率がよかったのである。 
スポンサーサイト
テーマ * 心と幸せ ジャンル * 心と身体

 

 

 

 
先日、『心をはなれて、人はよみがえる―カウンセリングの深遠』の紹介で、俺は、「八方塞がりになったときに「心をはなれる」状態が生まれる。そして苦痛が消える」と書いた。
俺がほんの1行ですませてしまったこの過程を論ずるのに、著者は今回紹介するこの1冊をまるまる費やしている。

上記の八方塞がり状況を著者は「絶対矛盾」と命名する。
A(枠を守り、いい子を演ずる自分)と反A(枠に反発し、自由にふるまおうとする自分)が対立し、どうにもならなくなった状態が「絶対矛盾」である。
この「絶対矛盾」に直面したとき、カウンセラーは何もアドバイスすることができない。
何かアドバイスすれば、それはAか反Aのどちらかを支持することになり、もう一方を抑圧してしまう。
だからカウンセラーは「あいまい」にふるまうしかなく、この矛盾をただ受容するようにつとめる。
そしてクライエントがAと反Aの両方を受け入れられるようになったとき、枠の圧力は消え、「ふっきれ」て、新しい生き方(C)に至る。

へたな例だけど、母親から早起きを命じられた子どものことを考えてみよう。
早起きの指令は「枠」であり、これにすなおにしたがうのはAである。反発して起きないのは反Aである。どちらも枠の圧力にたいする反応だ。
子どもがAの時期を経て反Aの反発を感じ、絶対矛盾を経験し、やがて起きても起きなくてもどちらでもいいと思えるとき(C)がくるならば、枠の圧力は消え、自分の意思で起きられるようになるだろう(もちろん起きなくてもよい)。そして母親も変わる。

さらに、本書では俺たちが「枠」を身につけるにいたる過程で「恐怖」が演ずる役割について述べている。人から見はなされたり嫌われたりする恐怖のために、俺たちは「枠」の圧力に屈し、苦しい生き方をえらんでしまったのだ。
絶対矛盾のもとで自分の「恐怖心」を直視し、そんな弱虫の自分を受け入れることが、新しい生き方(C)にいたるための鍵である。

もちろん、本書はこの程度の紹介では汲みつくせない豊かな洞察にみちている。ぜひ手にとってほしい。
他の2著の紹介でも書いたように、回復のロードマップとしてこころづよい友になるはずである。


余談であるが、高橋先生が使う用語はラカン派の用語とうまく重なるのだ。
「枠」=大文字の他者、A=疎外、反A=分離、C=幻想の横断。
同じこころという対象を扱う概念装置が似てくるのは当然といえば当然なのだが。

生まれ変わる心―カウンセリングの現場で起こること生まれ変わる心―カウンセリングの現場で起こること
(2003/02)
高橋 和巳

商品詳細を見る
 
テーマ * 書評 ジャンル * 本・雑誌

 

 

 

 
本書は先日ご紹介した『心をはなれて、人はよみがえる―カウンセリングの深遠』の6年前に書かれた。

自分を縛る「枠」へのとらわれを軸として、うつ、拒食、引きこもりとそこからの回復が詳細に語られる。
「絶望」し、「あきらめ」たときに新しい自分との出会いがある。そこにいたる過程で俺たちが何を感じ、何に悩むかが書かれている。苦難の道行きの水先案内をつとめてくれる稀有な書物だ。

前掲書の紹介で、俺は「怒り」の効用について述べた。以前の苦しい生き方に戻ることを許さない(それゆえ回復の決め手となる)「怒り」のエネルギーだ。
本書では同じことを「身体が許さない」と表現している。このテーマについて、前掲書では軽く触れられているだけだが、本書では実例を引いて詳しく語られる。座右に置いて、攻略本のように使おう。

新しく生きる―今の自分でいい、そのままでいい新しく生きる―今の自分でいい、そのままでいい
(2001/08)
高橋 和巳

商品詳細を見る
 
テーマ * 書評 ジャンル * 本・雑誌

 

 

 

 
【ネタバレ情報含む。未見の方ご注意】

映画『リアル・スティール』

2020年、生身の人間によるボクシングは衰退し、ロボット・ボクシングの全盛時代に入っていた。
チャーリー・ケントンは将来有望なボクサーであったが、ロボットに活躍の場をうばわれ、夢をうしない、場末のロボット・ボクシング興行で細々と食いつないでいる。妻ともわかれ、自暴自棄になり、いちかばちかの無茶な勝負に手を出して負けつづけ、カラッケツになっている。
そのころ、わかれた妻が死んだ。妻のもとで育った息子マックスは叔母のもとに引きとられることになった。チャーリーは、親権の放棄と引きかえに受けとる手切れ金の額をつりあげるため、マックスをひと月だけ預かることにした。
やがてマックスは父親のロボット・ボクシングを手伝うようになり、無計画ゆえに負けつづける父親に、的確なアドバイスを出しはじめる。
しかし親子が夢を託したロボット「ノイジー・ボーイ」はあっけなく敗れてスクラップになり、チャーリーはふたたび無一物となる。
そんな時、親子がゴミ処分場で見つけた「アトム」は、模倣装置を搭載した、旧世代のスパーリング用ロボットであった。マックスはこいつに音声認識装置を組みこんで実戦で使えるようにし、チャーリーは模倣装置を使ってボクシングの型を教えこむ。
アトムは連戦連勝をつづけ、親子の絆も深まり、そしてついに頂上決戦「リアル・スティール」に上りつめる。無敗の帝王「ゼウス」との死闘。チャーリーはヘッドセットから的確な指示を送る優秀なセコンドとなっている。ゼウスをあと一歩でKOというところまで追いつめたとき、ゼウスが苦しまぎれに放った一撃で音声認識装置がやられてしまう。チャーリーの指示は伝わらなくなり、アトムはゼウスの攻撃をかわすこともできない。マックスは迷わず音声認識装置を切り、模倣装置に切りかえる。模倣装置は旧世代の廃れた技術であり、誰も実戦に使えるとは思っていなかったのだが。

その時、チャーリーはアトムと向きあい、アトムの両目と自分の両目を指さして言う、「俺を見ろ」
アトムはその動作をそっくりそのまま模倣する。
美しいシーンだ。
ここでアトムはチャーリーの「もうひとりの自分」になった。
そしてチャーリーは不幸の呪縛から解放され、救済される。
それを見ている俺たち観衆も救済される。

アトムはチャーリーの動きとシンクロしてパンチを繰り出し、ゼウスをたたきのめしていく。
空間に向かってパンチを振るうチャーリーの、晴れ晴れした表情もまた美しい。

「もうひとりの自分」の出現、みもふたもなく言えば「自分を客観視できる余裕」の成立。これは人が神経症から回復するときの重要なステップだと思う。同時に、芸術作品が俺たちを感動させる力の源泉のひとつでもある。
今後、この「自我の二重化」という手法を使った芸術作品について語っていきたいと思う。 
テーマ * 特撮・SF・ファンタジー映画 ジャンル * 映画

 

 

 

 
作家の高橋和巳とは別人だ。

お世話になっている臨床心理士のメールマガジンでこの本を知った。
ページ数は少ない。改行が多く、余白が目立つ。しかし内容の濃さは一級であった。

神経症からの回復過程が明晰に語られる。
個々の症例によりそいつつも、決して多様性の中にうずもれることなく、体験の核をつかみ出して見せてくれる。
豊富な臨床経験がこの明晰さを可能にしたのであろう。
明晰だからページ数を費やさずにすむのだ。

制約が多く苦しい生き方を自分に課して生きてきた自分がいる。
その生き方がやがて行き詰まり、制約の多い「オモテの自分」と、やんちゃな「裏の自分」が葛藤を起こす。はてしない苦痛がつづく。八方塞がりになったときに「心をはなれる」状態が生まれる。そして苦痛が消える。もっとも、カウンセリングによってガイドされることが必要なのだが。

あ、俺のことだ、と思った。俺が通ってきた道だ。俺はまだ道半ばだけれど。
そして俺がこれから通る道だ。しかも著者はこの道を漠然とではなく明晰に照らしだしてくれた。
この本のおかげで、わが回復過程を、横道にそれることなく進んで行けそうな気がする。

各ページ感動の連続だが、特に感銘を受けた点を2つ述べておきたい。

ひとつは「怒り」の効用だ。カウンセリングの過程で「怒り」が重要な役割を果たすらしいことは知っていたが、俺は漠然としか理解していなかった。本書を読んでわかったのは、以前の生き方(制約の多い生き方)に戻ることを決して許さないのが「怒り」のパワーだということであった。そうか、「怒り」の使いどころはそこなのだな。
いくら「自分を責めるのはよそう」と誓っても、自分を責める反応が自動化されている場合は、この反応を止めるのに巨大なエネルギーが必要だし、止める努力そのものが新たな葛藤を生み、苦痛を増す結果となるだろう。
しかし、自分を責めそうになるたびに「怒り」がもつ反発のエネルギーをそこに流しこみ、「二度と自分を責めたりするものか」と心のなかでつぶやくならば、持ちこたえることは可能であろう。うまく説明できないが、ここでは葛藤とは異なる過程が進行するようだ。だって胃が痛くならないもん。

もうひとつは「自我」をはなれた俺がどこへ向かうかだ。
この本を読むまで、俺は制約の多い「オモテの自分」が自我であり、俺はそこをはなれて「裏の自分」である欲動に向かえばよいのだと思っていた。
ところが、この本によれば「オモテの自分」と「裏の自分」の両方が自我であり、俺はそのどちらからもはなれるのだ。そして「はなれる」ことそのものが「大我」と呼ばれる。
「大我」がいかなるものかを描写するのは俺の手に余る。ぜひ本書に直接あたってほしい。
俺は、「大我」をイメージできるようになったことで、わが回復過程をよりいっそうバージョンアップさせることができそうである。

心をはなれて、人はよみがえる―カウンセリングの深遠心をはなれて、人はよみがえる―カウンセリングの深遠
(2007/06)
高橋 和巳

商品詳細を見る
 
テーマ * 書評 ジャンル * 本・雑誌

 

 

 

 
アランの『幸福論』には93の断章が入っている。
短いから読みやすいかといえば、そうとばかりはいえない。中には相当手強いのもある。
26番「ヘラクレス」はその一つで、一度読んだだけではさっぱり意味がわからない。
「苦境を脱する意志」の話題からはじめておいて、なぜ2ページかそこらで「相違や多様性」の話題に変わってしまうのか?

おそらく、この断章を構成する5つの段落はあまり緊密には結びついていない。やや散漫な感じは否定できない。中心段落の4段をなかだちとして、ゆるめに結びついていると言えるだろう。
キーワードの「障害」も段落ごとに呼び名が異なるし、それを論ずる視点も異なっている。

1段で提起された「障害」のテーマは2段に引き継がれ、決断する若者の潔さが論じられるが、やや横道にそれたのでその話題は放置される。3段と4段(3段が導入で4段が本論)で、「障害」のテーマは「タナボタ」との対比で改めて論じられ、むしろ「障害」はよいものであることがわかってくる。そして5段でまとめの要約がなされる。

では、「障害」の概念に着目して段落ごとにテキストの流れを整理してみたい。

1段 苦境(障害)に打ち勝つ力は人間の意志の中にしかない。ヘラクレスはそのよい手本だ。
2段 障害に打ち勝つ意志をもつ者は、自分のあやまちを直視し、ひきうけることができる。
3段 タナボタ式に幸運が舞いこむ(障害がなくなる)ことをあてにしてはならない。
4段 存在は人間の欲望に最適化されてはいない。その意味ではすべてのものが障害と言ってもよい。人間の営みだけが障害を排除し、幸福のための道を切り開く。だから、何につけ、自分で何もしないうちから幸福の前兆があらわれるのはよくない。世界がよそよそしさ(障害)に満ち、自分の意志で切り開かねばならないことを忘れ、タナボタ式に幸福が舞いこむことを期待してしまうからだ。存在の真実の姿は、口あたりのよい前兆ではなく、豊かなよそよそしさの中にこそあるだろう。それこそがほんとうに美しいし、じっさいに役に立つ。
5段 精力的な人たち(障害に打ち勝つ意志をもつ者)は、さまざまな相違や多様性(人間の欲望にあわせて仕組まれた紋切型の前兆ではなく、自然発生的であるゆえに、多様でよそよそしい)を好むことを、ぼくは知った。真の平和は(タナボタをあてにして生きる人びとの怠惰と不平の間ではなく)力と力(障害に打ち勝ち、幸福を手に入れようとする意志と意志)の間にある。

ところで、俺がアランの『幸福論』を手に取ったのは、他の多くの人と同じく、NHK・Eテレの『100分de名著』に取り上げられたからだ。この『100分de名著』は、他にもニーチェ『ツァラトゥストラ』とブッダ『真理のことば』を取り上げていて、「心の平和」(思い切って言い換えればメンタルヘルス)への志向が強い番組だと思う。

それはともかく、アランの『幸福論』を読んでみると、題名からうける印象とは相違して、身体の重要性と「自動思考」の危険性を説き、唯物論的(「商品」ではなく「身体」の方の)で、マインドフルな洞察にあふれている。俺がこのブログで語ろうとしているテーマを先取りしている。つまり俺は偉大な先達に出会ったのだ。アランを知ったのはこのブログを始めた後だけれど、この先達に敬意を払いつつ書きついでいきたい。俺はアランとは違って吹けば飛ぶような書き手だけれど、先達がいることはこころづよい。

アラン『幸福論』の翻訳は岩波文庫(神谷幹夫訳)がすぐれている。他の訳をいくつか眺めたが、難解な箇所への取り組みが弱いと思う。
必ずしも岩波文庫が権威というわけではないが、この本に限っては岩波文庫で読んでほしい。

幸福論 (岩波文庫)幸福論 (岩波文庫)
(1998/01/16)
アラン

商品詳細を見る


幸福論 (ワイド版岩波文庫)幸福論 (ワイド版岩波文庫)
(2002/10/16)
アラン

商品詳細を見る
 
テーマ * 書評 ジャンル * 本・雑誌

 

 

 

 
こちらに引っ越しました。












青べか物語

黒テントの内沢雅彦さんが『青べか物語』のチラシを送ってくれた。
俺にとって、個人名でチラシを送ってくれる人といえば、この内沢さんと鄭義信さんのふたりくらいなのだが、実はこの公演、内沢さんの熱いリクエストに応えて鄭さんが構成・演出を手がけることになった友情あふれるコラボ作品なのだ。

内沢さんは黒テント所属のベテランで、主役級をいくつもつとめてきた、味のある名優、イケメンである。
鄭義信さんは『焼肉ドラゴン』と『愛を乞う人』で演劇と映画の両ジャンルを制覇したモンスターというべき劇作・演出・脚本家である。

25年前、俺は黒テントの追っかけをやっていた。一介のファンにすぎない俺をかわいがってくれた劇団員グループの中の二人が、内沢さんと、作業場の公演で処女作を作・演出したばかりの鄭さんだった。

当時、黒テントは「物語る演劇」を実践していた。
詩や小説という戯曲形式でないテキストを、地の文を含めて一切省略せずに演じる。地の文は人物に割り当てられたセリフではないから、俳優個人とテキストとの間の距離感というか緊張感がとりわけ重要である。俳優の技量が問われる形式なのだ。
一方で、地の文が使えるから、状況説明のための会話を延々とつらねずともさらりと一言ですませ、すぐ本題に入れる。演劇の可能性を広げる実験でもあるわけだ。
この形式を使った名作がたくさんある。『cabaret金芝河』、『糞氏物語』、『宮沢賢治旅行記』、『プロレタリア哀愁劇場』……。黒テントにとって、何度目かの黄金時代だったのだと思う。

そして今回、その時代を若き俳優(鄭さんも劇作のかたわら長いこと俳優として活躍していた)として過ごしたふたりが再会し、ふたたび「物語る演劇」に挑む。「アジアで一番しつこい演出家」(自称)である鄭さんが、黒テントの手だれの俳優たちとどう対決するか。懐しく、新鮮で、刺激的な舞台になるはずだ。

ちなみに、今でこそ「黒テント」は劇団の正式名称だが、当時「黒テント」は通称で、正式名称は「68/71(ろくはちなないち)」。当時は本物の黒テントで全国公演を行なっていて、その公演の呼称が「68/71黒色テント」。場所を選ばない、出前形式の小規模公演が「68/71赤いキャバレー」。俳優養成講座が「赤い教室」。ベテラン劇作家3人、批評家2人。劇団員を「評議員」と位置づけ、隔月刊の機関誌を出していた。当時から俳優の層の厚さ、レベルの高さでは業界のトップクラスだった。

追記 2012年1月24日 観劇記をアップ 
テーマ * 演劇 ジャンル * 学問・文化・芸術

 

 

 

 
平田オリザ作・演出、青年団の『ソウル市民』五部作を2日間で一気に観た。
青年団ははじめて観たけれど、俳優の平均的技量というか…、いや、ミニマムの水準が高いことに仰天した。
しかしもっと驚いたのは平田さんの作劇術である。

演劇でも映画でも、カリカチュアライズされた喜劇的人物はときどき登場する。かれは自分の愚かさに気づいていない。

しかし、平田さんの劇世界では、すべての登場人物がこれなのだ。

だから、俳優がうまければうまいほど喜劇生と批評性がきわだち、俺たちが笑えば笑うほど、その笑いは自分にはねかえってくる。
歴史のその瞬間に居合わせたとしたら、俺たちも同じ喜劇的人物となり、民族差別を口にし、妾の子を侮辱していたかもしれないのだ。
笑い転げながらも、つねに自分の立ち位置を見つめ直させられる、スリリングな経験だ。 
テーマ * 演劇 ジャンル * 学問・文化・芸術

 

 

 

 
・唯物論宣言

マルクスは読んでいない。
しかし俺は唯物論者であることを宣言したい。

これまで何度も述べてきたように、思考は信用できない。
思考は簡単にリアルから遊離し、閉鎖回路を形成し、暴走する。

決してリアルを置き去りにしないもの、それは俺の身体感覚である。
これらを手がかりに、俺は思考の循環からぬけだす通路をみつける。
冷たい水のおいしさ、鼻孔を通る空気、閉じたまぶたごしに感じる光線。
唯物論的な感動である。


・他者の代弁はやめよう

他者の意見を自分の意見であるかのように述べるのはやめよう。
借り物の意見はみっともないとか、ずるいとかいうことが理由なのではない。
自分が苦しくなるからだ。
代弁した意見が自分固有の考えと葛藤を起こし、心に貼りついた焼け石のようにじりじりとくすぶり続ける。

もちろん、仕事では他者の意見を代弁することは避けられない。
仕事は指示や依頼で成り立っているからだ。
しかし、それが誰の意見か、誰の希望かをつけ加えることはできる。そうすれば、自分固有の意見と代弁した意見とのあいだに線を引いておける。

「指示を受けた以上は自分の意見であるかのごとくふるまえ、それがビジネスパーソンだ」と言う堅物がいるかもしれないが、俺だったらまぬけと思われてもいいから自分を守るほうを選ぶと思う。

ところで、指示も依頼も受けていないが、他者のために代弁してあげたくなることがある。
これも、できればやめたほうがいいと思う。
なぜなら、代弁した意見が俺固有の考えと葛藤を起こしたら、自分の意思で行った代弁にもかかわらず、代弁してあげた相手が憎らしくなってしまうからだ。


・俺がいま苦しいとしたら、苦しくさせるほうの考え方を捨てよう

何度くりかえしても足りないけれど、苦しまないことに最大の価値をおいて生きていたい。
だから、法に触れる場合は別として、社会常識やビジネスマナーが苦しい方の道を指し示すときは、必ずしもそれにとらわれず、自由に決断する勇気をもちたい。
そもそも、俺は行き詰まった頭で社会常識やビジネスマナーを堅苦しく考えすぎているのかもしれない。
たとえば、もし仕事を先延ばしにすると心に決めたなら、先延ばしにしている間の時間をいかに苦しまずに過ごすかに最大の重点をおこう。 
テーマ * 心と幸せ ジャンル * 心と身体

 

 

 

 
宇宙の根本原理がすくなくとも一つある。それは「全体は部分に優先する」ということだ。
これはモノやコトが無限に分割できるということ、いいかえれば俺たちの認識能力がモノやコトを無限に分割する性向をもつことから必然的に帰結する。

なぜか。無限に分割できるということは、同時に、究極の最小単位が存在しないということでもある。だとすれば、真理を知るためにはわざわざ分割するにはおよばない。小さな部分に宿るようにみえる真理は、全体(上位の単位)の中にひそんでいた真理が展開し可視化したものにすぎない。

ところで、展開にともなって、一見その真理と対立する要素もまぎれていることがわかってくる。このようなとき、俺たちは、部分における闘争、つまりこれらの反乱分子をのりこえるための闘争こそが真理であり、全体はこのような危機に対処できないダメな境位であったと考えてしまう。こうして部分的な戦術に没頭しがちだ。

これこそ「木を見て森を見ず」というやつである。
なぜなら、真理と一見対立する反乱分子も真理の一部だからだ。これらはやがて存在しなかったも同然の要素、つまりノイズとして解消する。たとえば、一度修行の道を捨てて下山することも修行の一部であろうし、一度拒絶されてうちのめされることも求愛の一部であろう。それは部分的な闘争がたまたま成功したのではない。最初から予定されていたのだ。

予定調和といってあなどってはならない。
モノ・コトがくりかえされるたびに様相が変わり、新たな障害(反乱分子)が出現するのは、決して部分が混沌としていて全体に従わないからではない。そうではなくて、むしろ、部分における障害は、測定誤差、ゆらぎ、ノイズのたぐいであり、統計的必然である。
要するに、最初から予定されていたといっても、細部まで厳密に予定されていたわけではない。おおまかに予定されていたのだ。

ところで、もし俺が物言わぬコンピュータなら話は別だ。コンピュータは目標をもたないから、予測されるすべての障害の対処法をプログラムとして実装しなくてはならない。
しかし俺は生命体であるから目標をもつだけでいい。
というか、俺という生命体にとって、ありうべき障害を考慮することは、目標を実現するうえで余計どころか邪魔なのだ。
だから、戦術(部分)に没頭するな。全体(目標)をみよ。

ここまで読んできて、諸君は保守反動思想家のたわ言と感じただろうか。
とんでもない。
以上のことは「心の健康」を語るうえで決してはずすことのできない真理なのである。
では、形而上学的議論をここでうち切って、一気に俺のまずしい日常におりてゆこう。

さて、俺は事務屋のくせに電話が苦手だ。
特にトラブル対処の電話だ。

頭の中で想定問答をくりかえし、相手の言ってきそうなことを知ろうとしたり、相手を納得させずにはおかない絶妙なフレーズをひねりだそうとして悪戦苦闘し、結局考えがまとまらず行き詰まる。
あるいは、これぞと思った絶妙なフレーズを使って、相手を納得させるどころか、かえってトラブルを大きくする。

行為とは全体(目標)の中にあらかじめ含まれていたものがおのずと開花する過程であるのに、俺は考えすぎて自分で水をさしているのだ。
このように、俺の部分的戦術はまったく役立たずだ。

一方、俺の「苦しまぎれ」は頭がいい。
時間に追われ、なんの勝算もなく、トラブル対処という目標のほかには何ももちあわせずに電話をかけるとき、俺は形式、一貫性、美意識てなものにとらわれることなく「泥臭い」交渉をかまえることができる。究極のフレーズや正義による一点突破ではなく、あの手この手を使ってかろうじて合意にこぎつける。あの手この手とは、自分の正義を少しだけ曲げて譲歩すること、少しだけ相手のスキにつけいること、少しだけ恩を売ること、虎の威を少しだけ借りること、事実を少しだけ自分に有利なように解釈して伝えること等々である。聞こえは悪いが、交渉事なるものをミクロの単位でみていけば、内実はこのようなものであろう。もちろん悪意をもってするのではない。動物的勘によって、意識せずにそうするのだ。これらはやりすぎれば軽蔑されるが、少しも許容しなければ会話そのものが成り立たないだろう。
要するに、そのときになってみなければ自分が何を言うかはわからないが、前もって準備しておくよりずっとうまく言えるのだ。 
テーマ * 心と幸せ ジャンル * 心と身体

 

 

*Template By-MoMo.ka* Copyright © 2011 まず深呼吸、一歩引いて気楽に行こう, all rights reserved.

盛々夏野菜

Author:盛々夏野菜

男性、既婚、事務系サラリーマン。
現代思想フェチだが、本を読むのが遅いのであまり多くは読めない。地底人生活を経て現在は臨床心理に関心がある。新鮮な胡瓜が好き。
VBA Expert Standard Crown
VBA Expert Standard Crown

未分類 (1)
思想とメンタルヘルス (34)
シアター (8)
シネマ (0)
ミュージック (4)
デジタル (2)
自分を苦しめない暮らしかた (19)
全体は部分に優先する (9)
高橋和巳 (3)
アラン『幸福論』 (2)
自我の二重化という手法 (2)
鄭義信 (8)
浜田麻里 (4)
外国文学 (1)
日本文学 (10)
政治 (9)
マスコミ (3)
疑似科学・擬似医学 (3)
石原加受子 (2)
掌編小説 (7)

 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。