きゅうり

 

盛々夏野菜のハードエッセイ & ショートストーリー 【思想、心理、書評、劇評、感想、あらすじ】
 

 

 
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もううんざりだといわれるかもしれないが、ここでもう少し話は複雑になる。
「欲望し決断する自我」は民主主義政権の元首で、ニセ指揮官たる「警戒心」は猜疑心の強い暴君なのだ。

民主主義だって? おまえ、ケストラーの回で「階層的秩序」を軍隊にたとえたじゃないかと言われそうだ。
ごめんなさい、そのとおりです。
わかりやすく解説するために比喩は必要だが、比喩には限界がある。
限界のある比喩に整合性をもたせようとすれば余計収拾がつかなくなる。
だから、「民主主義的軍隊」とかいう苦しい辻褄合わせはひかえ、体系化はあきらめよう。

民主主義政権の元首である「欲望する自我」は、命令を発するだけは発しておいて、あとは自動的な過程が進行するのにまかせる。つまりほったらかす。下位の心的器官群は、それぞれ、おのれに割り当てられた任務を遂行するだけが仕事であり、やり方はまかされている。それゆえ、たとえ面従腹背でも、「面従」の部分で自分の任務を遂行して次の心的器官にリレーすることができさえすれば、こころの底で何を考えていようと自由なわけだ。こうして各心的器官の独立性は担保される。また独立性が保証されていればこそ各器官はスムーズに機能し、全体の成果も上がる。

一方、猜疑心の強い暴君である「警戒心」が指揮官の地位に君臨している場合、彼は下位の心的器官が任務を遂行するやり方に口うるさく干渉する。干渉された心的器官はたえきれずに反乱を起こす。
どのようにしてか? 「目標」を乗っ取るのだ。それも暴君に知られないようにこっそりと。

「裏目標」が隠然と設定される。しかしオモテであろうと裏であろうと、目標は全体を代表する強力な存在であるから、あらゆる器官はその目標(いいかえれば無意識的欲望)を実現すべく自動的に協調して働き、自分でもそれと知らぬ間に成果を出してしまう。

こうして、早朝会議の日に寝坊する。
嫌いな上司の名前をど忘れする。
急ぎの仕事中にパソコンがフリーズする(それと気づかずに、不具合を招くような無理な操作をしている)。
好きな異性の前でけつまずく。

こういう例は枚挙にいとまがない。
フロイトの『日常生活の精神病理学』の中にもたくさん出てくるであろう。

フロイト全集〈7〉1901年―日常生活の精神病理学フロイト全集〈7〉1901年―日常生活の精神病理学
(2007/01/10)
高田 珠樹

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以前「思考の暴走」について論じたことがある。そこで俺は「価値」=「意味のシステム」=「大文字の他者」(高橋和巳先生の「」も同じ)への「とらわれ」が閉じた回路を形成し、思考はショートし、悪循環に陥り、際限がなくなると述べた。

一方、本連載「全体は部分に優先する」ではこれまで「こころの階層秩序」を論じてきた。最高位の自我は欲望を実現させるための決断を行ない、この決断を複数の小課題に分割し、ひとつ下の階層の心的装置群にリレーする。これらの各心的装置は、おのれに割り振られた小課題をさらに小さな課題に分割し、もう一つ下の心的装置群にリレーして、おのれはそれらの統率に当たる。こういうサブシステムがはるか下の階層までツリー状に分岐し連鎖してゆく。

こころの階層秩序が混乱していると苦しい生きかたになる。(1)最高位の自我が支配権を放棄したり、(2)反対に、最高位の自我がしもじもの雑務に手出しするような場合のことである(本連載第7回「こころを読むのはやめよう」)。
(1)は「欲望し決断する自我」が、おのれの判断を「相手の出方を気にする自分」=警戒心にあけわたし、この者が最高位に君臨することを許してしまったために、指揮系統(階層秩序)が機能不全に陥った状態を指す。
(2)は最高位の自我が「準備」と称して階層を飛び越え、はるか下位の心的装置に警戒を強いるために、階層秩序の自動的な過程が停止し、意識的になさねばならない作業が爆発的に増加し、処理が追いつかなくなって行き詰まった状態を指す。
つまり(1)は下から上への干渉、(2)は上から下への干渉である、というのが、本連載のここまでの主張であった。

しかし、俺はここにきて、下位の心的装置に警戒を命ずる(2)の自我が、「欲望する自我」と同一の存在とは思えなくなった。警戒という仕事は「欲望する自我」の担当ではないからだ。してみると、ここでも不当に自我の位置を占拠した「警戒心」が活躍している。だからこそ、この者は下の階層に警戒を命じるにいたった。
こうなると、階層秩序の混乱を述べるのに二つの回路を想定する必要がなくなる。(2)は深層において(1)と重なり、現象的には多様なあらわれかたをする、こころの諸問題は、「警戒心による自我ののっとり」に集約できると思うのだ。

こう考えることには利点がある。「欲望する自我」を敵にまわさなくてすむからだ。俺を苦しくさせているのが「自我の場所にいる者」であることは間違いないのだが、それがもし「欲望する自我」と同一の存在だとしたら、俺は「欲望する自我」を憎まなくてはならなくなり、自分の欲望も否定することになる。こころは、複雑な条件をかいくぐって絶対の真理を追求するほど器用にはできていない。
しかしその者が不当に自我の場所を占拠しているニセ指揮官に過ぎないなら、いくら憎んでもいいわけだ。「怒り」のエネルギー、つまり、俺をこれほどまでに苦しくさせた者に対する「怒り」のエネルギーは、ここに集中砲火させればいい。

さらに進もう。冒頭パラグラフの話題にもう少しで行き着く。

「警戒心」という名のニセ指揮官は、もともとは自我の下位に属し、他の者たちと協調して「欲望」に奉仕する、「注意力」という名のしがない下請け職人であった。しかし、幼き日の俺が自分の不快な体験を拡大解釈したり、他者から世間の厳しさや人生の厳しさを吹きこまれて「枠」=「大文字の他者」を内面化するにいたって、「注意力」は「枠」の後ろ盾によって肥大化し、「警戒心」という有力分子に成長した。「警戒心」の勢力が増すにつれて、俺は、自分の欲望を追求するよりも、まず自分の身の安全をはかることが優先課題だと信じこむようになった。こうしてこころの序列は逆転し、「欲望する自我」は退位を余儀なくされ、かわりに「警戒心」が最高位に君臨することとなった。
しかし「警戒心」は「注意力」の成れの果てであって、歩哨の能力しかもっていない。歩哨に指揮官がつとまるわけはない。「こころの階層秩序」は、正統な指揮官である「欲望する自我」に最適化されていて、いくら歩哨が命令してもシステムは動作せず、混乱が起こるばかりである。
「警戒心」という下等な装置が最高位の意識を掌握しているので、思考は統制がきかず、暴走する。
そこで展開される思考は、主役をつとめる者(警戒心)の能力に応じた、融通性のない、硬直した思考であろう。つまり、ありうべき危機の兆候への過剰な警戒、来るべき恐怖へのおののき、危機への準備を怠ったり対処を誤った(かもしれない)自分への際限のない攻撃であろう。
(これが恒常化すると「うつ」になるだろう)

もっとも、「警戒心」が主役の座を占めていることは俺にとってあまりにも当然なので、この者がニセの支配者とは思いも寄らないかもしれない。自分の欲望を信じて生きるなんて不可能な夢想としか思えないかもしれない。しかしこっちが本物なのだ。

だから「警戒心」を退位させてもとの「注意力」の仕事に専念させよう。
そして「欲望する自我」の指揮権を取り戻そう。

まず深呼吸。そして、ゆっくり、整然とモノゴトを考えられるようになるために、体力をつけよう。
それから、警戒心に支配されて身につけた「こころの癖」を、辛抱強く、一つずつ手放そう。
手放した「こころの癖」が甦ってきそうになったら、「怒り」のエネルギーを使って押し返そう。 
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相手の表情や行動から感情を読み取ろうとすると、そのたびに失敗する。
感情など読めてはいなかったことがわかる。

相手の表情も行動も曖昧で深い意味はないのに、そこからすこしでも情報を得ようとあせる。相手が次にどう出てくるかを知りたいからだ。
その結果、相手の表情と行動は、その人の感情の発露どころか、こちらの不安を映す鏡として、ただそれだけの存在として機能してしまう。
それが証拠に、こちらの読み取る感情はつねにネガティブなのだ。たとえ相手が微笑んでいても、反語的に、つまり怒りを抑圧するために微笑んでいるなどと勘ぐる。そういえば微笑がこわばっていたかもしれない、などとつぶやき、それを自分で信じこむ。

たしかに、抑圧した怒りの代償として微笑むこともあるだろう。不正に富を得ようとして懐柔のために微笑むこともあるだろう。しかし、純粋な信頼の情から微笑むこともあるだろう(むしろその場合が多いだろう)。目の前の微笑がそのどれであるかを、人は原理的に知りえない。いかに努力しても微笑という現象の表面しか見ることはできないからだ。

知りえないものを知ろうとして苦しんだあげく、結局のところ自分の不安を見いだすだけならば、そのような探求はただちにやめてしまったほうがいい。その探究心は、相手ではなく、自分がどうしたいかを知るために使おう。
自分の欲望などわかりきっていると言いたくなるかもしれない。しかし、深くリラックスして自己に沈潜し、頭よりも肚の声に耳をすましてみなければ、本当の欲望はわからないものだ。

さまざまな階層の自分がある(階層秩序についてはこちら)。
「相手の出かたを気にする自分」は、欲望し決断する最高位の自我よりも下位の階層に位置する心的装置である。自我の指令にしたがって、自我から委託された「警戒」という限定的な任務をはたすだけの下請けにすぎない。この者に、最高位の「欲望」についての判断をあけわたしてはいけない。口出しさせてもいけない。
こころの階層秩序が混乱していると苦しい生きかたになる。最高位の自我が支配権を放棄したり、反対に、最高位の自我がしもじもの雑務に手出しするような場合のことである。シンプルな規則によって統制されていない複雑なこころは、危険なエラーをまねきやすい。

自分のしたいことを実現するために行動するとき、相手が次にどう出るかという予測情報は余計なのだ。人は自由であり、そんなものに拘束される必要はない。
相手の出かたに応じて自分の欲望を調整するという不可能な生きかたはやめよう。

どうしても相手のことが気になるなら、相手が公式メッセージとして何を述べたか、そこに集中すればいい。それらは「読む」必要がない。それらに曖昧性はない。
曖昧なところにこそ真実が宿るなんてことは誰も言っていない。

(2012年1月25日に投稿した記事のカテゴリーを変更。
<旧> 自分を苦しめない暮らしかた → <新> 全体は部分に優先する) 
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たとえば俺は顧客の理不尽な要求をはじめて拒否できたとする。
相手はあっけにとられて怒ることもできなかったとする。
そんな時、俺は今回の成功は「たまたま」であり、次からはこうは上手くいくまいと思うかもしれない。
今回はたまたま信頼できる上司が近くにいたから。
今回はたまたま自分の得意な商品だったから。
今回はたまたま相手が急いでいたから。
今回はたまたま相手が重役の知人だったから。
今回はたまたまお気に入りのネクタイをつけていたから。

しかし本当にそうなのか?
この連載ではそういう風に考えない。
俺が力をつけて(力といってもこころの力である)「顧客の理不尽な要求を拒否したい」とこころから望むことができるようになったので、おのずから実現したのである。
信頼できる上司が近くにいかたどうか、自分の得意な商品だったかどうか、相手が急いでいたかどうか、相手が重役の知人だったかどうか……これらは俺の望みという重大事からみれば、ただのノイズにすぎない。取替え可能なオプションにすぎない。ネクタイと大差ない。

俺=自我はこれらの細目を知る必要がない。これらの細目を扱う仕事は下位の心的装置に「委譲」し、自動的な過程がすすむのにまかせればよい。
下位の心的装置は、俺に有利な条件を自力で探しだしたり、つくりだしたり、呼び寄せたりするはずである。
俺たちの精神とはそういうものだからだ。

しかし本気で望むことは最上位の自我=俺にしかできない。
それができるようになるためには、自分のこころと深く対話し、さまざまな「枠」へのとらわれからおのれを解放し、自由を手に入れなければならない。
 
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ここまで、この不定期連載「全体は部分に優先する」におつきあいくださった方の中には、こんな疑問をもつ方もあるだろう。目標をもつことや、準備しないことは「全体は部分に優先する」こととどう関わるのか?
今回はその解説からはじめたい。

この連載では行為の階層の最高位に「目標」があると考える。つまり、行為の「全体」を代表するのが目標だ。
そして「目標」を実現するための個々の手続は、「目標」から枝分かれし、「目標」の一つ下の階層に属するノードである。各ノードはさらに細かくツリー状に分岐していく。末端に位置するノードは、たとえば指を動かすための筋肉の緊張や、特定の音を発声するときの声帯の振動であったりするだろう。

「目標」を別の言いかたで表現することもできる。前回述べた「決断する自我」である。「自我」の決断がツリー状に分岐し、末端の筋肉までいたることは上と同様なので省略する。

「目標」も「決断する自我」も、具体的な手続は下位のノードに「委譲」してしまい、顧みない。
各ノードは自分の責任において自分に割り振られた仕事を遂行する。エラーが生じたときは単独でか、あるいは他のノードと協調して補正した上で、次のノードに仕事をリレーする。エラーが補正されているので、次のノードは自分の仕事だけをすればいい。
このようにして、なかば自動的な過程が動作する。

しかし最高位の存在、つまり全体を代表し司令塔に位置する「決断する自我」が、「準備」と称して階層を跳び越し、「部分」すなわちはるか下位のノードに干渉するならば、自動的な過程は停止し、バランスが崩壊する。当然のなりゆきである。

だから俺=「決断する自我」よ、「部分」に拘泥するな、自分の持ち場である「全体」(司令塔)でつとめをはたせ。この連載はそう主張する。

そこで本題に入りたい。
俺=「決断する自我」が「腰を曲げてモノを拾ってはいけない」「うつぶせで寝てはいけない」「やらわかいソファに座ってはいけない」「あぐらをかいてはいけない」「コルセットをはずしてはいけない」等々という指示をかたくなに守ろうとして、つねに意識に刻んでおこうとつとめるならば、下位のノードに属する「自然治癒」の過程にたびたび干渉し、混乱をまねき、その過程を機能停止に追い込み、腰痛の快癒は望むべくもなくなるだろう。そればかりか「うっかり腰を曲げてしまった」「うつぶせで寝てしまった」「やわらかいソファにすわってしまった」「あぐらをかいてしまった」「コルセットを外してしまった」等々の不手際に運悪く気づいてしまうと、「決断する自我」は強すぎる警告を発し、患部を緊張させ、痛みをいっそう悪化させるだろう。

『腰痛は<怒り>である―痛みと心の不思議な関係』(長谷川淳史著 春秋社刊)は、「老化原因説」「椎間板原因説」「背骨の変形原因説」など、腰痛医療の通説が誤りであることを統計的に実証していく。画像診断の所見と痛みの発生には因果関係が認められないという。そして、真相は、慢性化した心的ストレスが筋肉の血流低下による酸素欠乏をまねき、それが痛み物質の蓄積、筋肉の痙攣、神経痛をひきおこすことにあると述べる。さらに、腰痛医療の通説が「呪い」となって患者に心的緊張を強い、痛みを慢性化させる(上に述べたような)過程をつぶさに語っている。

本書の帯には「真相を知れば、痛みは消える!」と太字で書かれている。たしかにその通りだった。回復途上にあったとはいえ、本書を読んであらゆる不安に根拠がないことを確信した結果、俺の腰痛は消えたのである。
俺は、本書の著者が訳した『サーノ博士のヒーリング・バックペイン』『心はなぜ腰痛を選ぶのか』(いずれもJ・E・サーノ著 春秋社刊)をそのうち読もうと思って買ってあったのだが、本書で腰痛が消えたため、読む必要がなくなってしまった。

俺の本書との出会いは幸運だったのかもしれない。誰もが本書を一度読んだだけで腰痛から解放されるとは限らない。俺も別のタイミングで読んでいたらどうだったかわからない。
しかし著者は再読、再々読を勧めている。真相を深く理解し「自信と勇気を取り戻」せば、痛みから解放される日は近い。

腰痛は<怒り>である 普及版腰痛は<怒り>である 普及版
(2002/03/09)
長谷川 淳史

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いつからこんな癖がついてしまったのだろう。
仕事でややこしい頼みごとをするとき、受話器をとる前に話の段取りを考えたり、必ず言っておこうと思うセリフをメモしておいたり、あげくのはてには、電話を見合わせてメーラーを開き、選びぬいた言葉で丁重かつ反論の余地のない文章を練りあげて送ったりする。

しかし、こういう周到な準備こそかえって自分を苦しくする。恐れ(心配)には際限がないからだ。準備すればするほど恐れもつのる。もちろん、俺を脅迫的な準備行為にかりたてているものこそは恐れである。
そればかりではない。恐れは、会話の「間」や、メールの中の微妙な言葉の選びかたを通じて相手に感染する。
相手も恐れるから反発する。

では、いっそのこと何も準備しないでいきなり電話をかけてみよう。
俺は駆け出しの新入社員とはちがう。知識も経験もある。相手の「人となり」も知っている。
心の中の司令塔に位置する俺の「決断する自我」は、受話器をとり、相手の番号をダイヤルし、相手が出るのをまつ間だけエンジンをふかせば(意志の力を発揮すれば)いい。
あとはしもじもの心的装置が、つまり、相手の言うことを聴く装置や、自分の意見を述べる装置や、自己主張の度合いを調整する装置や、会話にジョークをおりまぜる装置等々が協調して働き、なかば自動的に交渉をやりとげてしまうだろう。

先日紹介した『機械の中の幽霊』には「ムカデのパラドックス」が出てくる。ムカデに百本の足の正確な動かし方を尋ねたところ、彼は混乱におちいり、歩くこともできなくなって飢え死にしたという。ムカデの「自我」はそんなことを考えたこともなかった。具体的な足の運びはしもじもの心的装置に「委譲」し、自動操縦で動いていたからだ。
俺たち人間も同じだ。最高位の自我が恐れにたえられなくなって、しもじものレベルに干渉し「代わりに考えてやる」などと思ってでしゃばるから、混乱して機能不全におちいるのだ。

恐れが減れば不首尾を引きよせる磁力も減ってくる。
だから「準備せずに電話する」ことに習熟すれば、交渉に成功する確率が増すだろう。
おまけに、たまに失敗してもそれは偶然であり、同じ失敗をくりかえす恐れをもつ必要はないことが確信できるようになるだろう。 
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昨年末、俺は「全体は部分に優先する」をカテゴリーとして独立させた。以前から興味をもっていたこのテーマにじっくり取り組んでみようという気になったからである。
それと前後して、急にポリスの『ゴースト・イン・ザ・マシーン』が聴きたくなった。これは単なる偶然だったのであろうか?
まもなく、このタイトルは本書『機械の中の幽霊』の原題であることに気がついた。検索してみて、この本には「全体と部分」のことが書かれていることを知った。

・要約

第一部 秩序
物質のミクロな構造、生物体、心、言語、社会、天体など、およそ構造をもつものは「階層的秩序(OHS)」に律せられている。部分の組み合わせがサブシステムを作り、サブシステムの組み合わせが上位のサブシステムを作り、このサブシステムの組み合わせがさらに上位のサブシステムを作る。このステップを上位の方向と下位の方向へそれぞれ連鎖させると「階層的秩序」になる。各ノードは一つ上の階層からみれば「部分」、一つ下の階層からみれば「全体」という性格をもち、この性格のゆえにホロン(全体子)と名づけられる。
一面では各ホロンは「全体帰属的」な傾向をもち、上位ホロンの部分としてふるまう。上位ホロンは下位ホロンに対してきわめて簡潔な命令を下し、細かい手順は下位ホロンに「委譲」する。すると下位ホロンはそのホロン固有の規則にのっとって具体的な手順を立案し遂行する。その過程で生じたエラーはこのホロンの責任で補正されるから、上位ホロンは具体的な手順を知る必要はなく、命令が遂行されたという事実だけを知ればよい。
一方で、各ホロンは「自己主張的」な傾向をもち、同位のホロンとの間で競争関係になることもある。
そして、以上のような階層構造の存在を認めず、全体は部分の総和にすぎないと考える要素還元主義者たち(とくに行動主義心理学者たち)の論理を、著者は「地球平面観」と名づけて指弾する。

第二部 生成
進化論が主要テーマとなり、まず「突然変異」と「自然淘汰」だけで進化を説明しようとする正統派ダーウィニズムが批判される。ランダムな突然変異によって進化は説明できない。ランダムな突然変異が単独で存続することは考えられない。なぜなら他の諸器官と協調しないかぎりそのような変異は個体の生存を危うくするからだ。とはいえ、ホロンのもつ自己補正能力によってそのような変異(エラー)の影響は消去される(これを「内部淘汰」と呼ぶ)。すると、進化には方向性があると考えざるを得ない。生物体が一定の方向で準備をすすめたすえに、偶然の突然変異が起こってその準備過程を完成させる(裏を返せば、準備されなかった突然変異はエラーとして消去される)というわけである。
科学史上の大発見は、しばしば複数の者によって、全く独立に、しかもほとんど同時期になされる。これは「一定の型の発明発見の時期が熟すれば、それに点火する幸運な偶然事は、遅かれ早かれ生ぜずにはいない」からである。同様のことが進化の過程でも起こっているのであろう。
次に、進化における「幼形生殖」の戦略が語られる。成体の特殊化が進み、習慣をかたくなに守ることによって生きられるように「適応」した結果、活動性が低下し、進化の袋小路に入ってしまった種は、しばしば「幼形生殖」によって、より融通性のある古い形から進化を「やりなおす」。人類の科学や思想の進歩においても、同じ「跳ぶために退く」戦略がとられてきた。
第二部の最後で、書名にもなっている「機械の中の幽霊」という文句が引用される。これは地球平面観の論客ギルバート・ライルが、身体と心の区別を皮肉って、心の存在を嘲るために使った文句だ。著者はこの文句を逆手にとり、なるほど、確かに「機械の中の幽霊」は存在する、しかしそれは「身体と心」という単純な二分法ではなく、階層的秩序の中で論じられるべきだと述べる。

第三部 無秩序
前二部の予備的考察をふまえて、著者は人類の「危急の問題」を俎上に載せる。それはヒトというホロンのもつ「全体帰属性」と「自己主張性」の誤った接続がもたらす苦境だ。
「全体帰属性(自己超越性)」の情緒はより大きな存在と溶けあうことによる鎮静としてあらわれ、「自己主張性」の情緒は競争のための攻撃、防衛としてあらわれる。
しかし、人間にあっては「全体帰属性」が誤って攻撃性と結びけられ、神、大義、民族、信条、偉大な指導者の名のもとに大量殺戮が行われてきた。それにくらべれば「利己主義(自己主張性)」のもたらす害は問題にならないほどだ。
人類に特有のこの偏執狂的性格は、人間の脳のなりたちに原因がありそうだ。人間の脳は爬虫類型・古哺乳類型の古い脳(辺縁系)と、新哺乳類型の新しい脳(新皮質系)の複合したものである。おおまかにいえば、辺縁系は本能(内臓感覚や情緒反応)と密接に結びついていて、新皮質系は理性と密接に結びついている。しかし両者の間にはきれいに分業が成り立っているわけではない。辺縁系はしばしば理性の仕事に干渉し、さらには理性にとってかわり「舞台をひとりじめにしてしまう」。
本能と理性とのこの協調不全(これを「分裂生理」と呼ぶ)が人類のおちいっている苦境の原因であろう。しかし、本能と理性の間に橋をかけるという理想的な突然変異がそう簡単に起こるとは考えられない。だとすれば、われわれは精神薬理学の発達によって治療法が見出されることに期待すればよいであろう。
(要約終わり)


本書の表現を借りれば、俺はさしずめ「本書を読む準備ができた」がゆえに、幸運な偶然によって本書と出会ったことになる。

期待したとおりの良書だった。俺の知りたかった「全体と部分」のことが詳しく書かれている。とくに、軍隊と行政機構を例にとって、トップの簡潔な命令が、階層を下るたびに具体性を増す指示として分岐していく様子を描写したところ。そして、自我の「タバコに火をつけよ」という簡潔な命令が、神経の階層を下り、筋肉の末端まで到達し、その間に各階層は独自の機構によって動作を調節し、エラーを補正して次の階層を活性化するので、自我は筋肉の具体的な動きを意識する必要がないと述べたところ。前の2つのエントリ(このカテゴリの)で俺が提案した思考法を支持し、肉づけしてくれるものであった。大きな収穫だ。

進化論批判は痛快であった。論証は説得力があり、実例の選び方は見事、文章の歯切れもよく、本書のクライマックスであろう。

「脳のなりたち」についての記述は、俺にとって未知の領域であった。今まで抽象概念と思っていた「理性」「本能」に、それぞれ対応する器官がある(「理性≒自我≒新皮質系」「本能≒イド≒辺縁系」)という発見は驚きであった。この知見の利点は、具体的にイメージできるという点にある。しかし、厳密に対応しているわけではないから、実体化して考えるのは危険だ。なお、本書は45年前の出版であるから、理性への信頼が優勢であり、新皮質系を贔屓する傾向がある。現在はマインドフルネスが提唱されている時代であるから、暴走する理性に翻弄されることよりも、身体の声に耳を澄ますことが重視されるだろう。俺も「辺縁系がんばれ」と応援したくなった。そして、人間的理性の割り切った思考よりも、動物的本能の曖昧さを許容する思考に学ぼうではないかと、愛犬を見ながら思った。分裂生理の治療法は、むしろこっちの方向にあるのではないだろうか。

翻訳も申し分がない。
ゆいいつの欠点は、本書の結論があまりにもお粗末なことだろう。理性への信仰ぶりが素朴すぎるし、精神薬理学への期待も楽観的すぎる。
しかしそれは45年前という時代の限界であろう。そのことは本書の価値をすこしも損なわない。重要なのは、立派な結論をみちびくことではなく、「階層的秩序」の問題系を創設したことである。時代を超えて読み継がれるべき名著だと思う。
ちなみに、本書は現在品切れ状態だ。もったいない。ぜひ復刊させよう。



高価だが、すぐに読みたければ古書を買う手もある。

機械の中の幽霊 (ちくま学芸文庫)機械の中の幽霊 (ちくま学芸文庫)
(1995/06)
アーサー ケストラー

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愛犬との散歩の一こまである。

その日、雪がつもったので愛犬にレインコートを着せてでかけた。
そのレインコートはウエスト部分のゴムがすこしきつい。
彼はオスだからオシッコのときに足を上げるのだけれど、ゴムがきつくて思うようにコントロールできないようだった。

そして彼の苦闘がはじまった。
ガードレールに向かって左足を上げてみる。
くるっと半回転して、今度は右足を上げてみる。
すこし進み、今度はガードレールの端を狙ってみる。
次はガードレールとガードレールの間の何もない空間を狙ってみる。
移動して、植え込みの多年草を狙ってみる。
場所を変えて試し、また場所を変えて試す。
しかし何度場所を変えても足の上がり方に納得がいかず、放尿できない。

ついに、ガードレールより丈の高い、ブリキの市街図を見つけた。
狙う。空中で足が静止する。
オシッコがほとばしる。
おめでとう。俺はきみのけなげさがいとおしい。いっぱいナデナデしてあげようね。

ではこの現象を考察しよう。

彼は目標物に足をもたせかけていない。
だから、背景に何があろうと、また何もなくても、潜在的に彼は放尿の姿勢をとるための筋力は有している。
では何ゆえ失敗しつづけたのか? また何ゆえ最後に成功したのか?

彼の試行錯誤は「場所の変更」というかたちでなされた。より精密に言い直せば、さまざまな高さの目標物を試すために場所を変えつづけたのだ。
一方、彼は姿勢を変えることに重点を置かなかった。もちろん、結果的には、放尿の姿勢がとれたことで放尿に成功したことは間違いないのだが。

ここに、俺たちの学ぶべき知恵がある。
放尿の姿勢をとるための筋肉運動は、目標物に当てるための砲術の全体の中に部分として従属している。
そして彼はその砲術に習熟している。
だから、やみくもにさまざまな姿勢を試すよりも、適切な高さの目標物をさがすという一点に集中したほうが効率がよかったのである。 
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宇宙の根本原理がすくなくとも一つある。それは「全体は部分に優先する」ということだ。
これはモノやコトが無限に分割できるということ、いいかえれば俺たちの認識能力がモノやコトを無限に分割する性向をもつことから必然的に帰結する。

なぜか。無限に分割できるということは、同時に、究極の最小単位が存在しないということでもある。だとすれば、真理を知るためにはわざわざ分割するにはおよばない。小さな部分に宿るようにみえる真理は、全体(上位の単位)の中にひそんでいた真理が展開し可視化したものにすぎない。

ところで、展開にともなって、一見その真理と対立する要素もまぎれていることがわかってくる。このようなとき、俺たちは、部分における闘争、つまりこれらの反乱分子をのりこえるための闘争こそが真理であり、全体はこのような危機に対処できないダメな境位であったと考えてしまう。こうして部分的な戦術に没頭しがちだ。

これこそ「木を見て森を見ず」というやつである。
なぜなら、真理と一見対立する反乱分子も真理の一部だからだ。これらはやがて存在しなかったも同然の要素、つまりノイズとして解消する。たとえば、一度修行の道を捨てて下山することも修行の一部であろうし、一度拒絶されてうちのめされることも求愛の一部であろう。それは部分的な闘争がたまたま成功したのではない。最初から予定されていたのだ。

予定調和といってあなどってはならない。
モノ・コトがくりかえされるたびに様相が変わり、新たな障害(反乱分子)が出現するのは、決して部分が混沌としていて全体に従わないからではない。そうではなくて、むしろ、部分における障害は、測定誤差、ゆらぎ、ノイズのたぐいであり、統計的必然である。
要するに、最初から予定されていたといっても、細部まで厳密に予定されていたわけではない。おおまかに予定されていたのだ。

ところで、もし俺が物言わぬコンピュータなら話は別だ。コンピュータは目標をもたないから、予測されるすべての障害の対処法をプログラムとして実装しなくてはならない。
しかし俺は生命体であるから目標をもつだけでいい。
というか、俺という生命体にとって、ありうべき障害を考慮することは、目標を実現するうえで余計どころか邪魔なのだ。
だから、戦術(部分)に没頭するな。全体(目標)をみよ。

ここまで読んできて、諸君は保守反動思想家のたわ言と感じただろうか。
とんでもない。
以上のことは「心の健康」を語るうえで決してはずすことのできない真理なのである。
では、形而上学的議論をここでうち切って、一気に俺のまずしい日常におりてゆこう。

さて、俺は事務屋のくせに電話が苦手だ。
特にトラブル対処の電話だ。

頭の中で想定問答をくりかえし、相手の言ってきそうなことを知ろうとしたり、相手を納得させずにはおかない絶妙なフレーズをひねりだそうとして悪戦苦闘し、結局考えがまとまらず行き詰まる。
あるいは、これぞと思った絶妙なフレーズを使って、相手を納得させるどころか、かえってトラブルを大きくする。

行為とは全体(目標)の中にあらかじめ含まれていたものがおのずと開花する過程であるのに、俺は考えすぎて自分で水をさしているのだ。
このように、俺の部分的戦術はまったく役立たずだ。

一方、俺の「苦しまぎれ」は頭がいい。
時間に追われ、なんの勝算もなく、トラブル対処という目標のほかには何ももちあわせずに電話をかけるとき、俺は形式、一貫性、美意識てなものにとらわれることなく「泥臭い」交渉をかまえることができる。究極のフレーズや正義による一点突破ではなく、あの手この手を使ってかろうじて合意にこぎつける。あの手この手とは、自分の正義を少しだけ曲げて譲歩すること、少しだけ相手のスキにつけいること、少しだけ恩を売ること、虎の威を少しだけ借りること、事実を少しだけ自分に有利なように解釈して伝えること等々である。聞こえは悪いが、交渉事なるものをミクロの単位でみていけば、内実はこのようなものであろう。もちろん悪意をもってするのではない。動物的勘によって、意識せずにそうするのだ。これらはやりすぎれば軽蔑されるが、少しも許容しなければ会話そのものが成り立たないだろう。
要するに、そのときになってみなければ自分が何を言うかはわからないが、前もって準備しておくよりずっとうまく言えるのだ。 
テーマ * 心と幸せ ジャンル * 心と身体

 

 

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Author:盛々夏野菜

男性、既婚、事務系サラリーマン。
現代思想フェチだが、本を読むのが遅いのであまり多くは読めない。地底人生活を経て現在は臨床心理に関心がある。新鮮な胡瓜が好き。
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