きゅうり

 

盛々夏野菜のハードエッセイ & ショートストーリー 【思想、心理、書評、劇評、感想、あらすじ】
 

 

 
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蜷川幸雄演出「唐版 滝の白糸」がWOWOWで放送される。
WOWOWライブ 12/28(土)よる 9:30

http://www.wowow.co.jp/pg_info/detail/104436/ 
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俺が観たのは11月9日13時30分の回であった。この回が特別だったのか? 何かあったのか? 演出の鵜山さんはどうかしてしまったのか? 見るべき場面がほとんどなく、カーテンコールなしという異例の終わり方であった。俳優のモチベーションも下がりっぱなしであろう。

全編を通じて法華経問答が延々とつづく、ディスカッションドラマの性格が強い本作は、決して取り組みやすい本ではない。安易な姿勢で臨めば大やけどするたぐいの難物であり、文字通り大やけどを負ってしまったのがこの公演であった。どこが駄目だったかを考えてみた。

(1)喜劇的人物が喜劇のキャラクターとしてしか描かれていない。山男(小倉毅)も三十郎(土屋良太)も、本人たちの切実さが周囲と化学反応したときにはじめて「おかしみ」を醸すはずなのだが、最初から笑いを狙いにいってしまった。だから、長ゼリフを聞いていると飽きてきて、早く言い終わることを願ってしまう。

(2)この本では、擬音(汽車の走行音)を俳優の声で表現するという特殊な趣向がドラマの推進力になっているのだが、本公演では擬音担当になった俳優を囃し方のようにホリゾントの前に座らせ、折り目正しい「演奏」をさせただけだった。では、俳優に言わせることの意味は何なのか? 俳優に言わせる以上は、たとえト書きに書いてあっても「セリフ」なのだから、自己主張し、でしゃばり、前景の芝居に介入してよいのだし、それが作者の意図であろう。特に「8場」の「シュラシュシュシュ」は瀕死の賢治に捧げる鎮魂のコーラスであって、執拗に自己主張し、前景を圧倒してしまえばよかったのだ。しかし、本公演では予想どおり間の抜けた「演奏」でしかなかった。

(3)「5場」における賢治(井上芳雄)と父(辻萬長)との仏教問答は、上滑りな会話が続き、退屈この上なかった。賢治を演ずる俳優に「日蓮の思想への共鳴」を要求しては行き過ぎかもしれないが、「日蓮の思想に共鳴する賢治」に共感することはできるはずであり、そういうプロセスを経ればこそ日蓮を擁護するセリフにも熱が入るというもの。浄土真宗を擁護する父親役とて同様である。しかしこの場面では、二人とも他人事を話しているようにしか聞こえなかった。
舞台上で本格的な宗教論争を展開するわけにはいかないという配慮から、戯曲の中ではそれが「言葉遊び」や「揚げ足取り」に置換えられている。しかしそれを単なるコメディとして演じてしまっては、この親子をなりふりかまわぬ真っ向勝負に駆り立てている、それぞれの信仰の深さがまったく見て取れないのだ。

(4)「9場」における第一郎(石橋徹郎)のセリフに石原莞爾の名前が出てくるところは、賢治の奉ずる日蓮の思想がねじまげられて政治利用され、侵略の大義名分として使われようとしていることが明らかになる場面だ。つまり、この場面は「賢治と歴史との対決」という意味をもっている。したがって、石原莞爾の名が聞かれた瞬間、舞台には軍靴の音を幻聴させるくらいの緊張が走るはずなのだ。ところが実際の舞台のゆるさは何であろう? 茶飲み話に毛が生えた程度のテンションでしかなかった。作者が彫琢したセリフを、一語一語丁寧に読みこむ努力を怠った結果であろう。

(5)同じ「9場」で、賢治が自分を「三十五になっても親がかりのデクノボー」と呼ぶところがある。俺は、「あーそのとおりだね、デクノボーだね、どうしようもないね」と言いたくなった。
賢治のどこが「ただのデクノボー」とは違うのか、セリフには書かれていないその答を提示するのが、この芝居の役割であるはずなのだ。

初演(木村光一演出)の評判が高かっただけに、失望は大きかった。このままでは納得できない。蜷川氏か栗山氏の演出で、リベンジを果たしてもらいたい。

イーハトーボの劇列車 公式サイト


戯曲は面白い。
井上ひさし全芝居 (その3)井上ひさし全芝居 (その3)
(1984/07)
井上 ひさし

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二晩経って、もうすこし感動の意味がわかってきた気がする。

心中をのりこえて手にした小人たちとの幸福な生活(彼女じしん、この生活を白雪姫に例えている)は、お甲が人の優しさに触れ、生まれて初めて味わう深い「癒やし」の時間であった。それはすさんだ生活を送ってきたお甲にとって、命と引きかえにしても惜しくないほど大切だった。だから、鮮血を迸らせながら披露する水芸は悲劇の形象なんかではない。彼女は自分の命を差し出すことによって、愛する小人たちの優しさに応えたくてしかたがないのだ。これは歓喜の舞いなのだ。

一方、鮮血を浴びてのたうちまわるアリダは傍観者にとどまる。彼がいくらお甲に肩入れしようと、お甲が舞っているのは小人たちのためであって彼のためではない。しかし、お甲の人生に立ち会うことによって得た深い感動は、今後の彼の人生を変えずにはおかないだろう。 
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昨日の昼公演に行き、一晩経ってまだ興奮がさめない。そんなことはいまだかつてなかった。

本公演のどこが凄いかを一言でくくるなら、「あふれる詩情」と「キッチュ」の融合という奇跡であろう。もちろん、すべての唐戯曲はこの称号にあたいするかもしれない。とはいえ、唐さんの多幕物ではこの両者がもっと複雑なかたちでからみあう。いいかえれば、両者のあいだの断層は、作家の力量により、ストーリーの中で馴化されるのだ。それにひきかえ本作は、「あふれる叙情性」のいっさいが、終幕における「血糊の噴出」というあざとい視覚効果の猟奇性によって一気に形象化される、単純きわまる構成であり、馴化の余地がない(注1)。両者の断層は深く、薄氷を踏むようなバランス感覚と、なみはずれた力業(ちからわざ)を同時に発揮することができなければ成功はおぼつかないはずだ。ところが、本公演はこの両方をわがものとし、断層を一気に飛びこえてみせる。俺たちがおぼえる感動の深さは、この困難な跳躍の高さと速度に比例するのではないだろうか。そう考えれば、かつてない感動の深さに説明がつく気がする。

本公演最大の収穫は女優・大空祐飛さんであろう。シェイクスピア顔負けの叙情性をもち、それゆえに手強い、唐戯曲との格闘の中から、崇高というべきヒロインの存在をひきだしてきた。そうなのだ、この崇高さこそが唐戯曲ヒロインの理想形なのである。

登場場面とか、ラストとか、名シーンはたくさんあるのだが、もっとも俺の印象に残ったのは、いきなり正座して、滝の白糸の口上を述べはじめるところだ(注2)。正座した彼女は、口上を述べるまえにほつれた髪をなでつけて(注4)、見えない観衆への敬意をあらわす。戯曲には書き込まれていないこの小さな動作が、舞台に緊張を走らせ、幕切れの悲劇に向けて一気にドラマを加速させる。

白糸太夫の装束に着替えて披露する水芸のシーンは、菖蒲と噴水に囲まれてたぐいまれな美しさだし、手首を切り、鮮血を迸らせながらクレーンにのって宙を舞うラストも美しい。「それでは皆さま、手首の蛇口を外しましょう!」こんな美しい決めゼリフを書ける作家は二人といないだろうが、このセリフを彼女ほど完璧に言える女優もいないだろう。

それから、彼女の存在感の秘密のひとつが、挑むような、それでいてつねに淋しそうな目線であることは、この舞台を観た人なら誰でも気がついているだろう(注3)。

ところで、『唐十郎全作品集 第四巻』の解説によると、朝日新聞<彦>は1975年の初演を評して「この公演が必ずしも成功していないのは、第一に、元来がこじんまりとしたまとまりのよさをもつこの一幕劇が、いわば強引に”演劇スペクタクル”に拡大されたため、そこにどうにも埋められぬすき間、つまりは一種の空々しさがつきまとうためだ」と書いたそうな。しかし本公演を観たあと、俺はこの批評を「たわけ」と思った。すべての要素が幕切れの悲劇に向けて収束していくこの戯曲の構造は、血しぶき飛び交う”演劇スペクタクル”を不可避的に要請する。したがって、この野心あふれる戯曲は、現場に対し、そして観客の想像力に対し、(朝日新聞<彦>の言葉で言えば)「すき間」を埋めてみろと挑戦しているのだ。そんなこともわからないのだろうか。

いやそれとも、俺の観ていない初演の舞台成果がその程度のものだったのだろうか。今となっては知るすべはない。しかし、演出の蜷川氏は、「エンタメターミナル」のコメントで「殊にこの作品には出会った時から恋をし続けており、今回はその恋がひとつの成就を迎えたと言って良い仕上がりになりました」と述べている。すると、本公演は過去4公演の中でぬきん出た舞台成果を上げていて、それゆえに、俺は最初に述べた「詩情とキッチュの融合」を語ることができたということなのかもしれない。融合が成功しているのを見なければ、語ることはできないからね。

(注1)お甲を中心としてあらすじを述べればこうである。お甲はかつて激情に駆られ、男と二人で手首を切り心中をはかって生き残った。その後過去を清算し、地味だが平穏な生活を小人たちと送っている。そして今、彼女は自分の命とひきかえにその小さな幸福を守ろうとして、もう一度手首を切る。

(注2)「あ、そうだ、滝の白糸。(急に変な声で)これより、お目にかけまするは白糸太夫の涙の恋がらみ、ちぎれてはなれし、天界の、あの人の供養の特別興行でございます」(角川文庫『唐版 滝の白糸』81ページ。冬樹社『唐十郎全作品集 第四巻』230ページ。ただしどちらも絶版。今年の連続公演を期に「盲導犬」「唐版 滝の白糸」だけでも復刊されないだろうか。)

(注3)舞台写真からその片鱗が見て取れるかもしれない。

(注4)2013年12月29日の追記。WOWOWの放送をみたら、この動作はしていなかった。俺の記憶ちがいかもしれない。

お甲の癒やしの物語--蜷川幸雄演出「唐版 滝の白糸」(つづき)

作品公式ホームページ

アマゾンに収録戯曲集の画像が見当たらないので、スキャン画像を掲載しておく。
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神楽坂の喫茶店で行われた連続公演だ。

人生漫画@cafe SKIPA
-----揚野浩 著(光風社書店)『プロレタリア哀愁劇場』より

小さな喫茶店のテーブルと椅子を片づけた四畳半程度の空間が舞台で、観客は約二十人程度。本作の上演スタイルは「物語る演劇」。原作(小説)を戯曲として再構成することなく、原作の地の文も会話文もほとんどそのまま二人の俳優に割りあててある。ベテランの木野本啓氏は寺中、新人の高橋祐介氏は川路と清子の担当。俳優はこの二人だけなので、警官、矢板氏、老婆、社長という脇役は、二人のどちらかが張り子の仮面を被って演じるという趣向だ。トレーラーの運転席は高いところにあるので、二人はキャタツを二台ならべ、それぞれの天板に腰かけてその高さを表現している。

ところで、俳優の身体にとってセリフと地の文とでは距離感が異なるから、これらの両方を同時に語ることは難度の高い技であるはずなのだ。しかしかれらは絶妙なバランスでこれらの距離感を使いわけ、どん底生活を生き抜く登場人物の必死さと、一歩引いてかれらを眺めている作者の視線を、立体的に浮かび上がらせる。「やっぱり黒テントの俳優は上手いなあ」と舌を巻いた。原作に頻出する擬音語の処理も丁寧で、この芝居のアクセントになっていた。

山崎方代@茶廊トンボロ
-----田澤拓也 著(角川出版社)『無用の達人 山崎方代』などより

cafe SKIPAの姉妹店で、隣接する茶廊トンボロに作り付けのテーブル席があり、そこに宮小町、斎藤晴彦、滝本直子、平田三奈子の四氏がすわり、内沢雅彦氏(宮崎恵治氏とダブルキャストのようだ)はレジの前に立っている。観客の大部分はカウンター前の椅子にすわってテーブル席の方(カウンターとは逆方向)を向いている。残りの観客(俺を含む)は、カウンターの中のハイスツールにすわって観ている。

俺は原本『無用の達人 山崎方代』をちゃんと読んでいなくて人物の名前が頭に入っていないうえに、フリードリンクの白ワインを飲んでしまい、劇の構造を分析するどころではなかったのだが、まあとにかく、方代ゆかりの人物たちがひとりずつ、方代の人物像とエピソードを語って行く構成であったことは確かである。人物たちのうち二人はくま(方代の姉)と吉野秀雄(歌人)。あとは俺の頭の中でしっかりと分節化できていない人物なので、記憶しようがなかったのだ。失礼。

本作もやはり「物語る演劇」であるが、原本はノンフィクションであって会話文が少ないため、上の「人生漫画」のように俳優と登場人物を一対一で対応させることが難しい。それで五人の俳優が一センテンスずつ、ほぼ同じ分量のテキストを交代で語って行くスタイルであった。

そして俺の観た回には、なんと、『無用の達人』の著者=田澤先生が、方代ゆかりの女流歌人三人(注2)と一緒に、観客としていらしていた。

山崎方代の破天荒な生きかたは、自由なるものの意味について再考を迫る。「自由」はみっともなくて、ある意味えげつない。心のままに生きるということは、人目を気にしないし、多少の迷惑はかえりみないということでもある。言いかえれば、底なしの自由が欲しければ、紳士と思われたい欲を手放す必要があるということだ。しかし、俺たちは他者から評価を得ることに汲々とし、自分を信じとおすことを躊躇してしまう。いまさら何が惜しいのか、なぜ自分を信じないのかと自問してみるが、自我という病気は自分で思っていた以上に重症らしく、自由の手前で足踏みするだけなのだ。


この連続公演は、黒テントが神楽坂のイワト劇場を手放し、新宿山吹町(最寄駅は江戸川橋)に移転してから最初の作品であるそうだ。黒テントはその長い歴史の中で、はじめて常設劇場をもたない劇団になったようである(注1)。今回の公演は、規模からいうと番外公演よりも秘演会と言ったほうがふさわしい。たった二十人で濃密な演劇空間を独占する贅沢な時間であった。しかし黒テントには、やはり大きな劇場での公演を実現してほしい。俳優の宝庫というべき、実力派ぞろいのこの劇団には、日本の演劇界を牽引する使命があるはずだ。

(注1)木野本氏は「人生漫画」終演後の口上で、「俳優というものは空き地でも路上でも、そこに空間さえあれば演じることができる」と言っていた。
(注2)そのうちの1人は山形裕子さんであることが、彼女たちの会話からわかった。山形裕子さんは、『無用の達人』各章の冒頭で方代の回想を述べておられるので、俺のいいかげんな読み方でも記憶に残っているのだ。

無用の達人 山崎方代 (角川ソフィア文庫)無用の達人 山崎方代 (角川ソフィア文庫)
(2009/06/25)
田澤 拓也

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およそ演劇ファンなら知らぬ者はない伝説的な研究集会。それは2008年に早大の演劇博物館が主催した『アングラの神話・反神話 国際研究集会 60年代演劇再考』だ。

演者の顔ぶれは空前の充実ぶりだった。劇作家・演出家は登場順に宮沢章夫、岡田利規(としき)、平田オリザ、故寺山修司に代わり令夫人の九條今日子と元天井桟敷メンバーの萩原朔美(さくみ)および安藤紘平、佐藤信(まこと)、蜷川幸雄、唐十郎、別役実。評論家は登場順に大笹吉雄、佐伯隆幸(りゅうこう)、松井憲太郎、扇田昭彦、デイヴィッド・グッドマン、菅孝行(かんたかゆき)、堀切直人(なおと)。さらに世界中の若き前衛演劇人(寺山修司、東由多加を含む)を育てたラ・ママ実験劇場(ニューヨーク)のエレン・スチュワート以下スタッフ四名。

三日間で計十一本の基調講演、対談、パネルディスカッション、シンポジウムがあった。当時病み上がりだった俺は、半分に少し欠ける五本聴いただけ。全部参加しておけばよかった。

この研究集会の全記録が本になった。それが今年の三月に出た本書である。合計十二時間超の膨大なテープを起こして文体をととのえ、演者の校正を得るのは気の遠くなる作業だっただろう。この労作によって歴史的な研究集会がわれわれの財産として残ることになった。

一見地味な本だ。研究集会のキャッチフレーズだった「アングラの神話・反神話」が省かれて、おとなしい書名になってしまった。装丁も地味だ。こうして、本書の外観からは内容の濃さが伝わってこない。当時この研究集会に参加したり、参加しなくても関心をもった人ならともかく、若い演劇ファンが書店で本書を手にとるという出会いのかたちは困難だろう。俺自身、発売直後に平積みになっていたのを目にしてはじめて書籍化を知ったというありさまで、背表紙しか見なかったら本書を手にとったかどうか疑わしい。

しかし、類書にうずもれて初版で絶版になってしまうのは惜しい。貴重な証言集というだけではない。アングラ演劇の表現者たちは、大文字の歴史に逆らってもがき苦しんだあげく、その「痛み」の中からもちかえった表現によって観客の共感をさらった。彼らと並走した評論家たちは、その「痛み」をともにしながら記録し、分析し、議論し、アジった。そして俺たち読者はその熱に感染してめまいをおぼえ、自分の立ち位置を「再考」せずにはいらいれなくなる。

かといって、決して難解な本ではない。すべて講演の記録だから口語で読みやすいし、一本一本は長くないので一気に読める(佐伯隆幸氏の講演だけちょっとむずかしい)。初心者には、扇田昭彦氏の講演が入門として役に立つだろう。

以下、俺が特に感銘をうけた四本について、感銘の「ツボ」だけを収録順に述べる。


・蜷川幸雄「演出家の役割」(聴き手=扇田昭彦)

櫻社の創立メンバーだった蜷川さんが日生劇場でシェイクスピア劇の演出をしたとき、商業演劇をやるとは何事かと、何十対一で吊し上げを食った。その後櫻社は解散に至る。この強烈なトラウマによって、蜷川さんは性格が変わってしまったし、以後、当時のできごとを封印し、人前で話す機会を避けてきたという。


・菅孝行「六十年代演劇の歴史的意義と現在」

戦前・戦後を通じて左翼演劇人によって担われてきた「新劇」は、全ソ作家同盟の提唱する「社会主義リアリズム」の統制を逃れえなかった。ソ連本国では、社会的リアリズムの統制に従わない芸術家が、異端の烙印を捺され処刑されていた時代だった。日本でも、モスクワの指令に背くことは、処刑されないにしても異端者として演劇界から追放されることを意味した(一方、戦中の「軍国主義リアリズム」は、社会主義とは真逆のイデオロギーを、同じ「リアリズム」の形式にはめこんだ代物だった)。戦後、「社会主義リアリズム」に和製スタニスラフスキー・システムが接ぎ木されて、演劇人の桎梏はいっそう強化された。欧米資本主義文化の猿真似が「鹿鳴館」だとすれば、それに対抗する軸だったはずの社会主義が、結局は権威への従属を強要するにいたったこの時代は、「逆鹿鳴館」というべき暗黒時代だった。そこで、六十年代演劇は、演劇を日常性の呪縛からも、政治的圧力からも、戯曲テキストの権威からも解放した。それは逆鹿鳴館的な「糞リアリズム」へのプロテストだった。


・佐伯隆幸「アングラの「亡霊」」

アングラ演劇は「反=政治性」によって特徴づけられる。それは「普遍」を僭称し、歴史の進歩を信じ、「現在の労苦は明日むくわれる」式のありえない希望を語って結局のところ問題をくりのべる、「新劇」のなまぬるい政治性への反逆であった。左翼の言う「世界革命」は不可能だ。しかし、世界のいたるところに(もちろん俺たちの日常の中にも)存在する不条理を目にして、自分の無力を自覚し、自分には何もできないことを知りながらも、魂の憤激をおぼえ、どうしても関与せずにはいられない、そういう瞬間に、俺たちは世界史と切り結んでいるのではないのか。そのとき、俺たちが表現の根拠としてゆいいつ頼りにできるのは、ご立派な言説ではなくて、自分自身の「身体性」なのだ。


・デイヴィッド・グッドマン「アングラの行方――運動、救済、革命」

(最後の一本は、国際研究集会の翌週に三日連続で行われた小規模なセミナーの記録である。)
明治政府は神道を国家の基盤に据えようとこころみ、徹底した宗教改革を行なった。廃仏毀釈によって寺院の八十パーセントを消滅に追い込み、民間信仰と結びついた諸芸能を弾圧した。歌舞伎界は社会的地位の約束と引きかえに卑猥な要素、不条理な要素を捨てさせられた。もっとも深刻だったのは、民間信仰と伝統演劇に内在する、死者を祀り、怨霊を鎮魂する機能の喪失であった。やがてこの急進的な宗教政策は緩和されるが、日本人の精神に限りないダメージを残した。しかもそれは表面にはあらわれず、意識下に鬱屈した不安と恐怖として抑圧された。こうして、「明治以降の日本の近代演劇や文学の仕事のひとつは、この鬱屈した意識を筋立てて説明し、意味づけることであった。明治政府によって封じられた日本の民間信仰の神々を日本の作家たちは文学の空間に解放しようとした」「アングラ演劇とは、……日本人の意識からほとんど消滅させられた神々や死霊を舞台の上で解放し、日本の近代演劇の使命を集団単位で果たそうとした演劇運動だったのである。河原乞食と自称し、神社の境内にテントを張って神々を呼び寄せることによって、積極的・意識的に明治維新以前の演劇の精神的・宗教的機能を取り戻そうとしたのである」


最後に、本書はこの研究集会を企画・運営した若き演劇研究者、梅山いつき氏の手になる初の単行本であることを記しておきたい。氏の活躍がなければ本書は誕生しなかった。また、本書の刊行からちょうど一か月後に、氏の博士論文の書籍化である『アングラ演劇論――叛乱する言葉、偽りの肉体、運動する躰』も刊行された。彼女の登場によって、六十年代演劇の本格的な研究がやっとはじまる。

六〇年代演劇再考六〇年代演劇再考
(2012/03)
不明

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早稲田大学演劇博物館主催の演劇講座『座談会 つかこうへいの70年代』を聴くため、大隈講堂に行ってきた。
講師は風間杜夫、平田満、根岸季衣の3人で、司会は扇田昭彦さん。

演劇講座といっても、話題の大半は、つかさんの特異な人物像をめぐるエピソードであった。

俳優の内面まで踏み込む演出で、最高のパフォーマンスを引き出すかと思えば、一方では自分の演出によって脚光を浴びた俳優に嫉妬し、ふてくされる。
俳優からまきあげた金や、木戸銭箱から掴み取った入場料で食事を振る舞う。

彼の人生のキーワードは「潔(いさぎよ)さ」ではないかと思った。
良くも悪くも、行動が徹底していて潔いのだが、そのいわゆる「潔さ」が度を超えている。
自分の無様な姿を決して人に見せまいとして、やせ我慢を貫き、つねにハイテンションを維持し、アドレナリンを出しきった人生。この過剰に演出された生きざまが、彼の最大の作品だったと言いたくなる。
穏やかに生きられない人だったということはわかっているが、それにしてもなんという苦しい人生だったのであろう。おのれの美学を貫徹するために他の一切を犠牲にしていたようにみえる。聴いていて、痛々しく思えてきた。
しかしその評価は措こう。芸術家は彼の生きかたで評価されるべきではない。

惜しいと思うのは、すぐれた書き手である彼が、「口立て」の手法にこだわったために、書斎で劇作する営為を手放してしまったことだ。
才気にあふれ、疾走感のある実験的作品が、必ずしも、強固な構造をもつ古典的作品より優れているとは限らない。つかさんの作風ならば、むしろ、構造を強くすることによって、いっそう起爆力をもてたのではないか。
決して構造を扱うことが苦手な作家ではない。本来はうますぎるくらいに達者な作家だから、作品数の少なさが惜しいのだ。ほとんどが旧作の焼き直しという彼の上演スタイルは、宝の持ち腐れだったと言えないか。

もうひとつ残念なのは、彼が「一回性の演劇」にこだわって、映像を残さなかったことだ。
三十年とすこし前、はじめて『熱海殺人事件』と『初級革命講座飛龍伝』を観たときの鮮烈な印象と感動は今でもはっきりと憶えている。しかし記憶にだけ残っていて、映像で二度と観られないことはあまりにも寂しい。
つかさんの作品に限らず、当時、「一回性の演劇」という流行のフレーズのために、多くの優れた舞台が映像化の機会を逃してしまった気がする。 
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平田オリザ作・演出、青年団の『ソウル市民』五部作を2日間で一気に観た。
青年団ははじめて観たけれど、俳優の平均的技量というか…、いや、ミニマムの水準が高いことに仰天した。
しかしもっと驚いたのは平田さんの作劇術である。

演劇でも映画でも、カリカチュアライズされた喜劇的人物はときどき登場する。かれは自分の愚かさに気づいていない。

しかし、平田さんの劇世界では、すべての登場人物がこれなのだ。

だから、俳優がうまければうまいほど喜劇生と批評性がきわだち、俺たちが笑えば笑うほど、その笑いは自分にはねかえってくる。
歴史のその瞬間に居合わせたとしたら、俺たちも同じ喜劇的人物となり、民族差別を口にし、妾の子を侮辱していたかもしれないのだ。
笑い転げながらも、つねに自分の立ち位置を見つめ直させられる、スリリングな経験だ。 
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Author:盛々夏野菜

男性、既婚、事務系サラリーマン。
現代思想フェチだが、本を読むのが遅いのであまり多くは読めない。地底人生活を経て現在は臨床心理に関心がある。新鮮な胡瓜が好き。
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