きゅうり

 

盛々夏野菜のハードエッセイ & ショートストーリー 【思想、心理、書評、劇評、感想、あらすじ】
 

 

 
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 

 

 

 

 
遠近両用メガネの装用とともに、俺の視力はいまだかつて経験したことのない新しい境地に入る。

(1)視野の全体がクリアに見えるということはもはやなく、ぼんやりとしか見えないことに甘んじなくてはらない部分(とくに斜め方向)がある。しかしそれは「正面遠方」と「正面下方」を重視して設計された遠近両用メガネというものの特性なのだ。むしろ俺はこの日から別の生物の視力を手に入れるといっていい。斜め方向をクリアに見るという、実用的にはさして意味のない能力の喪失を嘆くよりも、新しい視力に早く適応し、その可能性を十分にひきだすことに集中するほうがいいだろう。

(2)単焦点レンズでは、変化するものは対象物の位置だけであった。しかし遠近両用レンズは度数が累進的に変化するから、変数(変化するもの)が二つになる。つまり「対象物の位置の変化」と「レンズ上の部位による度数の変化」だ。俺は、自由に位置を変える対象物を、レンズ上のさまざまな部位を透して見る。こうして二つの変数の相互作用による見え方の変化には無限のバリエーションが存在することとなり、日常の経験から類推できる範囲を超えてしまう。

(3)上記(2)の現象をいっそう強烈に認識させられるのは、二本目の遠近両用メガネに替えたときであろう。遠近両用メガネをつくりなおす場合、十中八九、加入度数が増すはずであるが、それは、度数変化のグラデーションのカーブがきつくなるということでもある。グラデーションのカーブがゆるいときは書物の活字に焦点の合う視野は比較的広かったが、カーブがきつくなるとその視野は一気に狭くなる。こうして、一本目の経験にもとづく「こう見えるはずだ」という予断がまったく役に立たなくなる。光学に疎い者は、へたな予断をもって結局失望に至るよりも、知的努力によって視覚の変化を馴致しようとするのをやめ、この新しい視力が実際に世界をどう見せてくれるかを、自分の身体によって一から体験しなおすほうが賢明であろう。 
スポンサーサイト
テーマ * 心の持ち方 ジャンル * 心と身体

 

 

 

 
靴

俺としては最近ようやく理解に至ったのであるが、靴のフィッティングにとって最も重要なポジションは、つま先でも紐でもなくて、図の網点で示した部位であるようだ。
つたない図でわかりにくいが、断面はカマボコ型をしている。

では今回のブログの最初の仕事として、この部位に名前をつけておきたい。以下の記述で何度も言及することになるからだ。
対応する専門用語があるのかもしれないが、不勉強にして知らないので、カマボコのKを取って仮に「Kスポット」と名づけておく。
このネーミングには実は問題がある。「スポット」と言えば「点」のことだが、ここで言う「Kスポット」は「面」だからだ。しかも「面」といっても平面的な「面」ではなく、帯状で、中が空洞の「面」である。ヘアバンドの髪に触れている面をイメージしてもらえばいい。
しかし、フィッティングに際してこの部位が果たす機能的役割を重視し、ここでは「スポット」で押し通す。

ところで、人間の足先は「厚み」の方向でも「幅」の方向でも「先細り」の形状をしている(厳密にはそうではないかもしれない。ここでは「傾向として」先細りの形状であると理解していただきたい)。
「厚み」の方向では、足の甲からつま先にかけて「厚み」が減少してゆく「くさび形」である。
「幅」の方向では、「母趾の付け根、その先端、そして第二趾の先端を結ぶ、わずかに傾斜した辺」と、「小趾の付け根から先端に向かう傾斜のラインと、その延長線上に位置する第四趾、第三趾、第二趾の先端を結んだ辺」が、第二趾の先端を頂点とする「不等辺三角形」を形成する。
これら二つの方向が合わさって、足先は三次元的に先細ってゆく。

さて、靴の形状も足と同じ「先細り」であるから、靴に足を挿入して先へ先へと進めるとき、「母趾の付け根から足の甲を通って小趾の付け根へと至り、さらに足裏を経由して母趾の付け根へと戻る帯状の部分」が、靴の内側の革とインソールの形成する帯状の面に接して止まり、それ以上前へ進めなくなるポジションがある。これが「Kスポット」なのだ。
ここでとりわけ重要な事実は、靴と足が「点」でも「線」でもなく、「面」で接触していることだ。もし点や線で接触していたら、強い圧力がかかり、長い時間の間には激痛を発するだろう。

そして、足の前進運動が(靴の先端ではなく)「Kスポット」で止まった状態で、踵がカウンター(踵部分の革)に接して安定していれば、それがフィットした靴である。踵とカウンターの間に空間があれば「ゆるい靴」であり、「Kスポット」とカウンターの間に足が挟まれて痛みを発すれば「きつい靴」というわけである。

こういうわけで、「靴の先端部位」は、靴のサイズを語る上で重要でない。靴の中における「足の先端」の位置は、上記の部分が「Kスポット」に接して止まったときに「つま先」のある位置として二次的に定義され、「靴の先端部位」の位置や形状に制約されない。もちろん、「Kスポットに接した部分から先」が十分収まるだけの余裕は必要である。

とはいえ、「靴のサイズおよび形状」と「足のサイズおよび形状」の組み合わせは無限にあり、たとえ同じ靴でも履く人が変われば「Kスポット」の部位(靴側)も「Kスポットに接する部分」(足側)も前後に移動する。「靴のサイズ」の決定因子(Kスポット)が、個々の足と出会うまでは決定されない。ここが「靴の科学」のわかりにくさなのだ。

さて、以上を踏まえて「紐付きシューズ」について簡単に考察する。
紐付きシューズの紐を締めつけると、断面の輪(カマボコ)が小さくなる。よって、足を入れて前へ前へと進めるとき、紐をゆるめた場合よりも早く足は止まる。「Kスポット」が後方(踵方向)に移動したわけだ。
こうして「Kスポット」とカウンターの間の距離が短くなり、足は前後に挟まれるので「きつい靴」になる。
したがって、靴のサイズを十分に活かすためには次のようにすればいい。

1.紐(特に最もつま先寄りの紐)を十分にゆるめる。このとき、最もつま先寄りの紐はU字型に直立している。

2.両手を靴の中に入れ、左右に開いてゆく。ただし無理な力は加えぬこと(革自体が伸びるのではなく、紐がスライドすることによって靴が左右に開くように)。そして、最もつま先寄りの紐が平らになる(または平らに近くなる)ように意識する。

3.靴に足を入れる。

4.つま先寄りの紐から順に締めつけてゆく。

5.最後の結び目を作るところは、甲が痛みを発しないように、靴(甲)から少し浮かせた状態で結ぶことができればなおよい。

6.紐の締めつけ圧力による甲の痛みを防止するには、脱ぎ・履きのたびに紐を結び直すのではなく、紐は結びっ放しがいいと思う。紐の締めつけ圧力は線状の力であり、痛みの原因となりうるが、靴を脱ぐ瞬間や履く瞬間にかすかに革が伸びて、線状の圧力が面に解消されるのだ。せっかく痛みの原因が解消されたのだから、わざわざ紐を結び直し、線状の圧力をかけなおす必要はない。

ところで、この理屈で行くと大きめの靴でも紐で調節が可能な気がするが、それはおすすめしない。紐の力で狭められた輪(カマボコ)は弱い。足の前に進もうとする力が持続的にかかれば、突破されてしまい、踵に隙間が空いてしまう。逆に、突破されないほどに強く紐を締めつけると、足の甲が痛くて耐えられなくなる。結局のところ、適正サイズの靴を選ぶことが重要なのだ。 

 

 

 

 
先週、はじめての遠近両用メガネを買った。
目下ならしている最中で、「ならし期間」につきものの眼の奥のこり、首こり、吐き気の症状がある。
一、二週間、あるいは、長くとも一か月ですっかりなれて、これらの症状は解消し、快適に過ごせるようになると思う。

メガネ

こういう現象は遠近両用メガネに限らない。
メガネを変えるたびに「ならし期間」は必要らしく、その間、多少なりとも上記の症状が出ることはさけられない。
しかし、そうは言っても苦しいものは苦しい。苦しくて、元のメガネに戻したいほどだが、新しいメガネを作るにいたった自分の決断は無駄にしたくない。お金もかかっている。
この「ならし期間」をもう少し楽にすごす手だてはないものだろうか?
ないならば、せめてこの不可解で理不尽な苦痛がもう少し理解可能にならないだろうか?
メガネをかけただけで気分まで滅入ってくるのはたえられないから。

大きな混乱の理由は、上記の症状の背後に2つの原因系が存在していることだと思う。それらが輻輳して症状を形成するために、症状の発生機構をイメージすることがいっそう困難になる。納得がいかないから余計にたえがたくなるのだ。

以下は擬似学術的、擬似医学的な記述となり、まったく正確ではないが、専門家の方はご寛恕ねがいたい。

ひとつは視覚系である。レンズが変わったことと、レンズと目の間の距離が変わったことによって以前とは異なる形で入ってくる光学的刺激を正しく処理するため、視覚器官だけではなく、脳・神経系のさまざまな部位が動員されるのであろう。
脳には光学的刺激を視覚像におきかえる巨大な翻訳装置(ただし無形の)があると思う。この装置は、視覚器官から送られてくる情報や、他の感覚器官から送られてくる補正情報にもとづいて、「前のメガネに最適化された翻訳パラメータの束」に新しいパラメータの群れを上書きしていく。それらのパラメータによって翻訳装置を試運転し、結果をふまえて微調整を行なう。試運転を繰り返して完成形に近づけていく。
これだけの複雑精妙な作業を脳・神経系に強いているとすれば、多少の倦怠感がつづいても不思議はないかもしれない。
また、試運転中は不完全な翻訳機能を視覚装置の側で補ってやらねばならない場面がいくらもあるだろう。たとえば、パラメータの感度が高すぎるときはどこかの部位の緊張を強めて入力を弱くしたり、低すぎるときは緊張を弱めて入力を強化するなどである。こういう作業が何時間も何日もつづくならば、目の疲労や首こり、吐き気も理解できる気がする。
また、メガネを変えてから日が浅ければ浅いほど、翻訳機能は不完全で、前のメガネのそれをひきずっているから、光学的刺激と自我が欲している視覚像との間のギャップが大きく、各部位に負荷がかかり、苦痛が強いのも無理はあるまい。

もうひとつは筋肉系である。フレームを変えたことにより、耳、鼻、後頭部にかかる締め付け圧力の地図が変化し、未開拓の筋肉部位がこの圧力に過敏に反応して痛みを発するのであろう。
筋肉に結びついた神経系が、この圧力には危険がないことを学習し、緊張を解くまでにはそれなりの日数がかかるだろう。
それまでの間、圧力を受けている部位に近い首の痛みや頭痛が出たり、それらが胃に影響して吐き気をひきおこすことは当然かもしれない。

最後に、視覚系のトピックに注をつけておきたい。
「前のメガネに最適化された翻訳パラメータの束」は新しいパラメータ群によって上書きされると述べた。しかしほんとうにそれだけなのか?
その「前のメガネに最適化された翻訳パラメータの束」は、どこか別の領域に保存されるのではないだろうか?
そう考えなければ、メガネのかけかえが可能な理由を説明できない。
どこかにリフィルとして保存され、必要に応じて呼び出し、差し替えられるのでなければ、メガネのかけかえは可能にならない。というか、メガネをかけかえるたびに一週間から一か月の「ならし期間」が必要となり、その間苦痛にたえなければならないことになる。
おそらく、脳の記憶領域には自我の体験(コンピュータでいえばテキストにたとえることができる)だけが保存されているわけではなくて、こういうバイナリ情報も無数に保存されている。

(2011年9月3日に投稿した記事を全面的に改稿) 

 

 

*Template By-MoMo.ka* Copyright © 2017 まず深呼吸、一歩引いて気楽に行こう, all rights reserved.

盛々夏野菜

Author:盛々夏野菜

男性、既婚、事務系サラリーマン。
現代思想フェチだが、本を読むのが遅いのであまり多くは読めない。地底人生活を経て現在は臨床心理に関心がある。新鮮な胡瓜が好き。
VBA Expert Standard Crown
VBA Expert Standard Crown

未分類 (1)
思想とメンタルヘルス (34)
シアター (8)
シネマ (0)
ミュージック (4)
デジタル (2)
自分を苦しめない暮らしかた (19)
全体は部分に優先する (9)
高橋和巳 (3)
アラン『幸福論』 (2)
自我の二重化という手法 (2)
鄭義信 (8)
浜田麻里 (4)
外国文学 (1)
日本文学 (10)
政治 (9)
マスコミ (3)
疑似科学・擬似医学 (3)
石原加受子 (2)
掌編小説 (7)

 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。