きゅうり

 

盛々夏野菜のハードエッセイ & ショートストーリー 【思想、心理、書評、劇評、感想、あらすじ】
 

 

 
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口撃を受けているとき、われわれは何が最も苦しいのだろう? 第一に永続性、つまり口撃が永遠につづくかもしれないという恐れであろう。第二に再現性、つまり今はおさまってもまた際限なくくりかえされるかもしれないという恐れであろう。これらの考えに襲われると絶望的な気分になり、反射的に、口撃を止めたくなり、反応してしまう。

こういうとき、反応の戦略には二種類ある。ひとつは相手の主張の論理的矛盾を突き、理屈でねじ伏せようする戦略。もうひとつは相手の理不尽な要求にしたがい、機嫌をとる戦略だ。しかしどちらも相手の神経を逆撫でし、口撃をエスカレートさせる。というのも、相手は自分の主張が論理的に破綻していることくらい百も承知なのだ。それに、相手の不満は、言語化された要求だけ通れば解消されるという体のものではない。要するに、ただ漠然と苦しくて、不満で、テンパってしまったのだ。したがって、論理的矛盾を突かれればますますいきり立つし、要求が通れば、それでも不満がおさまらないのでますます他の要求をしたくなる。大人げない行動にちがいないが、大人げないと決めつけたところで相手が恥じ入って行動を変えるわけではない。

しかし、このことは一筋の光明ではないだろうか? なぜなら、口撃の「永続性」「再現性」が、われわれの反応によって賦活されるのだとしたら、これらを止めるには反応しなければよいことになる。このように、人間関係のトラブルには原因と結果が循環していることがある。その原因と結果を構成している衝動の循環をどこか一か所で断てばいい。

しかも、われわれが苦痛を感じるツボはこの「永続性」「再現性」であった。言いかえれば、口撃の継続時間が有限であり、再現性もさほどではないと考えることができれば、口撃を受けることは苦しいけれども絶望するほどではない。

では、「反応しない」とはどういうことなのか? 期待をさせておいて梯子をはずすようで申し訳ないけれど、今の俺はたいした処方箋を用意できていない。おそらく「深くかかわらずに受け流す」ことであろう。

しかし一方ではこういう懸念も持つ。つまり、相手は「かかわらない」という選択自体を自分に対する「攻撃」と解釈し、恐怖心にかられて自己防衛のために反撃してくるかもしれないということだ。

ついでに言っておくと、口撃があまりに激しいときは自分の身を守るために席をはずすしかないと思うのだが、相手は「逃げる気か」と追いすがってくるかもしれない。そういうときのためにおぼえておきたいことは、相手を口撃(攻撃)に駆りたてているエンジンは「不安」や「恐怖心」だということだ。われわれが反論するたびに相手は自分の存在を否定されたと感じて恐れおののき、それゆえに反撃をしかける。われわれが席をはずそうとすると、相手はそれを自分に対する「あてつけ」「不信の表明」「挑戦」と受け取り、自分は完全に孤立してしまい、ひとりで戦いぬくしかないのだと絶望的な決意をする。したがって、そういうときは「私はこれから席をはずすけれども、それはあなたに対するあてつけではなくて、自分の都合でそうするだけなのだ」ということを、その時点の相手に届く言葉で丁寧に伝える必要があるかもしれない。そして、われわれがうまく切り抜けて席をはずすことに成功すれば、彼もまた攻撃する必要がなくなり、楽になるはずなのだ。

攻撃を受けている側にそういう配慮をせよと言うのは残酷かもしれないが、一層の攻撃を受けないように、スイッチを切っておく必要はあるだろう。それに、われわれと相手のどちらが苦しいかといったら、おそらく彼のほうが苦しいのだ。われわれとしては自業自得と言いたいところだが、たとえそのとおりだとしても、苦しいものは苦しいのである。

このエッセイは、口撃と反応の過程を素描して理論化する試みであった。後半歯切れが悪くなり、尻つぼみになってきたとはいえ、俺としては、現在の俺の実力の範囲内でよく書けていると思う。しかし実際の口撃の現場で起こることはもっと泥臭い。信頼のおける専門家に寄りそってもらいながらすこしずつ解決していくことをお勧めする。それから、「アサーション」を勉強することも役に立つかもしれない。

なお、以上のことは、「あなたを陥れようとして計画的にしかけられている口撃」に関しては全く役に立たないばかりか、かえってあなたを追いつめるかもしれない。その場合は全く別の対処が必要である。 
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1.melody.「Take a Chance

大うつ病の診断を受けるすこし前、この曲ばかり聴いていた。1コーラス目の最後、「はっきりと答えが見えなくても 行く先は自分の気持ちに聞こう」のところを聴くたびに、自然と涙があふれてきた。自分の気持ちを置き去りにし、無理に無理を重ねた結果、心身がボロボロになっていた。しかし救いを求める方法がわからなかったし、逃げ出したら人間として終わりだと思っていた。

今の俺は援助の求めかたを知っているし、人間には苦しまない権利があるということも理解している。俺たちの社会にはセーフティネットがあり、そう簡単に破滅しないようになっている。しかし当時はもう決して引き返せないところまで来てしまったというディストピア的な絶望感にとらわれていた。そして、「義務」というヴァーチャルにのみこまれていた俺が、かろうじて「自分の身体」というリアルに繋ぎとめられていたのは、この曲のおかげだった。


2.ももいろクローバーZ「サラバ、愛しき悲しみたちよ

サビの部分「サラバ、昨日をぬぎすてて 勇気の声をふりしぼれ 「じぶん」という名の愛を知るために」のところは何度聴いても泣ける。昨日までのしがらみなんて捨ててしまえばいい。今自分はどうありたいのか、何をしたいのか。それが、私の生きる意味のすべてなのだ。

シングル盤
realize/Take a Chancerealize/Take a Chance
(2005/08/17)
melody.

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収録アルバム
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(2006/04/12)
melody.、m-flo loves melody.&山本領平 他

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(2013/04/10)
ももいろクローバーZ

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いじめっ子Aがいるとする。いじめっ子ではイメージしにくいとしたら、強権的な上司Aでも、意地悪な友人Aでも、支配的な父親Aでもよい。そしてAに反発を覚えている私は、その反発を態度で示したくなったり、逆にAを懐柔しようとして機嫌を取りたくなるかもしれない。問題は、どちらの場合も緊張して苦しさを感じるということだ。身体の「緊張」は主観的には「苦しさ」として感じられ、内実は同じものである。

ところで、この「緊張=苦しさ」は相手(A)に感染する。つまり相手も苦しくなるのだ。私の身体と相手の身体が、緊張という共通言語によって自動的にコミュニケーションしてしまうのである。相手の「うざい」という感情は、この苦しさを指している。それで苦しさを処理するために攻撃せずにはいられなくなる。

攻撃することはあきらかに悪であるが、このように攻撃のスイッチが入る過程が存在することも事実だ。だとすれば、攻撃することの倫理的な是非はともかく、攻撃のスイッチを入れない工夫をすることには合理性がある。

そこで私にできることは、「緊張=苦しさ」をシグナルとして、自分の行動を組み替えることである。ある行動にとりかかったり、あるいはその行動のことを考えたときに「緊張=苦しさ」が生じる場合には、その行動は自分のためにならないと判断して別の行動に差し替えればいい。「緊張=苦しさ」は相手の攻撃スイッチを入れるばかりでない。それ自体、私の身体的ダメージとなり体をむしばから、自分の健康のためにも回避すべきなのだ。

では、まず深呼吸して緊張を静めよう。そして余裕があるときはどういう行動をすれば緊張せずにすむかを試してみよう。さまざまな行動について考え、そのたびに自分の身体反応(緊張しているかどうか)を確認するだけでいい。


このエッセイは小池龍之介氏の各著作の影響下で書かれている。興味のある方は、特に下の本の第六章を参照されたい。

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(2012/01/14)
小池 龍之介

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近い将来に起こるかもしれない危機のことを想像して、思わず身体がこわばるときは、深呼吸して身体をゆるめてみよう。そうすれば次のことがわかるだろう。
(1)すくなくとも今は危険な状態ではないこと
(2)したがって危険にそなえて身構えるのは無益であること
(3)その無益なわざのために、体力を消耗し、ひや汗をかき、平静さを失うにはあたらないこと

こうして、さし迫った危険は自分の脳内にしか存在しないということが、心身両方のレベルで理解できるだろう。
そうなると、ありうべき危機から距離をとって、事実のみを冷静に検討することができるだろう。 
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「他者の思惑を気にせずに生きる」という生きかたを実行しようと思っても、楽しむことを禁じられ、自分のほんとうの気持ちに気づくことなく育った者にとって、それは一度も経験のない未知の領域であるから、何から手をつけてよいか見当がつかず、途方にくれるしかないだろう。

こういうときには、微熱のときに自分がどうふるまうかを思い出してみるのもいいかもしれない。最低限の義務は果たすけれど、気力は衰えているので、複雑な人間関係の問題を解決するために努力しようなどとは夢にも思わないだろう。つまり「今日は開店休業」という心境であろう。

そして、廊下で同僚とすれ違ったり、短い打ち合わせで同僚と会話したりするときに、熱があることをあえて打ち明けるいとまがない場合には、相手に正面から向き合わず、深くは入りこまず、かといって失礼にはあたらないように「適当にやりすごす」だろう。そうなのだ。この「適当にやりすごす」という感覚こそが、「他者の思惑を気にせずに生きる」という生きかたのモデルになるのだ。実行してみれば、それによって自分の評判を落としたり、同僚からの信頼を失うようなことには決してならないことがわかるはずだ。

 
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身体の不調を感じ、その原因に思い当たり、ニ、三の症候がその原因説にあてはまると、俺はその原因説にとりつかれてしまい、他に原因があるかもしれないという疑いをもたなくなる。こうして周囲の声に耳をかさなくなり、情報を仕入れる努力もしなくなってしまう。そうなると、自己治療のための偏った生活習慣や、病状の悪化にたいする過剰な恐怖心によって、かえって俺の健康は失われていく。

やがて、俺が信じこむ原因説にはいつも共通の特徴があることがわかってくる。それは深刻で絶望的という点だ。おそらくそれには経済的な動機がある。つまり損失を最小におさえようという思惑である。無数に想定できる原因群の中の「最悪なもの」に備えておくことによって、近い将来に悲惨な現実に直面してあじわうかもしれないショックを、前もって相対的に軽減しているつもりなのだ。しかしその結果はどうであろう。俺はつねに、よりによって、無数に想定できる原因群の中でも「最悪」の病気にかかるのと同じ恐怖をあじわうことになる。どう考えてもコストの高すぎる、不合理な選択だ。

そうではなくて、無数に想定できる原因群の中の「最も軽くて他愛ない」ものを選択するようにすればいい。病気らしきものの正体は、実際にはほとんどそれだから、この方法ならば最小のコストで対処できることになる。もしその原因説が間違っていたら、二番目に軽いものに切りかえればいいだけのことだ。そもそも、俺は原因を探求したかったのではなく、身体の不調を癒したかったはずだ。だったら、手軽に癒せそうな仮説のほうから順番に手をつけるのが筋である。

しかも、強い恐怖心に支配される必要のなくなった俺は、余裕をもって症候の意味を評価できるだろう。複数の病気が同じ症候をもつゆえに、症候はつねに多義的であり、妄想的解釈の温床となる。したがって、まず冷静になることが癒しへの第一歩なのだ。 
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非言語的メッセージの扱いにくさはその多義性にある。それ自体では意味のない「非言語的メッセージ」が意味をもつにいたるのは解釈の枠(コード)の働きなのだが、問題は、解釈の枠じたいが無数に可能であることだ。こうして一つの行為(非言語的メッセージ)は、解釈の枠が異なれば複数の意味をもつことがあり、場合によっては真逆の意味をもつこともある。たとえば微笑というメッセージは、「好意」を意味することもあれば「敵意の隠蔽」という意味をもつこともあろう。しかし、心を読むことができない以上、かかるメッセージの因ってきた背景をつぶさに知ることはできない。しがたって相手に真意をただす以外に真の意味を知るすべはない。だとすると、われわれのとりうる途は次の三つである。

(1)相手に真意をただす
(2)特定の解釈に賭けてみる
(3)どっちつかずのまま放置する

さて、(1)が実行できるのであればただちに問題は解決する。しかし、真意をただす行為じたいが危険であれば(たとえば攻撃と受けとられる恐れがあれば)それはできない。

一方(2)は最悪である。人は、真意がわからないという不安のあまり、運を天にまかせて特定の解釈にしがみつき、暴走することがある。積極的すぎる解釈を行なった場合(たとえば相手の微笑が好意を意味していないのに好意と解釈した場合)は「迷惑行為」に走り、反対に消極的な解釈を行なった場合(たとえば相手の微笑を「敵意の隠蔽」と解釈した場合)は「引きこもり」にいたることになろう。しかし相手の真意は謎のままなのだから、どっちに振れるにせよ、あまりに危険な賭けと言わなければならない。前者の場合は社会的な信用を失うことになりかねないし、後者の場合はかけがえのない友にみずから絶縁を言いわたすことになりかねない。

では(3)を実行してみよう。行為の意味が言語的に明らかになるまで待ってみよう。明らかにならないならばそのまま放置しよう。たぶん、やがて勘違いであったことがわかるだろう。よくも悪くも激震が起きたというのは錯覚であって、昨日までと同じ日常が続いていたことがわかるだろう。そして「心の迷い」の原因は、非言語的メッセージに反応したことであることがわかるだろう。

追記 言語的メッセージであっても、「暗示」のように多義的なメッセージは非言語的メッセージと同様に無視しよう。多義的メッセージの意味を特定できるという誤った自信こそが危険なのだ。事実として、特定することは不可能なのだから、不可能であることを何も悲観することはない。むしろ、不可能なことを実行しようとする努力こそが事態をややこしくし、悲劇を呼びこむ。

こころを読むのはやめよう 
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ものの本にこう書いてあった(誰の何という本だったか失念してしまった。失礼)。上司が部下に指示をだすとき、自分に関しては「棚上げ」しなくてはならないと。つまり、自分にできないことを部下に指示するにあたって躊躇してはならない。「上司として指示すること」と「自分にできるかどうか」は別の水準の問題であり、同日には論じられないというわけである。

同じことを日常の対人関係に応用してみたい。そこには「上司と部下」という問題系は存在しないけれど、上記と同型の「相互性」という幻想が俺たちの行動を根深く呪縛している。それを命題の形で記してみよう。

・自分が「他者からされたくないこと」を、他者にしてはならない。
・自分が「他者からしてほしいこと」を、他者にしてあげなくてはならない。

これら「相互性の命題」は一見疑問の余地がなく、この命題を守らずして人間社会は立ち行かないと思える。それは一応真理としてみとめよう。
しかし、これを絶対に犯すことのできない不動の真理と考えたら、俺たちはあまりに窮屈な思考を強いられ、身動きできなくなるだろう。精神に異常をきたすかもしれない。

実際には、俺が「他者から絶対にされたくない」と思っていることをされても平気な人は無数にいるし、俺が「他者からしてほしいと思っていること」をされたらかえって迷惑に思う人も無数にいるはずだ。ここにはさまざまな水準の問題系が複雑にからみあっているので、平面的な命題の形ですべてを理解した気になることは誤りなのだ。

それゆえ、自分を「棚に上げる」ことは許されている。いやむしろ、相互性の呪縛を解除して自由な判断を行なうために「棚上げしなくてはならない」とあえて言っておこう。 
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先日、俺はコンビニで「マウントレーニア・カフェラッテ(240ml)」、「雪印コーヒー(500ml)」、「メグミルク・クリームスイーツコーヒーゼリー(120g)」のどれを買おうかと悩んでいた。いくら考えても決め手がなく、結論が出なかった。

それでまず、考える負荷を減らすために、メーカーと価格(失念)とカロリー表示を気にするのをやめた。「衛生上の問題を起こしたことのない良心的なメーカーの製品」が欲しいわけでも、「価格の安いもの」が欲しいわけでも、「糖尿病リスクの少ないもの」が欲しいわけでもないと気づいたからだ。問題はあくまでも俺の欲望なのだが、俺はここで、その欲望が倫理的、経済的、医学的な正当性には制約されないということに気づいたのだ。

次に、これしきのことが決められずにうじうじしている自分が恥ずかしくなり、即断即決で決めたくなった。この方式で決めるとすれば「雪印コーヒー(500ml)」しかなかった。しかし、まもなくこの決め方は即断即決というよりもむしろ「やけっぱち」であることに気がついた。俺には、深刻ではないが、飲食でストレスを解消する傾向がある。そういうとき、俺は「ストレスの刺激を制するに他の刺激をもって」しているのであって、飲食を楽しんでいるわけではない。実際、あまりおいしいと思っていない。無意識的には、わが胃を刺激して痛めつけるマゾ的快楽のために飲食しているといってもいい。そういう目的では、量が多く胃にずしりとくる「雪印コーヒー(500ml)」が最適であった。こうして、俺が「やけっぱち」な衝動に身をゆだねたとき、無意識的思考の正確無比な計算により、一瞬にしてこれが選び出されたというわけなのだ。そんな思考を信用するわけにいかない。

ところが、これで俺はメーカー、価格、カロリー表示、衝動のいずれもあてにできないことになり、八方塞がりになってしまった。

そのとき、わがブログのタイトルを思い出した。そして、まず深呼吸した。次に、上の問題から離れるために、コーヒー飲料の売り場から一時退却し、雑誌売場へ移動した。そして、一分後にもとの場所にもどった。

それでわかった。俺が欲しかったのは「コーヒーゼリー(120g)」だった。 
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・「気が利かない」を禁句にしよう

正面きって要求すれば、きっと露骨にイヤな顔をされる、そういう無理難題を、相手にすんなりと受けいれさせる魔法がある。それは「気が利かない」という呪文だ。相手と対面して言うこともできるし、噂として流すこともできる。
これを言われると、相手は罪悪感を感じ、自分のどこがいけなかったのかと自問しはじめる。その結果、こちらの思うがままに操られる。

このやりかたはキタナイ。
価値観が違うなら、ネゴして調整すればよいのだが、この方法では、要求側の価値観は試練にさらされることなく常に正しく、相手は常にマヌケということになってしまう。
そして、相手は心から納得していない要求を押しつけられ、心身をすり減らしながらそれに応えなければならなくなる。

しかも相手は、それまで自分の良心と良識にしたがって実行してきた仕事を、ある日突然、極悪非道の所業と宣告されるのだ。カフカ的恐怖だ。
方針を変えるなら変えると予告すりゃいい。そうすれば、心の準備もできるし、納得がいかなければ抗議することもできる。
もっとも、「気が利かない」と言う側には、そんな気はなさらさらない。そんなことをすればおのれの価値観を守れないからだ。こちらは、おのれの価値観に普遍性がないことにうすうす気がついている。

その結果どうなるか? 相手は不本意な仕事を強要された恨みを抱き、こちらはその敵意を察知してますます意固地になる。敵意の連鎖となり、双方の心身が蝕まれていく。周囲の人間関係も破壊される。

この悪循環からどうすれば抜け出せるだろうか?

要求側について、今の俺には答が見つからない。そこまでして相手を従わせたいと思わせる、深い心の闇を扱わなければならないからだ。

相手側については言えることがある。
まず、「気が利かない」というフレーズに反応しないこと。それは彼を引っかけるための罠であり、彼が本当にマヌケであることを意味しない。
そして自分の価値観を守ること。仮に要求に従わざるをえなくなったとしても、自分の価値観まで変えないこと。そして機会があれば、さりげなく、価値観の議論(注1)に持ち込むこと。価値観のレベルにまで議論を引き上げれば、立場は相対的となり、一方的に非難することはできなくなる。

ところで、今回語った人間関係の病理は、必ずしも「気が利かない」というフレーズを必要とするわけではなく、さまざまなヴァリエーションがありうる。いちはやくこの病理の兆候を察知し、回避策を打てるように、その形態を定式化しておきたい。

「前提となる価値観の議論を抜きにして、いきなり相手を非難しはじめる心理トリック」

しかし、今の俺は読者の皆さんに推奨できる有効な回避策を持ち合わせていない。今後、それらを語れるときがきたらあらためて論じることにしたい。しかし、すくなくとも形態を認識することは、現象を客観視し、距離を置くための第一歩である。

(注1)プラトン(ソクラテスの対話篇)を研究すれば、この議論の役に立ちそうな気がする。 
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・「他者からみた自分」という幻影

街頭で他人の顔を醜いと思ってよく見たら、大鏡に映った自分だったとする。
それ以来、俺は家で鏡を見るたびに自分の顔の欠点をさがすようにつとめ、自分で思うよりも俺はずっと醜いのだ、うぬぼれるな、と自分に言い聞かせるかもしれない。

仕事で自分の気づかなかったミスを一度指摘されると、俺は自分で思うよりもずっとうっかり者なのだと信じこみ、それ以後、倍の時間をかけて仕上がりを確認するようになるかもしれない。

こういう愚かな悪癖から自分の足を洗わせるにはどうすればいいだろうか?

まず、俺をこれらの悪癖に向かわせた情熱の来歴を自覚しよう。それは、他人の知っている(であろう)真実を自分だけが知らないことへの憤りであろう。
しかし、これは自我のもつ競争的性格から不可避的に出てくる副産物であり、積極的な意味はないのだと知れば、とらわれる必要はなくなるだろう。

次に、たった一、ニの証拠から、自分の劣等性が証明されたと信じこむことの非論理性を自覚しよう。 嘘だと思ったら、反証さがしをしてみるといい。反証のほうが山のように出てくるはずだから。

「他者からみた自分」を、俺は永久に知ることができないし、操作することもできない。それなのに「自己評価を割引する」というトリックを使えばそれができるかのように思ったことがそもそもの間違いなのだ。
ありもしない幻影のために支払う代価としては、この自己犠牲は重すぎてひきあわない。 
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・思想家の命題、作家の警句

学者、思想家、作家の書いた文章を読んでいて、目のウロコが落ちるようなすばらしい一節に出会ったとする。そしてその著者は俺にとって尊敬おくあたわざる人物だとする。
感動のあまり、俺は人生のさまざまな場面でその一節をおもいだし、その一節の指示するところにしたがってモノゴトを考えようとするかもしれない。

しかしそれでよいのだろうか?
その一節は、その書物固有の文脈の中で述べられた真理であり、しかも一面的な真理にすぎない。
もしかしたら文の調子をととのえるための修飾節にすぎないかもしれない。
それに、気が利いていることは必ずしもその一節が真理であることを意味しない。

だとしたら、今現在俺がかかえている問題についての自然な解釈を曲げてまで、この著者に追随する必要はない。
俺が彼を尊敬することと、彼が必ず真実を述べているかどうかは別だ。
また、その一節にこめられた洞察の深さと、その洞察が、俺の現在の問題に適用可能かどうかは別だ。
彼がフロイトであろうと、ドストエフスキーであろうとだ。

そのことに気づけば、その一節に必要以上にとらわれて苦しい選択をする必要はなくなる。
そっと手放そう。 
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・原因論よさらば

医療は病気の原因を追求するところからはじまる。原因がわかれば治療することができる。きわめて合理的で有効な方法だ。

反対に、メンタルな問題では原因論がしばしば有害に作用する。
「両親の育てかたが原因で引きこもりになった」
「悪意のある中傷を受けつづけたのが原因でうつ病になった」
「父親から虐待されつづけたのが原因で不幸な恋愛をくりかえしてしまう」
「他人に気を使いすぎるのが原因で、人からつけこまれてばかりいる」
「命じられた職務に不満なのが原因で、ミスばかりしている」
これらの原因論には確かに合理性がある。それに、意味不明の災難に説明が与えられることで、いいようのない恐怖からひとまず解放されるという利点はある。
しかし問題が2つある。
ひとつは、原因がわかっても治療できないこと。
もうひとつは、過去のことや解決できないことが原因であって取り除くことがかなわないにもかかわらず、これらの原因を告げられた当人は、原因への強いこだわりを抱き、いっそう苦しむことだ。
原因人物にたいして深い敵意をもつ一方で、宿命論的な信念により、症状を手放すことがなおさら難しくなる。

しかし、上記のような原因論はひとつの解釈に過ぎない。解釈としては間違っていないかもしれないが、可能な解釈群の中の一つにすぎない。
人間は、入力と出力が1対1で対応するような自動機械ではない。
それに、経験を解釈する文脈(思想的背景)は1つではない。
むしろ、文脈が1つしかないと思い込む彼の性向が、症状を強化し、自分を苦しめてきたのかもしれない。
人間にはもっと柔軟性があるし、世界も、世界を構成するモノゴトも、彼が思うよりもずっと多様性に富み、曖昧で、未決定で、相対的であろう。

だから、原因論は、いったん認識したあとで、きっぱりとおさらばしよう。 
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・バランスをとる

「人に迷惑をかけまい」という強い信念を抱き、苦しい生きかたをしてきた人は、あまりの苦しさに、「もう二度とそんな生きかたはすまい」と心に誓うかもしれない。

「二度と☓☓すまい」という反発の情動は、彼が生きかたを変えるための原動力となろう。
高橋和巳『新しく生きる―今の自分でいい、そのままでいい』の中の「身体が許さない」という表現を紹介したときに扱ったあの情動である。

しかし、情動を野放しにするのは危険だ。情動そのものは不定形だからどのような水路にも流れこんでしまう。
彼がもし「迷惑かけずにおくものか」とかたくなに考えるならば、本当に迷惑な人物が誕生するだけだし、「迷惑かけること」一般についてのこだわりをいっそう強化することになる。正と負の符号が反転するだけで、苦しさは消えない。
だから、情動の力を使うにも知恵が必要なのだ。情動は適切な水路に流しこんでやろう。

この場合、彼の心に言わせたいセリフは「迷惑かけずにおくものか」ではなくて、「人に迷惑をかけないために俺の自由を差し出すことは二度とすまい」であろう。

それにくわえて、この「迷惑」の主題が浮上するたび、彼の心にこの枕詞をとなえさせたい。「迷惑をかけてもかけなくてもどちらでもよいのだが」
具体的には次のような結論がつながる。「迷惑をかけてもかけなくてもどちらでもよいのだが、今回は我慢して譲歩しよう」「迷惑をかけてもかけなくてもどちらでもよいのだが、今回は俺の都合を押し通そう」
彼にとって、すでにわかりきったことかもしれないが、これを心の中でとなえ(もちろん声に出して言えるならなおよい)、心の耳から自分の意識に再入力する作業が大切なのだ。

さらに、結論についても、つねに反転可能であり、今回一方が選ばれたのは「たまたま」なのだと考えておきたい。「どちらでもよい」と考える余裕こそが解放への道である。 
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・唯物論宣言

マルクスは読んでいない。
しかし俺は唯物論者であることを宣言したい。

これまで何度も述べてきたように、思考は信用できない。
思考は簡単にリアルから遊離し、閉鎖回路を形成し、暴走する。

決してリアルを置き去りにしないもの、それは俺の身体感覚である。
これらを手がかりに、俺は思考の循環からぬけだす通路をみつける。
冷たい水のおいしさ、鼻孔を通る空気、閉じたまぶたごしに感じる光線。
唯物論的な感動である。


・他者の代弁はやめよう

他者の意見を自分の意見であるかのように述べるのはやめよう。
借り物の意見はみっともないとか、ずるいとかいうことが理由なのではない。
自分が苦しくなるからだ。
代弁した意見が自分固有の考えと葛藤を起こし、心に貼りついた焼け石のようにじりじりとくすぶり続ける。

もちろん、仕事では他者の意見を代弁することは避けられない。
仕事は指示や依頼で成り立っているからだ。
しかし、それが誰の意見か、誰の希望かをつけ加えることはできる。そうすれば、自分固有の意見と代弁した意見とのあいだに線を引いておける。

「指示を受けた以上は自分の意見であるかのごとくふるまえ、それがビジネスパーソンだ」と言う堅物がいるかもしれないが、俺だったらまぬけと思われてもいいから自分を守るほうを選ぶと思う。

ところで、指示も依頼も受けていないが、他者のために代弁してあげたくなることがある。
これも、できればやめたほうがいいと思う。
なぜなら、代弁した意見が俺固有の考えと葛藤を起こしたら、自分の意思で行った代弁にもかかわらず、代弁してあげた相手が憎らしくなってしまうからだ。


・俺がいま苦しいとしたら、苦しくさせるほうの考え方を捨てよう

何度くりかえしても足りないけれど、苦しまないことに最大の価値をおいて生きていたい。
だから、法に触れる場合は別として、社会常識やビジネスマナーが苦しい方の道を指し示すときは、必ずしもそれにとらわれず、自由に決断する勇気をもちたい。
そもそも、俺は行き詰まった頭で社会常識やビジネスマナーを堅苦しく考えすぎているのかもしれない。
たとえば、もし仕事を先延ばしにすると心に決めたなら、先延ばしにしている間の時間をいかに苦しまずに過ごすかに最大の重点をおこう。 
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・気働きをやめよう

他者の意向を先取りして小さな親切をすると相手は喜んでくれる。
当然自分も嬉しい。
しかしこれを習慣にしてしまうと苦しくなってくる。
自発的にしていることなのに、強制された苦行のようになり、相手がうらめしくなってくる。
それでいて、相手が本当に望んでいることかどうかはわからない。
いや、おそらく苦しんでまでしてほしいとは望んでいない。
そればかりか、俺の小さな親切が重荷になっているかもしれない。
だから、明示的に依頼されたことだけをするようにしよう。
すると、おそらく相手も俺をつきあいやすいやつと思ってくれるだろう。


・「責任」という考えかた

他人の手を借りたくせに礼を言わないやつを見かけると腹が立ってくる。
しかし、赤の他人のためにわざわざ腹を立てて自分を苦しめるのは不合理なことだ。
では、次のように考えてみよう。
礼を言わないで白い目で見られたり、非難されたりする可能性も含めて、彼は自分の「責任」で選びとっている。だから他人が心配する必要はないのだと。
それから、俺も自分の「責任」で小さな無礼を働いてみよう。
「自由」には「責任」が伴うと言われる。
しかし、裏をかえせば「責任」にも「自由」が伴うのだ。
ありうべき他人の非難を避けることに汲々とするよりも、自分の「責任」で行動することによる「自由」を味わおう。
もちろん、ここでいう「責任」はビジネス社会における用法とは異なるし、ましてや「自己責任」なるものともまったく関係がない。 
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・早く動物になりたい

俺、とりかえしのつかないことをしてしまったかも……。
そんな想像にとらわれて胸が苦しくなったときは、まず思いだそう。
「とりかえしのつかないこと」など存在しないということを。

行為を遂行するにいたった思考の流れがある。思考だからヴァーチャルであり、リアルという大地から片足を浮かした状態だ。
そして、その行為を「とりかえしのつかないこと」として批判する思考が出現する。これもまたヴァーチャルであるから、ヴァーチャルにヴァーチャルが重なり、リアルの大地から両足が浮いてしまう。
すると思考はリアルというささえを失うから、際限のない葛藤がはじまり、俺を苦しめ、追いつめる。
一刻も早くリアルの大地に足を届かせよう。
まず深呼吸、そして冷たい水を飲もう。その水がおいしいと感じられたら、つま先が大地に触れている。

俺を苦しめるものの正体は、自分の行為を「とりかえしのつかないこと」と決めつけた存在、すなわち「意味」――「物語」といっても「世界」といってもいい――であった。
だから、「意味」を信用するのはやめよう。そのかわり、「意味」が便利なときは便利なところだけ利用して、そのあとは手放そう。
そして「意味」という大仰な呼びかたはやめて「ファンタジー」と呼ぼう。そうすれば、こいつの胡散臭さが多少は感じられるから、一歩引いて付きあおうという気になる。
もっとも、これは俺が思春期以来たよりにしてきた大きな物語(システム)を手放すという決断であるから、人生の一大転機といっていいのだが。

今後、俺がささえにするのは「リアル」だ。

アニメ『デジモンアドベンチャー』にはデジタルワールドとリアルワールドが登場する。しかし俺がここで述べている「リアル」は、おそらく「ワールド」でさえない。
「世界」はそれ自体「意味」であり、ファンタジーであるからだ。

そして「世界」を必要としなくなった俺――といっても「世界」が必要なときは使うし、必要なときのほうが多いから、「世界を全面的には信用しなくなった俺」程度にしておくのが正確かもしれないが――は、少しだけ動物に近くなっているのではないだろうか。


・反省するのはやめよう

道徳教育の悪影響というべきであろう。俺たちは何かにつけて反省する。
そして反省するのが当然で、正しいと思っている。
つまり「反省文明」が存在する。
しかし、必死でがんばった後で、「まだここが足りなかった」とか、「このことに気づいていればもっとうまくできた」と考えて自分を責めさいなむ文明は健康であろうか?

向上心はあってもよいと思うが、「反省」としてではなく、自分への付加価値として、つまり、現時点で俺は合格だが、こういう手もあるよという「提案」として使うべきであろう。

そして、他者から反省を強要されたらにっこり笑ってやりすごそう。 
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・ため息をつこう

ストレスを脳内にとどめておくことほど有害なものはない。
脳内はコンピュータと同じヴァーチャルな世界だから、情報を無限に複製したり、無限に循環させたりという芸当をいとも簡単にやってのける。
そして、脳内ではストレスも情報の一種だから、脳内の回路(つまり思考)が暴走したときは、破壊的なダメージをもたらす。
では、ストレスがほんの微弱なうちに、筋肉運動に変換して解消してしまおう。
筋肉運動にもいろいろあるが、もっとも簡便かつ有効性が高いもののひとつは、呼吸器の筋肉運動である「ため息」であろう。
「ため息をつくと幸せが逃げてゆく」とか言う人がいるかもしれない。しかし気にするのはやめよう。
むしろ、不幸を追い出して幸せになるおまじないと思えばいい。


・おいしいものから食べよう

おいしいもの(好きなもの)を先に食べるか、あとに残すか。幼年時代にはじまり、最近まで答えの出なかった問いである。
「出なかった」と過去形で書くのはこれが解決したからにほかならない。
健康という視点に立てば、「おいしいものを先に食べる」が正解であり、疑問の余地がない。
「あとに残す」は未来のために現在を犠牲にする。しかし未来は脳内にしか存在しないヴァーチャルである。妄想と言ってもいい。
俺たちは思考なるものを身につけてしまったので、ある程度ヴァーチャルな世界に生きることは仕方がない。
しかし、できるだけナマのリアルに触れていよう。やむなくヴァーチャル空間をさまよったあとは、なるべく早くリアルを呼吸して思考をリセットしよう。
「おいしいもの」はリアルに戻ってくるための重要なアイテムだから、大切にしよう。
 
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・むやみに謝罪するのはよそう

自分が悪いと思っていないことで謝るのはやめよう。
仕事上やむをえない場合もあるが、「申し訳ない」を言う回数はなるべく少なくしよう。

言葉くらいどうってことないと思うかもしれない。
しかし、自分の耳から入った謝罪の言葉は、俺の中の「自分は悪いと思っていない」部分とぶつかり、葛藤を起こす。
葛藤が起これば苦しむことになる。

もう少し自分の心をケアしてやってはどうだろうか。
正反対の価値が、秩序もなく、混沌と混ざりあっている心の中では何一つ決断することができない。
価値同士のつぶしあい、足の引っぱりあいのためにエネルギーが使われつづけると、生きるためのエネルギーまで枯渇してしまう。

整然と、秩序正しく、シンプルな心を持とう。そのためには、部屋の掃除や、体のケアと同じように、不必要なものを溜めないようにしよう。


・言い訳をしよう

言い訳をしよう。不可抗力のできごとにまで俺が責任を負う必要はない。
ありえない障害が出現することを予測できなかったのは俺の罪ではない。
忙しくて後回しにしたのは俺のとがではない。

もっとも、今のビジネス社会でそんな言い訳をすれば排除される。
だから言い訳することは得策ではないのだが、それでも、なるべくなら理不尽な責任を認めることはやめておこう。
そして、他者が俺の言い訳を許さなかったとしても、また、そのために俺が自分の責任を認めるようなことをやむなく口走ったとしても、それでも、心のうちで、自分が自分に言い訳することは許してやろう。


・不愉快な思いをしたとき

不愉快な思いをさせられて、相手をとっちめてやりたいと思うとき、もし逆襲することだけが目的ならただちにやめよう。その方法では相手が悔い改めることは望めないし、復讐心のもたらす興奮と緊張は、相手よりも俺自身の心と身体を苦しくさせる。

次に、二度と同じ目に遭いたくないから、相手の攻撃を封じるために意見するという場合を考える。挑発的でない言葉で、自分を主語にして、しかも相手の良心にうったえる効果的な意見を述べるという場合だ。
しかし、この場合でも、もしそれを言わねばならないという考えが俺を苦しめるのなら、きっぱりとやめてしまおう。

自分のしあわせのために意見しようとしているのだから、そのために自分のしあわせ(苦しまないしあわせ)を犠牲にする必要はない。

まず深呼吸、一歩引いて気楽に行こう。俺たちには苦しまない権利がある。 
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Author:盛々夏野菜

男性、既婚、事務系サラリーマン。
現代思想フェチだが、本を読むのが遅いのであまり多くは読めない。地底人生活を経て現在は臨床心理に関心がある。新鮮な胡瓜が好き。
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