きゅうり

 

盛々夏野菜のハードエッセイ & ショートストーリー 【思想、心理、書評、劇評、感想、あらすじ】
 

 

 
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 

 

 

 

 
・早く動物になりたい

俺、とりかえしのつかないことをしてしまったかも……。
そんな想像にとらわれて胸が苦しくなったときは、まず思いだそう。
「とりかえしのつかないこと」など存在しないということを。

行為を遂行するにいたった思考の流れがある。思考だからヴァーチャルであり、リアルという大地から片足を浮かした状態だ。
そして、その行為を「とりかえしのつかないこと」として批判する思考が出現する。これもまたヴァーチャルであるから、ヴァーチャルにヴァーチャルが重なり、リアルの大地から両足が浮いてしまう。
すると思考はリアルというささえを失うから、際限のない葛藤がはじまり、俺を苦しめ、追いつめる。
一刻も早くリアルの大地に足を届かせよう。
まず深呼吸、そして冷たい水を飲もう。その水がおいしいと感じられたら、つま先が大地に触れている。

俺を苦しめるものの正体は、自分の行為を「とりかえしのつかないこと」と決めつけた存在、すなわち「意味」――「物語」といっても「世界」といってもいい――であった。
だから、「意味」を信用するのはやめよう。そのかわり、「意味」が便利なときは便利なところだけ利用して、そのあとは手放そう。
そして「意味」という大仰な呼びかたはやめて「ファンタジー」と呼ぼう。そうすれば、こいつの胡散臭さが多少は感じられるから、一歩引いて付きあおうという気になる。
もっとも、これは俺が思春期以来たよりにしてきた大きな物語(システム)を手放すという決断であるから、人生の一大転機といっていいのだが。

今後、俺がささえにするのは「リアル」だ。

アニメ『デジモンアドベンチャー』にはデジタルワールドとリアルワールドが登場する。しかし俺がここで述べている「リアル」は、おそらく「ワールド」でさえない。
「世界」はそれ自体「意味」であり、ファンタジーであるからだ。

そして「世界」を必要としなくなった俺――といっても「世界」が必要なときは使うし、必要なときのほうが多いから、「世界を全面的には信用しなくなった俺」程度にしておくのが正確かもしれないが――は、少しだけ動物に近くなっているのではないだろうか。


・反省するのはやめよう

道徳教育の悪影響というべきであろう。俺たちは何かにつけて反省する。
そして反省するのが当然で、正しいと思っている。
つまり「反省文明」が存在する。
しかし、必死でがんばった後で、「まだここが足りなかった」とか、「このことに気づいていればもっとうまくできた」と考えて自分を責めさいなむ文明は健康であろうか?

向上心はあってもよいと思うが、「反省」としてではなく、自分への付加価値として、つまり、現時点で俺は合格だが、こういう手もあるよという「提案」として使うべきであろう。

そして、他者から反省を強要されたらにっこり笑ってやりすごそう。 
スポンサーサイト
テーマ * 心と幸せ ジャンル * 心と身体

 

 

 

 
・ため息をつこう

ストレスを脳内にとどめておくことほど有害なものはない。
脳内はコンピュータと同じヴァーチャルな世界だから、情報を無限に複製したり、無限に循環させたりという芸当をいとも簡単にやってのける。
そして、脳内ではストレスも情報の一種だから、脳内の回路(つまり思考)が暴走したときは、破壊的なダメージをもたらす。
では、ストレスがほんの微弱なうちに、筋肉運動に変換して解消してしまおう。
筋肉運動にもいろいろあるが、もっとも簡便かつ有効性が高いもののひとつは、呼吸器の筋肉運動である「ため息」であろう。
「ため息をつくと幸せが逃げてゆく」とか言う人がいるかもしれない。しかし気にするのはやめよう。
むしろ、不幸を追い出して幸せになるおまじないと思えばいい。


・おいしいものから食べよう

おいしいもの(好きなもの)を先に食べるか、あとに残すか。幼年時代にはじまり、最近まで答えの出なかった問いである。
「出なかった」と過去形で書くのはこれが解決したからにほかならない。
健康という視点に立てば、「おいしいものを先に食べる」が正解であり、疑問の余地がない。
「あとに残す」は未来のために現在を犠牲にする。しかし未来は脳内にしか存在しないヴァーチャルである。妄想と言ってもいい。
俺たちは思考なるものを身につけてしまったので、ある程度ヴァーチャルな世界に生きることは仕方がない。
しかし、できるだけナマのリアルに触れていよう。やむなくヴァーチャル空間をさまよったあとは、なるべく早くリアルを呼吸して思考をリセットしよう。
「おいしいもの」はリアルに戻ってくるための重要なアイテムだから、大切にしよう。
 
テーマ * 心と幸せ ジャンル * 心と身体

 

 

 

 
そういえば、最近あまり思考が暴走しない。
こんな風に書くとかなり重症みたいだが、比較的健康なときでも「思考の暴走」はしばしば起こる。
何か現実の刺激が引き金になって思考が次々と連鎖してゆき、だんだん気分が悪くなる。
もっとも、思考の連鎖自体は猛烈なスピードで進行し、まれにしか意識にのぼらないので、俺が実際に体験するのは、まず入力としての刺激、そして次の瞬間には出力としての胃の痛み、それだけだ。

て、この「思考の暴走」について、俺は、前回のエントリ「幻想の横断?」で述べた「価値へのとらわれ」と共犯的だと思う。
「価値」=「意味のシステム」=「大文字の他者」への「とらわれ」が閉じた回路を形成するために、思考はショートし、悪循環に陥り、際限がなくなる。自動的な過程となり、俺のコントロールをうけつけなくなる。そして苦しさだけがつのる。
いいかえれば、冒頭で述べたように、最近あまり思考が暴走しないのは、俺がある程度「価値へのとらわれ」を手放せるようになってきたからだと思う。

ところで、俺は意識を集中し、思考の暴走する過程をなんとか跡づけてみようとつとめた。すると、どうもここでは思考の連鎖が「順接」ではなくて「逆説」で進むようだ。つまり、それぞれの思考は前の思考を「否定」することによって連鎖するらしいのだ。ほとんど意識できないから正確ではないのだが、たとえば次のような具合だ。
「足を踏まれた、痛い、悔しい」
「この程度で腹を立てる俺は未熟者だ」
「そんなことはない、この状況で腹を立てるのは自然なことだ」
「足を踏まれないように注意して歩くことができるはずだ」
「その考え方は自分に厳しすぎる」
……。
こうして、価値への忠誠と、その反動としての反発(どちらも価値を軸とする運動)が交代しながら連鎖してゆく。それゆえ葛藤が増してゆく。

これで「思考の暴走」にともなう強い苦痛と不快も説明がつく。前々回のエントリ「自分を苦しめない暮らしかた」で述べたように、葛藤は苦痛を生むからだ。

最後に「思考の暴走」といえばどうしても触れずにすますことができないのは小池龍之介さんの『考えない練習』だ。本屋でこのタイトルを見つけた瞬間、俺のための本だと思った。そして、迷わず手にとってレジまで走った。

考えない練習考えない練習
(2010/02/09)
小池 龍之介

商品詳細を見る

 
テーマ * 心と幸せ ジャンル * 心と身体

 

 

 

 
前回のエントリで「言い訳をしよう」を書いたあとで、ひょっとしてラカン派の言う「幻想の横断」とはこれのことではないかと思った。

若き日の俺は、品位ある誠実な人間になろうと思っていた。そのためには、約束を守り、言い訳をせず、ごまかさず、陰口をきかず、秘密をもたず、嫉妬しないという規律を守ることができなくてはならないと思っていた。必ず守ったとはいわないが、守るためには努力を惜しまなかった。それが人として当然の道だと思っていた。そしてこれらの努力の上に今の俺がある。

しかしそれが何だというのか?
「言い訳をしよう」と書いた今の俺は、この価値を手放そうとしている。
いわゆる「誠実」という価値(大文字の他者)が俺には必要ではなくなったのだ。というか、むしろ他の諸価値と衝突して俺を苦しめる有害な存在となり果てた。

もちろん、手放したからといってただちに俺が不誠実になるわけではない。
しかし、今の俺ならばつねに誠実でありつづけようとして汲々とすることはない。無理のない範囲で誠実であればいい。
つまり、以前の俺は「誠実」の「しもべ」であったが、今は「誠実」のほうが俺の持ち駒なのだ。
「誠実」であることが他の価値と衝突し、不便なときには、ためらいなく退場させることができる。

ところで、俺の「大文字の他者」は「誠実」という価値であったが、同様に他の誰かの「大文字の他者」は「愛」、「力」、「金」、「忠誠」、「神」などでもありうる。また、俺と同じように「誠実」という価値にとりつかれている人であっても、「誠実」の内容はひとりひとり異なるだろう。

次に、「大文字の他者」を手放した俺が何をたよりに生きるのかという問題に移ろう。
ラカン派の教説をなぞることになるが、以後の俺がたよりにするのは「享楽」つまりおのれの欲望であろう。
しかし幻想を横断したのだから、欲望といっても、厳密には、意味のシステム(大文字の他者)から逸脱した、エディプス以前的な「欲動(部分欲動)」であろう。
それは「大文字の他者」に由来する積極的な意味をもたず、おのれを高めたりすることもないだろう。
ご立派な意味づけを拒否する欲望だから、意地悪な人ならば「奇癖」と呼ぶかもしれない。
また、俺は今よりほんの少しだけ動物に近づくかもしれない。

抽象的な言いかたばかりで申し訳ない。
実のところこの最後の問題は俺自身まだよくわかっていないのだ。
俺自身の理解または体験が深まったところでもう一度ご報告申し上げたい。

ラカン派精神分析の治療論―理論と実践の交点ラカン派精神分析の治療論―理論と実践の交点
(2011/06/13)
赤坂 和哉

商品詳細を見る


ラカン派精神分析入門―理論と技法ラカン派精神分析入門―理論と技法
(2008/06)
ブルース フィンク

商品詳細を見る


たしかに、若き日の俺はこの「誠実」という価値をたよりにしなければうまく生きることができなかった。しかしそれは足場のようなもので、俺がひとり立ちしてしまえば邪魔な存在である。 
テーマ * 心と幸せ ジャンル * 心と身体

 

 

 

 
・むやみに謝罪するのはよそう

自分が悪いと思っていないことで謝るのはやめよう。
仕事上やむをえない場合もあるが、「申し訳ない」を言う回数はなるべく少なくしよう。

言葉くらいどうってことないと思うかもしれない。
しかし、自分の耳から入った謝罪の言葉は、俺の中の「自分は悪いと思っていない」部分とぶつかり、葛藤を起こす。
葛藤が起これば苦しむことになる。

もう少し自分の心をケアしてやってはどうだろうか。
正反対の価値が、秩序もなく、混沌と混ざりあっている心の中では何一つ決断することができない。
価値同士のつぶしあい、足の引っぱりあいのためにエネルギーが使われつづけると、生きるためのエネルギーまで枯渇してしまう。

整然と、秩序正しく、シンプルな心を持とう。そのためには、部屋の掃除や、体のケアと同じように、不必要なものを溜めないようにしよう。


・言い訳をしよう

言い訳をしよう。不可抗力のできごとにまで俺が責任を負う必要はない。
ありえない障害が出現することを予測できなかったのは俺の罪ではない。
忙しくて後回しにしたのは俺のとがではない。

もっとも、今のビジネス社会でそんな言い訳をすれば排除される。
だから言い訳することは得策ではないのだが、それでも、なるべくなら理不尽な責任を認めることはやめておこう。
そして、他者が俺の言い訳を許さなかったとしても、また、そのために俺が自分の責任を認めるようなことをやむなく口走ったとしても、それでも、心のうちで、自分が自分に言い訳することは許してやろう。


・不愉快な思いをしたとき

不愉快な思いをさせられて、相手をとっちめてやりたいと思うとき、もし逆襲することだけが目的ならただちにやめよう。その方法では相手が悔い改めることは望めないし、復讐心のもたらす興奮と緊張は、相手よりも俺自身の心と身体を苦しくさせる。

次に、二度と同じ目に遭いたくないから、相手の攻撃を封じるために意見するという場合を考える。挑発的でない言葉で、自分を主語にして、しかも相手の良心にうったえる効果的な意見を述べるという場合だ。
しかし、この場合でも、もしそれを言わねばならないという考えが俺を苦しめるのなら、きっぱりとやめてしまおう。

自分のしあわせのために意見しようとしているのだから、そのために自分のしあわせ(苦しまないしあわせ)を犠牲にする必要はない。

まず深呼吸、一歩引いて気楽に行こう。俺たちには苦しまない権利がある。 
テーマ * 心と幸せ ジャンル * 心と身体

 

 

*Template By-MoMo.ka* Copyright © 2011 まず深呼吸、一歩引いて気楽に行こう, all rights reserved.

Author:盛々夏野菜

男性、既婚、事務系サラリーマン。
現代思想フェチだが、本を読むのが遅いのであまり多くは読めない。地底人生活を経て現在は臨床心理に関心がある。新鮮な胡瓜が好き。
VBA Expert Standard Crown
VBA Expert Standard Crown

未分類 (1)
思想とメンタルヘルス (34)
シアター (8)
シネマ (0)
ミュージック (4)
デジタル (2)
自分を苦しめない暮らしかた (19)
全体は部分に優先する (9)
高橋和巳 (3)
アラン『幸福論』 (2)
自我の二重化という手法 (2)
鄭義信 (8)
浜田麻里 (4)
外国文学 (1)
日本文学 (10)
政治 (9)
マスコミ (3)
疑似科学・擬似医学 (3)
石原加受子 (2)
掌編小説 (7)

 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。