きゅうり

 

盛々夏野菜のハードエッセイ & ショートストーリー 【思想、心理、書評、劇評、感想、あらすじ】
 

 

 
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俺は眼精疲労とのつきあいが長いのだが、特効薬はないし、寝ても癒らないし、一度患うと一週間は消えない厄介なやつだ。それが、本書のワークを実行したら数分で消えたのだ。

やりかたはこうだ。仰向けに寝そべり、手の人差し指、中指、薬指をそろえ、その三本指の腹のあたりで、まぶたの上から眼球に触れる(「固まっている筋肉のゆるめ方」33ページ)。たったこれだけなのだが、数分つづけると眼筋が芯からゆるんでくる。信じられないかもしれないがそうなるのだ。

いちおう理屈を述べれば、指で触れる行為が生体センサーを活性化させるので、緊張(凝り)の情報が滞りなく脳に伝達され、脳は遅ればせながら対処に動き出す(緊張をとく指令を出す)というわけ。理にかなっている。むりに揉みほぐそうとすれば、身体は反動によってかえって緊張するだけだからな。

次に、眼精疲労にならない技術である。PCの作業をするとき、ディスプレイ上の情報を「捉えよう」とするのではなく、「受け取る」ように見ればいい(「楽に目を使う方法・その2」126ページ)(注1)。これを実行してみて、俺は「目を凝らす」ことがなくなったし、文字情報を正確に得ようとしてディスプレイに顔を近づけることもなくなった。今では、まったく疲労しないというわけにはいかないけれども、対処可能な範囲の疲労になっている。

本書はこのように即効性のあるテクニックが満載であり、ミリオンセラーにならないのが不思議なほどである。疲れを取り、疲れを予防することがこれほど簡単なんて。藤本さんの施術者としての経験と、探究心の賜物であろう。一家に一冊、必携の書だ。俺は本書によって、健康に生きる自信を手に入れたと言ってもいい。

本書の中にふんだんに盛られたワークがどれも強力な効能を発揮する秘密は、著者・藤本さんによる、現代人のストレスと身体との関係についての深い洞察である。見たくないものを見つづけ、聞きたくない話を聞かされ、嗅ぎたくないにおいをかぎ、言いたいことをガマンさせられる現代人は、自己防衛のため必然的に目、耳、鼻、口を緊張させる。しかし裏を返せば、これら感覚器官に由来する疲れは、感覚器官そのものに働きかけるワークによって解消可能だし、一方では、感覚器官のしなやかな使い方をおぼえることによって、不快な刺激を侵入させず、したがって疲れをためずにいることも可能なのだ。

本書のシャープな記述が頂点に達するのは「痛み」の考察であろう。俺は「痛み」の対処についての考え方を百八十度転換させられた。つまり、「痛み」が生じたとき、われわれは当然ながら痛みの部位に意識をフォーカスし、それへの対処を考えようとする。たとえば痛み止めをのむとか、もみほぐすとか。しかしそれが大きな間違いだと藤本さんは述べている。われわれは痛みを感じるとその部分を全体から切り離して、健康な部分を守ろうとするが、それは、せっかく身体という大きな鍋があるのに、その鍋にわざわざ仕切りを入れ、狭いスペースに具材(痛み)を押し込んで調理するようなものだ。その狭いスペースに感覚が集中するので、調理しきれなくなり、痛みはいっそう手に負えなくなる。こういう場合は、仕切りを外して、鍋(身体)全体の大きな調理スペースがあることを思い出すだけでいい(「部分的な痛みや違和感が全身を覆う理由」102ページ)。鍋全体で受けとめれば、調理可能であることは自明の理だからだ。
この後は、鍋(身体)全体を思い出すワークの具体的な記述がつづく。しかし、上記の事実が理解できてしまえば、痛みの問題はワークを実行する前に解決してしまうこともあり得るだろう。「痛み」の強さが、症状の深刻さではなく、対処のまずさ(痛みの部位に感覚を集中させること)を表現しているだけだということが分かれば、あとはただその痛みを「やりすごす」だけで十分かもしれないからだ。もちろん、外傷とか臓器の損傷のように痛みの原因が明確な場合は別だ。

そうだ、これも言っておかなきゃ。本書のガイドにしたがって目、耳、鼻、口を上手に使えば、疲れ知らずの身体が手に入ることになっているが、それでも全身がガチガチに固まってどうにもならないこともあるだろう。本書はこういう場合の処方箋として究極のワークを用意している(「それでも疲れてしまったときにすること」137ページ)。椅子にかけ、両目で左耳を見るように意識すると、頭が左方向に回転していき、これにともなって背骨がねじれていく。この現象を利用し、決して無理な力を加えることなく、完全に後ろを振り返る状態になるまで背骨をねじってみよう(何度かくりかえしながら、すこしずつねじれの深さを増していくとよい)。この「ねじれ」が筋肉の凝りを巻き込んで伸ばしていき、左半身が芯からほぐれていく。もちろん左が済んだら右も同様に行おう。

最後の第4章「自分の軸のつくり方」では、「身体技法」と「催眠ワーク」が重なりあう領域へと果敢に分け入っていく。
(1)3人の司令官(頭の中の司令官、胸の中の司令官、腹の中の司令官)をつくるワークであるが、これらは順に、脳のレベル、スピリチュアルレベル、身体レベルと理解しておけば大きな間違いではあるまい。3つの中でおそらく日本人にとって一番大切なのは「胸の司令官をつくる」(「「胸」の中の司令官」174ページ)ワークであろう。不安や不満のためにキューっとつまってしまった胸の空間を取り戻し、自分の軸をつくるワークだ。俺は今のところあまりうまくできないのだけれど。
(2)他者との間の距離感を感じるワーク。他者と私の間に「つっかい棒」が介在しているイメージをもつと、心理的な距離感も保つことができる。

(レビュー終わり)

最後に本書の形式的な難点を二つ指摘しておく。もっとも内容は申し分ないので、そこは誤解のないように。
(1)造本が悪い。用紙が厚くて固く、ページがすぐ閉じてしまい、開いておくのに苦労する。特に本を見ながら実行するワークが多いので問題なのだ。そこで俺は本書の全ページにしっかり開き癖をつけ、書見台を使って読むことにした。
(2)独特のフォントを使用していて、内容がすっと頭に入ってこない(美しいフォントなのだけれど)。しかし本書は電子書籍にもなっている。こっちなら馴染みのフォントで読めるわけだ。俺は愛用のiPhone + Kinoppyで読んだらすっと頭に入った。なお、電子書籍ならば造本の問題もないのでお勧めである。

(注1)俺の場合、「目を楽に使う方法・その3」の「トンボの目で見る」はうまく行かなかった。かえって目が疲れてしまって。

「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!
(2012/07/03)
藤本 靖

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テーマ * 健康 ジャンル * ヘルス・ダイエット

 

 

 

 
先日、かねてから念願だったNLPプラクティショナーコース(NLPセラピストアカデミー・かおり特別クラス・8日間)を無事修了することができた。
このクラスによって、俺は無限大のリソースを手に入れた。
その一部だけでも知っていただきたいので、トレーナーに送ったアンケート回答の全文を引用しておく。

なお、このスクールでは、現在、次回クラスの受講生を募集中だ。
興味をもたれた方は、

公式サイト
http://ameblo.jp/moon-usagi-kaorin/

を訪問していただき、できれば

きっかけレッスン
http://ameblo.jp/moon-usagi-kaorin/entry-11830674001.html

だけでも受けてみてはいかがだろうか。

以下 私のアンケート回答全文。

1.どうしてNLPプラクティショナーコースを受講しようと思いましたか?

こころの中に多くの未解決な問題があるらしく、生きづらさを感じていました。こうしてさまざまな心理学の本を読みあさるうちに、NLPのワーク「6ステップ・リフレーム」についての記述をみつけ、実行してみたところ効果てきめんでした。
この体験は強烈だったので、「私の癒しの道はNLPしかない」と確信しましたが、本を見ながら一人で実行することには限界を感じていました。それでNLPセラピーについての情報をさがしましたが、検索エンジンにヒットするのはNLPの「ビジネススキル」としての側面や、「コミュニケーションツール」としての側面に焦点をあてた講座の情報がほとんどでした。
そんなときでした。「自らの癒し手になる」ことをゴールにしている、かおりトレーナーの講座を見つけたのは。そして私にも参加可能な、日曜クラスの開講が告知されたとき、迷わず参加を申し込みました。


2.NLPプラクティショナーコースを受講して、どのような成果が得られましたか?

かおりトレーナーは、つねに学ぶ者の視点からクラスの運営を構想し、「教え方」についても研究をおこたらない、職人気質のプロフェッショナルです。教科書的な通り一遍の説明でなく、要点をさまざまに言い換え、繰り返すことによって、NLPの真髄を体感させてくれました。

得られた成果は、「こころの危機」「こころの苦しさ」に対するさまざまな対処法が身についたことです(具体的には3.で述べます)。

それと、これはかおりクラス最大の特徴だと思うのですが、「ノンジャッジ(判断しない)」と「相手の力を信じる」姿勢を、理論でも実践でも徹底的にたたき込まれたことです。それは、この姿勢がNLPの原点であり、これなくして自分の変化も相手の変化もありえないという考えにもとづいています。こうして、日常では決して体験できない「安全な空間」を空気のように体験するという稀有な経験をつみ、自分を信じて生きるための確固とした地盤を築くことができました。また共に学んだ仲間たちとは深い絆ができました。互いの存在が「パワーアンカー」になったといっても過言ではありません。


3.プラク(注1)の中で、特に自分自身に影響のあったワークや、楽しかったワークはどんなワークでしたか?他どんな時間が励みになりましたか?

・「サブモダリティ変換」によって、こころの危機を一瞬で回避する方法を学びました。たとえば「アソシエイト」と「ディソシエイト」を交換するだけで気分が劇的に変化すること。

・自分を苦しめている「こころの葛藤」を解決するため、葛藤を起こしている思考のひとつひとつを、形ある存在として生き生きと体感し、擬人法的にその存在の声を聴く「パーツセラピー」(「ビジュアルスカッシュ」や「6ステップ・リフレーム」)。劇的な効果をもたらす、この最強ワークを自分で取り組めるようになりました。

・「アソシエイト傾向かディソシエイト傾向か」を横軸とし、「チャンクアップ傾向かチャンクダウン傾向か」を縦軸とする2次元のグラフによって、自分の思考の癖と、NLPの各種ワークの中で得意・不得意のある理由が理解できました。こうして自分の長所を伸ばし弱点を補強するにはどうすればよいかが具体的にイメージできるようになりました。

・「ポジション・チェンジ」のワークで「関係を改善したい相手」の役になりきり、相手のしぐさを真似てみたところ、まったく想像もしていなかったことを口走っている自分に気がつきました。こうして私の抱いていた「恐れ」は杞憂にすぎず、そもそも関係はさほど悪くなかったことが理解できました。

・自分には絶対無理と思っていたトランス誘導が、アルゴリズムのとおりに実行すれば簡単にできることがわかりました。また自分自身、深いトランスに入る経験もできました。


4.もしこのクラスを誰かにお勧めするとするとどんな方におすすめできますか?

自分のこころの中の未解決な問題に取り組む準備ができた人。こころから「変わりたい」と願っている人。


5.今後のリクエストなどなにかありますか?

かおりトレーナーは、
・ワークがうまくいかないときは状況を打開するためのヒントを必ず提示してくれるので、すべてのワークを途中で手放すことなく実行することができます。
・折にふれてワークの意外な応用法についても話してくれます。
・理論の例外についても丁寧に解説してくれます。

これらは、NLPを深く理解しているトレーナーにしかできない職人芸ですが、クラスの中ではどちらかといえば余談として、駆け足で通り過ぎる部分であり、筆記の間に合わないことが多いのです。しかし市販の書籍からは決して得られない深い領域に入っていく知識であり、受講生にとってはとてつもなく大切だったりします。トレーナー自身、準備して話していることではないかもしれませんが、できればすこしずつでもテキストに盛り込んでほしいと思います。

(注1)「プラクティショナーコース」の略

 
テーマ * スクール ジャンル * 学問・文化・芸術

 

 

 

 
昨年から読書ペースがめっきり落ちてしまった。作文をライフワークと考えている俺にとって読書は栄養補給であると同時に精神の鍛錬でもあるから、これはぬきさしならない問題だった。原因はわかっていた。

<問題1>

ひとつは年齢からくる視力の衰えだ。俺は電車通勤族だから、以前は一時間の通勤時間をまるごと読書にあてることができた。しかしこの一、二年、電車内の暗い照明で本を読むとひどい眼精疲労で健康を害するほどになり、電車内の読書は断念せざるをえなくなった。三・一一以降、車内の蛍光管が一本おきに抜きとられ、照度が低下したことが影響しているかもしれない。

<問題2>

もうひとつは難解本だ。わが読書の主力は人文書と文学書のいずれも翻訳で、なぜか難解本が多い。どうも俺には小難しいのを好む性癖があるようだ。多少とっつきにくくても、丁寧な訳業でさえあればどうにか読みこなせると思うのだが、問題は、訳語の選択に窮したまま放置された箇所のある翻訳なのだ。これには、その著作にたいする研究が十分にすすんでいなくて、訳者がいくら努力しても正しい読みを提示しえないという不可抗力的なケースと、出版社や訳者の都合により時間切れで推敲が打ち切られた確信犯的なケースがあるようだ。どちらの場合も疑問の箇所を直訳に近い形で放りだしてあり、俺は他の訳文との脈絡をつけようとして奮闘するが、訳者にも見いだせなかった脈絡が俺に見つけられるわけはなく、やがて集中力が切れてしまい、睡魔におそわれたり、気晴らしのためネット閲覧にふけるようになる。こうしてふたたびその本にとりかかるまでには一時間かかったり、一日かかったり、一週間かかったり、場合によってはそのまま読まなくなってしまう。


しかし実をいうと、現在の俺はこれらの問題をなかば解決してしまったのである。以下ではその経過を述べてみたい。

<問題1の解決 iPhone>

最初のほうは照明が問題だったから、ライトつきの電子書籍をためしてみようと思いたち、Kindle Paperwhiteを導入した。しかしドットの粗さと照明ムラによって余分な視覚情報が入ってきて、文字を追う作業の障害になるため、俺は集中して読むことができなかった。次に携帯用の読書灯を持ち歩き、紙の本を読もうとして各種の商品を試したが、携帯用の光源で十分な明るさが得られることはなかった。

こうしてやはり通勤時間の読書はできないものとあきらめていたのだが、それが携帯電話をiPhoneにしたら一気に解決したのである。iPhone標準の「ヒラギノ明朝」書体は癖がなくて、電子書籍専用端末の書体と比較しても断然読みやすい。ディスプレイの解像度は申し分なく、文字の輪郭がなめらかで紙の本とくらべても遜色がない。しかも俺が選んだ電子書籍アプリ=Kinoppyでは、文字の倍率が無断階で調整できるので、俺の視力に最適化した文字サイズで読むことができる。ゆいいつ気になっていたのは、iPhoneの光源はバックライトだからLEDの照明が液晶パネルを透して直接目に入るという点だった(これにたいして、専用端末はフロントライトで目にやさしいと言われている)。たしかに使い始めの頃は目の疲労が気になったが、これはブルーライトカット仕様の黄色っぽいフィルムを貼ることで解決した。そしてなんと、俺はこのiPhone+Kinoppyの組み合わせにより、今年一月中の職場への往復時間だけで、半藤一利『昭和史 1926-1945』『昭和史 戦後篇 1945-1989』の二冊を読破したのだ。二冊あわせ、原著で一千ページ超のボリュームである。

<問題2の解決 NLP>

さて、あとのほうの「難解箇所で集中力が切れる」問題については、要するに割りきって先へ進むことができればよいのだが、その「割り切る」という行為、断層を跳びこえる「決断」こそが困難なのだった。そこで、NLPのセミナーで習いたての「8フレーム・アウトカム」を試してみることにした。NLPの凄いところは、レシピのとおりにワークをすすめると、絶対に解決不可能と思っていた問題を解決するためのリソースを自分がもっていたことに気づくところなのだ。別の言いかたをすると、NLPは抵抗をコントロールするテクニックの宝庫なので、重要性は認識していながらも内的な葛藤(抵抗)のために手をつけられずにいた問題が、解決に向けて動き出すようなのだ。ところで、俺はNLPのレシピが効果的であることを多少は体験的に知っているけれども、レシピの意味は理解していないため解説することができない。だからワークの詳細については省略する。

今回俺が「8フレーム・アウトカム」のワークから引きだした解決策はこうだった。
(1)これから読もうとする章の最終ページに、上へはみ出すように付箋を貼る。
(2)そのページを読み終える目標時刻を、付箋のはみ出した部分に書き込む。ただし十分余裕をもった時刻とする。たとえば一ページあたり二分の計算とし、端数を三十分単位で切り上げた時刻だ。
(3)文字盤の大きな時計を机に置いて読みはじめる(ただし俺は手頃な時計をもっていないので、PCのデスクトップ時計アプリで代用する)。

こうして俺は、1巻から3巻まで読むのに三か月かかっていた『ジロドゥ戯曲全集』の4、5巻を、わずか三日間で読むことに成功したのだ。それで、上記の解決策のどこがよかったのか考えてみた。

若いころ、形だけの速読、つまり目で文字を追う速さだけをひたすら追求する読みかた(したがって内容はまったく頭に入らない)によって膨大な時間を棒に振った苦い経験から、俺は「ゆっくり読むことだけが正しい」という信念を抱くにいたった。こうして、「割りきって」先に進むとか、終わりの時刻を決めるという考えは、この悪しき速読の経験を呼びおこし、強い抵抗をひきおこすようになった。

しかし上記のワークの結果、俺は時間を区切る(終わりの時刻を決める)方法を積極的に評価する気になった。時間を区切っても、目標とする時刻が十分に遅ければ速読の強制にはならない。また時間の刻みを細かくし、一冊ではなく一章ごとに目標時刻を設けることによって、ゴールが見えやすくなり、一大決心をする必要がなくなる。これをやってみて、俺は自分に二時間で五十ページ読む能力があるという当然の事実を、いまさらのように思い出した。さらに、時間を区切る方法には嬉しい特典がついてくるという発見があった。それは目標時刻より早く予定の箇所まで到達したとき、残りの時間を自由に使えることだ。これはノルマに縛られない至福の時間であって、ボーっとしてもいいし、音楽を聞いてもいいし、読書をすこし先に進めるのに使ってもいい。つまり、読書の能率をアップさせる工夫を実行にうつすことによって、俺は同時に、読書中心のわが人生に読書とは別の価値を挿入たり、あるいはまったく反対に、読書生活をいっそう研ぎ澄ますことがきるわけだ。しかも、もともと目標時刻を遅めに設定しているから、たいていの場合はこの特典が手に入ることになっている。

なお、「付箋に書かれた時刻」と「机の上の時計」という演出は、「時間の区切り」に身を任せてみるというしなやかな決意を、視覚の側から後押しする仕掛けであった。 
テーマ * 心の持ち方 ジャンル * 心と身体

 

 

 

 
予想外のできごとが不意打ち的に起こった場合、しかもそれが嬉しいできごとであるほど、金縛りにあって適切な行動が取れなくなってしまうことがある。そういう場合、俺は目の前で進行しているできごとの意味が把握できず、嬉しいできごととして認識できていない。現象に多義性があって、解釈の幅があるほどそうなる。後で冷静になり、現象の全体を眺めれば「これしかない」とわかるのだが、目の前で現象が進行している現場では、その各パートに過度に注目してしまい、全体像を見失っている。思うに、俺には自己信頼が不足しているのだろう。それでとっさに「そういう幸福は俺に値しない」と考えてしまう。「だから、そんなことが俺に起こるわけはない」と。こうして、一見否定的と見える(注1)パートにひきずられて解釈に失敗する。

こういう事態の対処法は、予定調和を信じること、つまり「世界は俺に最適化されている」と信じることなのだ。それは精神的に健康であるための基本であろう。数年前の俺にはとてもできなかったけれど、今の俺にとってはたやすいことだ。だからもうすこし。今よりもうすこし強く、俺が自分のことを信じられるようになれば、形勢は一気に逆転し、無意味に後ろ髪引かれることなく、適切に行動できるようになるだろう。

(注1)俺には主観的にそう見えるということであって、現象の側には責任はない。 
テーマ * 心の持ち方 ジャンル * 心と身体

 

 

 

 
ブルース・フィンク著『後期ラカン入門』(人文書院)の発売が予定の9月6日より少し遅れていた(注1)ので、その間、同じ著者の『ラカン派精神分析入門』(誠信書房)の一部(三~五章)を読み返していた。明晰にして丁寧な解説を特徴とする、ラカンの入門としては右に出るもののない名著であるが、ラカンの主張自体が複雑きわまるのだから、そう簡単に頭に入るというわけにはいかなかった。しかし昨日『後期ラカン入門』が届き、早速開いてみると、序文の中でラカンの仕事が素描されていて、さすがはブルース、臨床に軸足をおき、難解語の実践的な意味を少ない字数で明晰に述べている。俺はその部分を読んですこし展望が開けた気がしたのだ。そこで、俺の現時点におけるラカン理解を簡潔に整理してみたい。『後期…』の本文を読み進める前に、俺としてはいったんこういう作業を経由しておくことが必要と思ったのだ。でははじめよう。


有名な「人間の欲望は他者の欲望である」という命題の意味は、人間は自分の(無意識的)欲望をもって生まれてくるのではなく、他者(大文字の他者A)つまり両親の欲望を植えつけられることによってはじめて欲望をもつ存在になるということだ。私の欲望に私は主体的にかかわることができず、他者から一方的に押しつけられるのだ。こういう存在のあり方が「疎外」。反対に「疎外」の解消、すなわち「他者の欲望」からの離脱が「分離」だ。そして、この「疎外」という不安定な存在様式は思春期以後に「神経症」という名の問題をひきおこす(たとえば自由を望みながらも自由を追求できない自縄自縛におちいる)。そしてそこには、私に自分の欲望を押しつけ、私の主体性を不当に奪い、不本意な境遇にいたらしめた(たとえば私の自由を制限した)他者つまり両親への強い怒りがともなっている(注2)。もっとも、他者から欲望を植えつけられない限り、そもそも私は欲望をもつにはいたらない、言いかえれば人間になることができないのだが。

ところで、他者つまり両親は、無力な幼少時代の私にとって、私の生殺与奪をにぎっている一方で、強烈な愛情によって私をのみこんでしまいかねない危険な存在でもある。したがって「他者の欲望」と正面から向き合うことはトラウマ的であり、私はそれに耐えられない。「他者の欲望」とのこのトラウマ的な出会いを「享楽」といい、私はやがてこれに直面するのを避けるために「幻想」(たとえば際限のない強烈な自由ではなく、制限された自由に甘んじる幻想)を生み出し、これと表裏一体の関係にある「神経症」を病むことになる。

ラカン派のキーワードというべき「対象a」については、まず、対象という名称にもかかわらず「欲望の原因」を指していることを言っておかなければならない(注3)。次に、この概念がいかなる技術的な要請によって導入されたかを押さえておかないと、見かけ上の多義性にめまいがして混迷におちいることになる。「対象a」とは、精神分析において分析家が占める立ち位置なのだ。ラカンによれば、被分析者は、毎度のセッションで自分の夢や願望を分析家に報告しているうち、やがて、自分が夢や願望を生みだすのは分析家に話すためだと感じるようになる。要するに分析家は「欲望の原因」とみなされるのだ。こうして「転移」が起こる。かれ(被分析者)は自分の欲望の中に住みついてしまった(注4)分析家の存在に耐えられなくなり、主体性を取り戻すための抵抗をはじめる。つまり、分析家を権威的人物(大文字の他者A)とみなし、機嫌をとって懐柔しようとしたり、想像的ライバル(小文字の他者a’)とみなして攻撃を加えたりする。しかしここで、分析家はかれの挑発に応じて権威的人物としてふるまったり、想像的ライバルとしてふるまってはならない。人格をもたない空虚な「対象a」としてふるまい、かれの不満の内容をひたすら言語化させることにつとめなければならない。するとかれは自分の挑発が必ずしも功を奏しないことを理解し、それにともなって、かれが(分析家に代表される)他者にたいして抱いていた固定観念(≒幻想)も変更(横断?)を余儀なくされる(たとえば、「他者が私の自由を制限している」という考えは、「自由の制限を望んだのは実は自分だった」という考えに変わるかもしれない)。やがてかれが欲望を主体化(他者から押しつけられた欲望を、自分自身が望んだものとして引きうけなおすこと)することに成功するならば、そのとき、かれは不合理な思考や行為を自分の意志でやめることができるようになるだろう。

(注1)結局9月12日か13日に書店に並んだようだ。
(注2)この怒りは意識されていることもされていないこともある。
(注3)そして欲望の原因は「他者の欲望」なのだから、対象aは「他者の欲望」でもある。
(注4)もちろんそれはかれの被害妄想にすぎない。

ラカン派精神分析入門―理論と技法ラカン派精神分析入門―理論と技法
(2008/06)
ブルース フィンク

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後期ラカン入門: ラカン的主体について後期ラカン入門: ラカン的主体について
(2013/09/06)
ブルース・フィンク

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『後期ラカン入門』の序文は人文書院のサイトからダウンロードすることもできる。
http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b110261.html 

 

 

 

 
宝彩有菜氏の『始めよう。瞑想』、『楽しもう。瞑想』を読み、多少は瞑想を実行している。こころがすこし澄んできた気がする。一方で、瞑想理論を使ってものごとを考える習慣がついてきた。それで「強迫的思考」について考察してみた。

脳内メモリ領域のほとんどが不安や悩みごとで占拠されていると、人は新たな問題にわずかなメモリ領域で対処しなければならなくなる。問題を多面的にとらえ、なりゆきをみまもり、総合的な判断を下す余裕がないから、見切りが早くなる。つまり、少しでも危険そうに見えるものを放置することは不安でならないために、「危険そうに見えるものはとりあえずすべて拒否」という乱暴な分類法によって、自分を守るしかなくなってしまう。しかも脳内メモリ領域の不足はつづいているから、「とりあえず」の判断を見なおして修正する機会はついにめぐってこない。こうして、かれの脳内では「危険そうに見えるもの」=「危険なもの」という判断が固定化されてしまい、疑う余地のない前提として次なる判断を拘束するので、世界観は日に日に妄想的になっていく。以上の過程が理解できれば、やがて、かれがたとえば「今日は左の足から歩き始めてしまったから不幸が襲ってくる」と本気で考えて、立ち尽くしてしまうにいたるのも無理はないということがわかるだろう。また、そこまで深刻ではなくても、「行けない場所」、「会えない人」、「開けられないドア」があるという人は多いだろう。

では、どうすればいいのだろう。脳内メモリの「空き領域」を増やせばいいのだ。要するに瞑想だ。宝彩氏の瞑想は「脳内メモリの片づけ」として明快に体系化され、その方法も単純きわまる15ステップのアルゴリズムに集約されている(それでいて本格的な瞑想に必要な要素をすこしも割引していない)ので、理論にも納得がいくし、初心者にとってハードルが低いというか、ほとんど障碍を感じずにすむ。だまされたと思って、すぐにはじめてみてはいかが。

始めよう。瞑想―15分でできるココロとアタマのストレッチ (光文社知恵の森文庫)
楽しもう。瞑想 心に青空が広がる (光文社知恵の森文庫) 
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瞑想は脳を扱うためのテクノロジーであり、本書で厳密に体系化されている。瞑想の理論が一点の破綻もないロジックによって明晰に記述され、著者の言わんとすることがすっと腑に落ちた。

著者によれば、瞑想とは脳内デスクトップの片づけである。しかしPCにたとえるならば、デスクトップよりもメモリといったほうが正確であろう。思考を棚上げし、メモリの空き領域を増やしさえすれば、システムが安定して心身ともに健康になり、あらゆる問題が解決し、うまくいきはじめる。反対に空き領域が不足すれば、エラーが頻発し、問題が山積みになり、苦しみがつのっていく。要するに問題の解決とは、問題を思考しつづけることではない。思考はメモリ領域を無駄に占領し、堂々めぐりするだけで、解決のための何物も生みださない。そうではなくて、解決とは無意識の自動的な過程なのだ(注1)(注2)。そして思考は不当にメモリの負荷を高め、無意識の働きを妨げる危険因子である。してみると、われわれにできることは、メモリの空き領域を増やし、無意識がサクサクと活躍できるように道を空けてやることなのだ。

本書の立場は、明らかに「われ思うゆえにわれあり」というデカルト説の否定を含んでいる。思考は「わたし」という主体の存在を証明しない。思考は脳という不完全な器官がうんだ徒花であり、堂々めぐりする自動機械にすぎない。もしどうしても「わたし」という主体が必要ならば、メモリの空き領域がじゅうぶん確保されたときに最大の実力を発揮する「動物的勘」こそがそれであろう(もっとも、これは著者の意見ではなく俺の意見であるが)。

瞑想をはじめて五日間。まだ少しもうまくできなくて、十五分もたないのだが、心身に変化が出てきた。
(1)一日でこなせる仕事のボリュームがアップした。
(2)長くわずらっていた皮膚炎が、薬をつけなくても治った(「薬をつけないから治った」のかもしれない)(注3)。
(3)小さなストレスの処理がうまくなった。不快なできごとを、胃痛や頭痛という形で身体にフィードバックさせず、横道にそらすことができるようになってきた。

この著者との出会いは、高橋和巳先生、石原加受子先生以来の衝撃であった。

(注1)「無意識」といっても、トラブルをつくりだすフロイト的な無意識とは真逆の存在である。この文脈でいうと、フロイト的無意識はむしろ「思考」のカテゴリーに入る。それも肥大化した怪物的な思考だ。

(注2)なぜ自動的に可能であるかについては、カテゴリ「全体は部分に優先する」特に「アーサー・ケストラー『機械の中の幽霊』―全体は部分に優先する(3)」を参照されたい。上位の自我は、下位のシステムに簡潔な命令を下し、具体的な手順はそのシステムに「委譲」することによって、自分自身で手を下すよりもうまく課題をなしとげる。意識することはかえって邪魔なのだ。

(注3)「このままでは治らないかもしれない」という不安(注4)は治癒を遅らせるようだ。脅迫的に薬を塗りつづける行為はこの不安と共犯的だ。

(注4)われわれは何度も「気がついたら治っていた」という経験をしているだろう。いやむしろ、そうでないことは稀であろう。そもそも治癒とはそういうものであろう。特効薬のパワーだけでなく、いや特効薬のパワーと同等か、あるいはそれ以上に、身体の総合的バランスの回復が治癒的に作用する。事実、人びとは特効薬が開発される前でも治癒していた。こういう経験の意味が十分腑に落ちていれば、「これまで何とかなってきた」ことの論理的帰結として「今回もなんとかなるはず」という結論が導けるはずなのだ。しかし、強力な特効薬の誕生がこういう経験則を不要にしたなどと考えて、特効薬のパワーでねじ伏せるイメージに執着してしまうと、身体バランスの変化への感受性を失い、せっかくの治癒のチャンスを棒に振り、希望を見いだせなくなってしまうかもしれない。こうして、「このままでは治らないかもしれない」という不安の出現は、特効薬信仰の危険な副産物かもしれないのだ。(注5)。

(注5)患者の「経験則」と同様に、医師における「治療スキル」の喪失も問題になりうる。特効薬の誕生によって医師の「治療スキル」も不要とみなされ、治療文化の伝承が途絶えてしまうとしたら、医学にとって深刻な打撃であろう。

始めよう。瞑想―15分でできるココロとアタマのストレッチ (光文社知恵の森文庫)始めよう。瞑想―15分でできるココロとアタマのストレッチ (光文社知恵の森文庫)
(2007/08)
宝彩 有菜

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本書の提唱する「解決志向アプローチ」ではこう考える、人は自分のメンタルな諸問題を解決するスキルを有していると。しかし、人はさまざまな原因でその能力をうまく引きだせなくなってしまうばかりか、自分がそれをできていたことさえ時として忘れてしまう。そして知的な努力によってその能力を補おうとし、いっそう深みにはまっていく。

たとえば、不安をコントロールできないかもしれないという不安は、いっそう不安をつのらせる。しかし「解決志向アプローチ」によれば、そもそも人は不安を自動的にコントロールするスキルを有している。それゆえ、不安のコントロールなるものについて知的に理解する必要もないし、練習する必要もない。ただ単に、ふだんの自分が実際にはとても上手に不安をコントロールしていることを思いだし、その体験をいきいきと喚起しさえすればいい。そのための導き手が催眠療法家である。こうして、「不安のコントロール」は賽の河原に石をつむ類いの難事業ではなくなり、およそすべての人間にわけへだてなく与えられた基本的なリソースであることがわかる。人はその問題を深刻に考えすぎて、自動的な過程の作動に自分でブレーキをかけていたのだ。

(同様の過程が、本書の第5章で「おねしょ」と「筋肉のコントロール」をテーマとして詳述されている。)

さて、本書は俺にとってエリクソン書籍の3冊目だ。専門家向けセッションの記録であり、省略が多いのと、そもそも俺が今までなじんできた思考法とはかけ離れた思考を強いるために、読み進むのに苦労する。実際、途中まで読んで半年ほどほったらかしていた。しかし久々に読んでみて、この学派がもつ柔軟な思考法は、俺の回復にとって不可欠なツールになりつつあると思った。

俺は催眠療法家をめざしていない。あくまでもひとりのクライアントにすぎないが、それでも本書を読むことは有益だと思う。そもそも、神経症の核にある「不合理な信念」、これは視点を変えれてみれば暗示(催眠)の一変種なのではないか。もっともそれは複雑に入り組み、何重にもロックのかかった厄介な暗示ではあろうけれど。当然、そこからの回復過程も催眠と無縁ではありえない。

ミルトン・エリクソンの催眠療法入門―解決志向アプローチミルトン・エリクソンの催眠療法入門―解決志向アプローチ
(2001/05)
W.H. オハンロン、M. マーチン 他

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食生活を変えようとしてみて、俺は自分の満腹中枢がこわれているんではないかと思うようになった。生理的な満腹感が食欲のブレーキにならないのだ。満腹感にたいする感受性が弱いともいえる。生理的には満腹しているはずなのに、食卓が空になるまで食べつづけなければ気がすまないのは、満腹感に優先する衝動が存在するからにほかならない。俺はこれを貪欲さや、過食行動をひきだすストレスの際限のなさだと思っていた。たしかにそれもある。しかしもっと強力なエンジンが存在することを思いだした。「残さず食べなさい」という超自我の命令だ。

「残さず食べなさい」というしつけは、たしかに幼児期の特定のステージでは有効に作用するだろう。しかし度が過ぎれば(注1)、満腹して食べるのをやめるという動物として当然の本能的手続きを破壊してしまう。しかも、それは悪しき習慣に火をつける。というのは、満腹感に優先する価値がひとつでも存在することを学んでしまった子どもは、やがて征服欲やストレス処理のために満腹感の警告を無視して暴走することをおぼえるからだ。長じてウエイトコントロールをしなくてはならなくなったとき、それが重大な障害になることも知らずに。

俺は今、満腹感にたいする感受性を回復しようとしている。その過程で「残さず食べなさい」という超自我の命令に気づいたことはさいわいだった。動物としての生理に逆らう不合理な信念はさっさと始末するに限る。

さて、こうは言ってみたけれど、俺は「動物としての生理に逆らう不合理な信念」をごまんとかかえているのではないのか。いつの日か、すっかり始末しおえて楽になりたいと思っているが、今回、超自我の命令に気づいたことは、モデルケースとして、俺のこれからの道行きにひとすじの光明となるだろう。

(注1)たとえば、食べ過ぎて苦しんでいるのにやめるのを許さないとか。 
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こちらに引っ越しました。












最近のテレビ番組を見ていると、俺たち視聴者には「存在論的な思考」が必要だと思う。

実をいうと、俺たちはふだんそれと意識せずに存在論的な思考を行なっているのだが、たいていの場合、その思考は微弱な違和感としか感じられないので、存在者の力強い迫力の前に影が薄れてしまう。だから、自分の考えをまとめようとしたり、物を言おうとしたりするときには、そういう思考が一瞬脳裏をかすめたことを忘れ、存在的な思考に没頭してしまうのだ。

ここで定義めいたことを言っておけば、「存在論的」とは存在(存在すること、していること)の根拠を探求することであり、それと反対に「存在的」とは存在の根拠を探求せず、存在者(存在しているもの)を無批判に信じこむことだ。俺たちの日常の思考法はこっちである。

では「存在の根拠(存在論的根拠)」とは何か。「その存在者はなぜ存在しなければならなかったか」、言いかえれば「その存在者が存在するにいたった必然性」である。何も「神」のような存在を仮定をしようというのではない。そうではなくて、誰かがその存在者の存在(その存在者が存在すること)を必要としたり、欲望したり、あるいはその存在者が存在すると都合がよいと感じたはずだ、と言いたいのだ(注1)。

こうして、テレビを見ていると存在(の根拠)が露出する瞬間に何度も出くわすことになる。

たとえば、ホノルル空港で芸能レポーターが小栗旬にむかって叫ぶ「交際は順調ですか」というフレーズ。「お幸せに」でも同じことだ。存在的には、山田優との仲を祝福しているように聞こえるかもしれない。しかし本気で祝福するつもりの者がこんなことを言うはずはない。そこで存在論的思考はこの違和感を手がかりにこう推論する。このレポーターにとって、カメラの回っている前で何も言わずにすますことは都合が悪かったのだと。なぜだろうか。自分の仕事ぶりを電波に乗せてアピールしなければ、上司の評価が悪くなり、生活に影響するからだ。それで、精一杯さしさわりのないフレーズを選んだつもりであろうが、何かを言うこと自体がそもそも大きなお世話だったのだ。もっとも、部下にそのような行為を強いて恥じない上司こそ影の主役と言うべきかもしれない。

また、アポなしでロケを敢行するタイプのバラエティ番組(撮影後に了解は取るだろうが)では、飲食店のテーブルにのっている飲料に意味もなくモザイクがかかることがある。スポンサーとライバル関係にある会社の商標を消すためだ。こうして、テレビの映像なるものの存在論的根拠(注2)、すなわち「スポンサーの欲望」があらわになる。そして、映像作品の完成度を犠牲にしてまで会社の意向を押し通すスポンサーの欲望は、「金儲けはしているけど文化の発展にも貢献しているよきパトロン」という俺たちのはかない幻想をうちくだく。

反対に、念入りに準備されたロケでは、ライバル会社の飲料が映り込むことなどありえない。この場合、「スポンサーの欲望」は消えたのではなく、むしろ統制が徹底されているのである。

そうすると、俺たちは「不在の存在論」を構想する必要がありそうである。つまり、フレームの大きさも放送時間も有限なテレビというメディアには、つねに何を見せ、何を見せないかという判断が不可避的につきまとう。気まぐれに放送されている映像などひとつもなく、すべての映像は「選別」という操作を経て流される。したがって俺たちは「何を見せるか」を考察する存在論と同様に、「何を見せないか」を考察する「不在の存在論」を使いこなさなくてはならない。

しかしそれは「テレビの存在論的考察」にとって難所である。というのも、放送された部分でボロが出ることはあっても(「交際は順調ですか」や「飲料のモザイク」)、放送してもいない部分の不自然さを論ずることなどできないからだ。とはいえ、「あるはずのものがない」現象に注意をこらせば、存在論的に考えることは可能だ。そのためにはテレビでも五大新聞でもないメディアから情報を得るようにしておく努力は必要かもしれない。最近の事例でもっとも悪名高いのは、中国の反日デモを必要以上に報道しておきながら、日本の反原発デモについては、各テレビ局が足並みをそろえて無視したことだ。中国・北朝鮮の報道管制をわらっていられない深刻な状況である。

ところで、テレビ番組における「不在の存在論」を語るうえで避けて通れないのは「カメラの隠蔽」である。すべてのテレビ番組はカメラで撮影することによって可能となるが、一般には、カメラの存在を意識させないように気をつけながら番組がつくられる。その矛盾を存在論的に露呈させたのがヒッチハイク番組である。ヒッチハイクによる貧乏旅行がテレビ番組として収録されることはありえない。言いかえれば、テレビ番組として収録されている以上、それは「ヒッチハイクによる貧乏旅行」ではない。なぜなら、収録するためには必ず撮影スタッフが同行しなくてはならないからだ。こうして次のような矛盾があきらかになる。
(1)ヒッチハイクによる移動の様子をカメラに収めるためには、すくなくともカメラマンは同じ車に乗らなくてはならない。しかし、ヒッチハイカーと巨大なカメラをもつカメラマンをともに収容できるサイズの座席をもち、たまたま運転手しか乗っていない車が、いつもそう都合よく通りかかり、ヒッチハイクに応じるとは考えられない。本当にヒッチハイクだった場合もあるかもしれないが、スタッフが前もって手配した場合が大半と思われる。
(2)ヒッチハイカーが飢えているとき、それは「本当は食べているのに飢えているお芝居をしている」か、そうでなければ、「飢えているのを知りながら、同行スタッフが、演出効果のために食物を与えずに放置している」かのどちらかである。
(3)ヒッチハイカーが病気になったとしたら、それは「本当は健康なのに病気のお芝居をしていた」か、そうでなければ、「病気になりそうなのを知りながら、同行スタッフが、演出効果のために放置した」か「ヒッチハイカーの健康管理をせずに病気にいたらしめた」かのいずれかである。

もちろん、どんなにすぐれた番組にも必ず「何を見せるか」「何を見せないか」の選別はあり、それをコントロールすることによって効果をあげる。しかし番組の存在論的根拠を隠蔽しないという条件でそれは許容されるのだ。

最後に付け加えておこう。「存在論的思考」というと難しく聞こえるが、実をいうと、こいつの正体は「動物的勘」なのだ。だから、俺たちはこいつをもっと信用して、鍛えあげて行く必要がある。人間特有の、もっともらしい「存在的」な思考法から距離をとるように気をつけていれば、それは十分可能だ。

(注1)この記述は哲学的には正確でない。存在論を正確に記述するためには、自分の身体の無意識的な反応とか、この世界に生まれたことへの無意識的不満とか、そういうレベルにまで降りていって、認識の基礎を根底から問い直すことが必要だと思われるが、俺の力ではおよびもつかない。しかしこのエッセイの範囲内ではこの程度の理解で足りると思う。
(注2)ゆいいつの存在根拠ではなくて、存在根拠群のなかの一つ。 
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俺の最高血圧は、病院とか人間ドックで測ると深呼吸しても126以上になる。しかしフィットネスで測ると108から118くらいだ。それで、血圧計の調整不足かもしれないと疑っていた。医療機関ほど厳密に管理する必要がないから、メンテナンス料を節約しているんではないかと。

その疑いが誤りであることに先日気づいた。
それは「軽運動」の時刻が迫り、ご老人の来館者が増えはじめる時間帯であった。血圧を測ろうとするご老人がもたもたしたために、俺は二つしかない(注1)血圧計の一つにありつくのが遅れた。直後に測った最高血圧は128だった。深呼吸し、測りなおしても同じだった。要するに、俺の通常の値より10から20高かったのである。
それで理解した。
フィットネスで、しかもリラックスした状態で出る108から118という値は、俺のリラックス時における最高血圧を正確に示しているようだ。人見知り気味の俺にとって、人と話さずにすむフィットネスはリラックスにうってつけの空間だから、ここで最も低い値が出ることは理にかなっている。
次に、対人関係の微弱なストレスがかかった状態、すなわち「ご老人のもたもた」とか、「主治医への報告=脱力バージョン」(注2)という状況では126とか128という値になる。
さらに強いストレスの場合(「主治医への報告=緊張バージョン」)は140代の後半にはねあがある。

しかし、対人関係のストレスは不可抗力ではない。ストレス状況は実在ではなく解釈にすぎない。問題はむしろ俺のこころのもちかたなのだ。つまり、
(1)ご老人がもたもたしたときに俺がストレスを感じるのはご老人の咎ではない。ご老人にはもたもたする権利があるし、それによって俺や周囲のこうむる迷惑など取るに足らぬ。
(2)主治医に病状を報告するときに模範的な患者を演じようとして緊張する(みずからストレスを生み出す)必要はまったくない。主治医は俺がどんな話しかたをしようと、必要な情報を聞き出すスキルをもっている(注3)。

こうして俺は「血圧」をキー概念とし、「燃費の高い生きかた」の点検をはじめた。すると、もっとも厄介なのが「プチ正義感」だった。交差点の近くに路上駐車するやつ、電車で足伸ばしてすわるやつ、酔って路上でわめくやつ、こういう輩をみかけたときに、俺はすこし胸苦しくなり(血圧が上がっているしるしだ)、行って小言のひとつも言いたくなったり、(電車の例では)そいつの足にけつまずきに行きたくなる。結局実行はしないのだが。
しかしその程度の不行儀が何だというのか。人には他者に迷惑をかける権利がある。迷惑の報いは避けられないけれど、それは本人が受けとめればいいことで、迷惑を差し控えさせる強制力にはならない。
ならば、こちらも自分の権利を行使して、平常心という選択、つまり「かかわらない」「影響をうけない」というひそかな決意をすればいい。
いらざる正義感のために心身のエネルギーを少しずつ浪費していたら、俺の心身のパフォーマンスはつねにその分だけ低下してしまうし、長い年月の間には膨大な損失になる。

(注1)フィットネスといっても市の体育館である。フィットネスであることは間違いないのでこの呼称で押し通す。
(注2)前々回のエントリ「燃費の高い生きかたをやめる」参照。
(注3)すべてのドクターがそうとは限らない。俺の主治医がたまたま優秀なだけかもしれない。 
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2年半前に発表のあてもなく書いたエッセイが出てきた。ブログを始める前なので、一人称は「俺」ではなくて「私」になっている。すこし難解だけど、よく書けているのでお目にかけたい。今以上に「癒し」を渇望していた当時の俺の心境がよく出ている。
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記憶がこころを癒やすのはなぜだろうか。

記憶といっても、愛情とか名誉とか美食の記憶のことではない。そういう記憶は私を幸福な気分にさせるかもしれないが、こころを癒やすわけではない。

ではどのような記憶なのか。それは、ありふれた風景の一部とか、日用品のいろ・かたちとか、街頭で聞こえてくる音楽とか、その他もろもろのはかない存在がほんの一瞬だけよびおこす、かすかな記憶の断片である。あまり遠くない過去に、何か記憶に痕跡を残すようなできごとが起こったにちがいないのだが、痕跡があまりにも微弱なので、今となってはそれがいかなるできごとであったかも、またそのできごとがいなかる印象を胸にきざんだかも、思い出すことができない。

それにもかかわらず、私はたとえようもなく深い安堵感につつまれるのだ。

そしてこの安堵感は次のような考察へと私をみちびく。未来というと、私たちはとかく自由と可能性にあふれた善きものと考えがちだけれど、私の原始的本能はそれとは逆の見解をもっているようなのだ。こいつの見解によれば、未来は善きものであるどころか、義務と課題と約束によって私を拘束するストレッサーであり、自由の敵なのである。

その一方で、過去の記憶こそは、それも、もはや解決済みで、可塑性を失い、現在と地続きではなくなり、わずかな興奮しかよびおこさなくなった過去の記憶こそは、拘束のおよばない別天地であり、自由の大陸なのだ。だから、私もしくは私の原始的本能(どちらでもよいのだが)は、このような記憶に出会うと、拘束なき世界をかいま見て、癒やされるのである。
 
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俺が胃の治療のため定期的に通っている病院では、問診を受けながら腕帯を巻かれ、血圧を測定されることになっている。それで、前回と前々回の受診時に、最高血圧が140を超えてしまい、気になっていた。
血管や心臓の心配をしているのではない。フィットネスで測るといつも120に届かないから、循環器系の問題でないことはわかっていた。

ではどうしたのか。ドクターから問診を受けるとき、俺はどうも立派な受け答えをしようとして緊張するようなのだ。目下の自覚症状を、誇張せず、過小評価せず、自分の解釈をまじえず、ありのままに言語化しようとする配慮のために、限界まで注意力を使ってしまう。そして話し方は早口・ハイトーンになる。もちろん無自覚にだ。
それで今回、問診の時に脱力を心がけた。その結果、覇気のない話しかたになってしまったけれど、最高血圧は126だった。

それで考えた。血圧を測る数十秒の間だけ、ドクターが質問を控えてくれればいいのにと。

しかしすぐ考えなおした。俺の「緊張」のほうが不要だと。ドクターの問診は、血圧を上げてまで身構えなければならないような危機的状況ではない。血圧126の話しかたで十分だ。この程度のことで血管に負担をかけるにはおよばない。
血管だけではない。アドレナリン神経を酷使すれば、全身が緊張して体力を失うばかりでなく、心的なダメージも溜まって行く。燃費の高い生きかた(注1)となり、なんでもない日常生活を送るのに巨大な肉体的・心的エネルギーが必要になるから、つねに疲労し、うなだれて生きねばならない。

次に、問診以外で俺が緊張する場面を思い出した。上司に報告する時と、初対面の人と話す時だ。問診の時と同じ早口・ハイトーンの話し方になる。
では、早口・ハイトーンになりそうな身体感覚を緊張の兆候とみなして、これを感知したら一気に脱力の方向へ身体のモードを切りかえるようにすればいい。
知(配慮)のレベルではなくて、身体感覚のレベルを意識することがコツのようである。

(注1)俺がこの言葉を知ったのは誰の著作だったろうか。小池龍之介先生かな、斎藤学(さとる)先生かな…。どちらかのような気がするが、両先生の本を十数冊ずつ読んでいるので、多くてチェックしきれなかった。あるいは全く別の人かもしれない。

せっかくだから両先生の代表作を紹介しておこう。

考えない練習 (小学館文庫)考えない練習 (小学館文庫)
(2012/03/06)
小池 龍之介

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「自分のために生きていける」ということ (だいわ文庫)「自分のために生きていける」ということ (だいわ文庫)
(2010/10/08)
斎藤  学

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3.「特殊な力」と「普遍的な力」の違いは何か(第五章、第六章)

資本主義社会において、その実質的な支配者である資本家は、みずから武器をもって労働者を抑圧することはない。彼らは経済的な権力、すなわち「言うことを聞かない労働者を雇い入れずにすむ」という一見合理的な権力を振るうだけだ。その一方で、資本主義社会における階級対立は、対立を抑制する「国家」という名の暴力装置を誕生・発展させる。そして階級対立の抑制を必要とするのは資本家だから、国家権力はせんじつめれば資本家の手先といってよいのだが、階級対立が比較的落ち着いている間は、表面的には全国民の私有財産を守るという「まっとうな」目的に奉仕するにとどまる(もっとも、私有財産の蓄積にいちじるしい不均衡があるという事実は隠蔽される)。しかし階級対立が尖鋭化してくると、資本家は国家への関与(癒着、買収)を強めるので、国家はそのあつかましさをあらわにし、公然と労働者を弾圧することも辞さなくなる。こうして、資本家がみずから手を下さずに、国家権力をして労働者の抑圧に向かわしめる、その「媒介された=直接的でない」暴力の形態をレーニンは「特殊な力」と呼ぶ。

ここで「帝国主義」に触れておこう。資本家は労働者の搾取を「ほどほどに」しなくてはならない。労働者が労働力を再生産できなくなってしまうと、搾取することが不可能になるからだ。一方で、資本の論理は際限のない蓄積を強いる。ここでジレンマが生じる。労働者の搾取には限界があるのに、資本の論理には限界がないからだ。このジレンマを解決するために、資本家は商品市場および労働市場の(国境を越えた)拡大を画策し、政府を動かして領土拡張のための戦争に向かわせる。領土拡張にとり憑かれた、この悪辣な国家形態を「帝国主義」と呼ぶ。

さて、国家の「媒介された=特殊な」形態は、次のような事態を生じさせる。先に述べたように、資本家は、みずから手を下すことなく、国家権力をして労働者を抑圧させる。では、その国家権力を担う階級は何なのか。ここでいう国家権力とは、労働者を抑圧する暴力装置としての「警察」と「軍隊」を指すのだが。もちろん、これら機関の構成員の大半は労働者階級である。してみると、これは「頭」が資本家で「胴体」が労働者という怪物なのだ。では「胴体」が「頭」を乗っ取ったらどうなるだろうか。これがロシア革命で実際に起こったことである。かれらは労働者階級に属していたがゆえに、革命勢力に転向させることが可能だった。さらに、当時は第一次世界大戦のために多くの人民が駆り出され武装させられていた。それは革命勢力が一挙に強大な暴力を手にする好機だった。

そのとき、(警察、軍隊の)労働者が行使する力は労働者自身のための力となる。つまり「特殊な=媒介された」性質を失い、「普遍的な=直接的な」力へと変化する。レーニンによれば、これこそが革命の瞬間である。
さらにいえば、ここにも第二章で述べられたレーニンの「現実主義」思想が息づいている。「いまここ」にないものへの夢想を革命の基盤にするのではなく、あくまでも「いまここ」に存在するもの(ここでは警察および軍隊の労働者が担う国家権力)を素材として革命を成し遂げんとする思想だ。

白井聡『未完のレーニン』のツボ(前編)

未完のレーニン 〈力〉の思想を読む (講談社選書メチエ)未完のレーニン 〈力〉の思想を読む (講談社選書メチエ)
(2007/05/11)
白井 聡

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1.世界初の社会主義革命に成功したレーニンの思想は、他の思想家のそれとどこが違っていたのか(第二章)

・無政府主義者との違い

無政府主義者は、ブルジョア国家を破壊するに足る強大な力(暴力)を措定しながらも、ブルジョア国家破壊の後、この強大な力のゆくえがどうなるかについて何の展望ももたず、その力が自然消滅するという空想的な考えしかもたなかった。それゆえに、彼らの思想は無力なユートピア思想にとどまった。
一方、レーニンは「ブルジョア国家の破壊」と「国家なき社会の実現」との間に、過渡的形態としての「プロレタリア独裁」という暴力が必要と考えた。

・カウツキーとの違い

学者カウツキーは、革命を可能ならしめる客観的条件を科学的に探求した。しかし、階級社会から革命後の社会への移行を「質的変化」として把握する場合、つまり「無」の中から革命が立ち上がり、階級社会に取って代わるという図式で理解する場合、あらゆる科学的正当性は、革命の成功という現実性について何も約束することができず、傍観することができるだけだ。
一方、職業的革命家レーニンにとって、革命は可能性でも必然性でもなく、現実性であった。つまり革命(そして階級社会のたそがれ)は萌芽の形ですでに始まりつつあり、「起こす」とか「起こさない」とかいう選択はすでに無効になっている。したがって、革命家の使命は、このすでに起こっている革命を後退させないこと、そして「量的に拡大」することだけなのだ。


2.レーニンが修正マルクス主義やテロリズムと対立したのははぜか(第三章、第四章)

修正主義とテロリズムは「自然発生性への拝跪」という点で共通している。
修正主義の称揚する自然発生的な労働運動は、条件の相対的な改善という短期的利益を引き出すだけで、階級社会(資本主義)のもたらす悲惨には指一本触れることができないばかりか、むしろそれを延命させる。
そして、テロリズムは改革の情熱だけを暴走させ、それを社会的な運動として組織して行くことができない。
どちらも目先の満足にとらわれて「革命の大義」を見失っている。
労働者の置かれた悲惨な状況は、「労働力の商品化」というトラウマ的なできごとによってもたらされた病理であり、対症療法的に満足を処方していても解決されることはない。むしろ、これら目先の満足に対しては禁欲的態度をとり、現象の深みにあるトラウマ(資本制)を絶つことに全力をそそがなくてはならない。

ロシアの知識人はブルジョア階級の出身者が大半を占めていた。彼らは「人民の殺害」(人民の犠牲)の上に自分たちが存在していることに「疚しさ」を感じていた。こうして彼ら(ナロードニキ主義者)は「悔悟する知識人」となり、自然発生的に、密かな功利的計算にもとづく「人民との和解」、すなわち修正主義的な「目に見える成果」「人民の生活の即座の向上」を旗印にしたのだ。しかしレーニン(と彼のイスクラ派)はこういう論理からきっぱりと手を切り、「教条的に」革命の大義を追い求める。なぜなら「人民との和解」は、真にトラウマ的なできごと、つまり「労働力の商品化」というできごとを撃つことができず、現在の世界の中で被抑圧者人民を「相対的に」解放することしかできないからだ。真の解放は「疚しさ」「和解へのあせり」の「外へ」出て、革命の鬼となり、現存する世界とは別の世界へと人民を導くことによって可能となるのだ。

(つづく)

白井聡『未完のレーニン』のツボ(後編)

未完のレーニン 〈力〉の思想を読む (講談社選書メチエ)未完のレーニン 〈力〉の思想を読む (講談社選書メチエ)
(2007/05/11)
白井 聡

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この章では、ジャン・ジュネの悲惨な生涯において、前章で述べられた「原ユートピア」つまり「現実の反転」がどのように機能したかを概観する。

(1)彼が「歌」と呼ぶ創作活動は、混沌として悲惨な日常に秩序を導入し、現実を受容しうるものとするために不可避な活動であった。もっともそれは彼特有の秩序だけれど。

(2)「犯罪行為」(たとえば殺人)は、殺人事件に動揺する周囲や、司法組織を再創造することによって、無意味な恐ろしい世界に「意味」を導入し、一時的であるにしても彼の自我を安定させる。

(3)裏切りに伴う「後悔」や、死刑の「不安」という情動は彼を耐えがたくさせる。こうして、仲間への裏切りは後悔を消去することによって聖なる「ダイヤモンド」に反転し、死刑はそれにともなう不安を消去することによって「薔薇」という聖性に反転する。

(4)彼が生存のために必要としたこの「情動の消去」は、彼によって「愛」と名づけられている。

(5)彼の「歌」は、常に意味の手前にとどまり、他者との接続を拒否し、すべての経験を乾いた「結晶」へと反転させる。なぜなら、彼の現実はあまりにも疎外的であるために、意味を生成させたり、他者とつながったりすれば、強烈な情動が流れこんで彼を絶望させてしまうからである。つまり、彼の「歌」=創作=世界認識は「情動の消去」を根本原理としている。こうして、孤独であることは彼が生存するための条件なのだが、それでもやはり孤独であることは耐えがたい。そこで、彼は「不在の誰かとのつながり」や「死者との婚礼」という幻想を必要としたのだ。なぜなら「不在の誰か」も「死者」も情動を喚起しないから。

治癒の現象学 (講談社選書メチエ)治癒の現象学 (講談社選書メチエ)
(2011/05/12)
村上 靖彦

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人の心には、健康を保証するための「安定装置」とでも呼ぶべき能力が生得的に備わっている。それは「現実の反転」を可能にする。つまり、大切な人の死に直面したとき、意図しなくても、空想(たとえば夢)の中でその人を蘇らせ、出会うことができる。この能力を「原ユートピア」と呼ぼう。

(つづく) 
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フランソワーズ・ドルトの症例レオンは、三歳半までの間、椅子にベルトで固定された状態で一日の半分を過ごし続けた。彼の障害は運動能力の未発達だけではなく、無表情、無気力など多岐にわたっていた。運動が制約され、運動感覚が触発されなかったため、空想身体の作動する余地がなかったのだ。
ドルトの提案で粘土細工をはじめた彼が最初に作ったのは四本の「ソーセージ」だった。これは彼のバラバラな身体感覚のメタファーになっている。実際、そのときの彼は身体のコントロールに成功していなかったため、歩くこともままならなかった。そしてソーセージという作品の無意味さ(粘土を丸めて延ばしただけ)は、彼が現実触発を処理しようとしたものの失敗し、「意味」を産出するに至らず、未分化で硬直した「幻想」の状態にあることを示している。
その後のセッションで彼は「椅子」を作り、ソーセージの発展形である「人形」をその椅子に乗せる。これは彼の創造性が開花し「空想」が可能になったことと同時に、身体感覚の回復をも示している。実際、彼は歩くこともうまくなってくる。

以上の治療過程を可能ならしめたエンジンは、治療者ドルトの「つながろうとする(空想を共有しようとする)」欲望と「レオンを触発している現実を知ろうとする」欲望である。後者はラカンの「分析家の欲望」に等しい。治療者が「知りたい」と表明することは、レオンの空想世界に「探求すべき謎(未知のX)」を導入し、彼の現実を構造化する。
なお、この構造化は「原因志向的」ではなく「解決志向的」であるべきだ。つまり、「あなたの悩みを知りたい」と言うべきではなく、「あなたが本当にしたいことを知りたい」というべきなのだ。

レオンの回復過程では、「歩く能力」と「話す能力」の獲得が並行して起こっている。この事実は「言語構造の身体への書き込み」が重要であることを示している。つまり、単に「文法を学ぶ」とかいうことではなく、「行為」と「発語」のダイナミックな連動をくりかえし体験することによって、言語を「身体で覚える」ことが重要なのだ。
そして健康な身体にあっては、言語は抑圧の装置ではなく、創造性の装置として機能する。

(つづく) 
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引きつづき箇条書き方式とする。なお、括弧つき数字は節の番号と一致していない。

(1)ここまでの章でも暗黙のうちに示唆されていたことだが、「心理療法」や「会話」、「ごっこ遊び」において、二人は一つの「空想世界」を共有する。そこでは言語を介さない「空想内容の伝達」が起こる。これを「超越論的テレパシー」と名づけよう。このテレパシー現象は自然発生的であり、意志の力でコントロールできない。私にその気はなくても、私の内部に相手と同じ空想が自然にめばえる。

(2)「ごっこ遊び」は、「実際の対人関係」の上に「空想の対人関係」を重ね、二つ層が同時に有効に作動する、高度なコミュニケーションだ。

(3)空想世界の共有(超越論的テレパシー)は、私の中で他者性の基盤となる。単なる外部入力(刺激)の集合ではない、空想をはぐくむ器としての豊かな他者性に、私はここではじめで出会うからだ。そして、私はその他者性・異質性を支えとして自他の分離=自己の固体化をなしとげる。

(4)創造性の担い手たる「空想」の対局に位置する、病的にして硬直した想念が「幻想」である。幼児期の感情生活に起源をもつこの想念は、可塑性が皆無であるために、他者の空想と接続する余地をもたない。

(5)そして治療者との対人関係に侵入してくる「幻想」が「転移」であり、精神分析家の身体はこの「転移」に巻き込まれることによって「幻想」に感染し、接続を実現する。

(6)「幻想」は他者の空想に接続することがなく、この世界に居場所をもたない、不可能な異物であるが、その得体の知れなさ・異物性(注1)は「違和感」として感染する。転移のスペシャリストたる精神分析家は、これを治療の手がかりとして使う。
ウィニコットは、難治性の神経症患者の男性と話していて、「女の子」と話しているような違和感をもった。やがて、患者の母親が彼を女の子として育てようとしたらしいことが明らかになった。こうして彼の「幻想」は理解可能となり、他者の空想との健康で創造的な関係を回復していった。

(注1)(3)の「異質性」とはまったく別物

(7)「幻想」を産出せしめる病的な基盤は、「基礎的視線触発」すなわち「他者の見守る視線」における歪み(たとえば母子関係の破綻)であろう。

(8)上記(6)の主客を入れ替えて患者側から「転移」の現象を記述すればこうなる。「神経症や境界性人格障害では、患者は相手の空想身体と接続する代わりに、自分が作ったステレオタイプなイメージ(幻想)を相手にあてがう。相手と交流しているつもりで、自分の幻想の中を生きている」

(9)そして、「転移が精神分析の起点となるのはこの相手のあてがう役(幻想)への入り込みという点においてである。固定した幻想のなかの亡霊的な他者(注2)に治療者が入り込み、この入り込みを突破口として空想の接続と接続と可塑性を回復させることが対象関係論系の精神分析であると定義できる」

(注2)(6)の母親のように、自分の歪んだ欲望を主体に押しつけ、自分が死んだ後でもなお主体を支配しつづける他者のことを言っている。

(10)「この亡霊的な幻想はそれとして表現されることもない」が、「こうして患者の空想表現の型に治療者がシンクロしたときに初めて患者の硬直した型が変容し始め、回復や成長が起こる」

(11)上記の場面の後、ウィニコットは、自分も相手も予測していなかった思いがけないことを口走り、自分でも驚いている。このように、創造性は「二人の双方にとってまったく新たなもの」をもたらす。

(12)こうして「空想世界の共有」は私の可能性の幅を広げ、成長=回復を成しとげ、現実への耐性を強化する。

(つづく) 
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本章の論理構造は複雑にして重層的であり、論理の運動を正確にトレースして語るには無限の労力が必要のようだ。よって、労力の節約と、俺自身の嫌気がささないための保険として、前章と同様に箇条書き方式とする。なお、括弧つき数字は節の番号と一致していない。

(1)ここで「創造性」という概念が導入される。「言語記号は意味される対象を指示するが、並行して行間に「意味」が生まれる。行間の「意味」は直接対象を指し示すわけではなく、間接的に対象を修飾する。そうして既存の意味を超える新たな「意味」を創造する」そして「意味」を自由に産出する機能・能力を「創造性」と呼ぶ。なお、「創造性」の重要性についてはウィニコットが的確に述べている。「創造的に生きることが健康な状態であり、過度の従順さは人生にとって病的な基盤なのだ」

(2)臨床場面で治療的・創造的な「意味」の産出がはじまるに先立って、一時的な「沈黙」の支配が必ずおとずれる。これは心的外傷を受ける以前の、弛緩した「無」の状態にいったん遡り、心的にリセットされた状態となること、言いかえれば、現実界の触発から距離をとりうるリラックスした状態となることに、治療的な意義があるからである。少し先回りして言うと、「夢」においてこの「沈黙」に対応する機能は、「夢」がはじまるまでの「純粋睡眠」の時間である。

(3)「意味」の生成は自律する運動であり、意志によってコントロールできるものではないが、否応なく「型」の影響を受ける。「型」は視線触発を受容するにあたって空想身体が獲得し発展させる「対応能力」である。これは作家の文体、画家の画風、俳優の所作と同じ種類のものである。そして病気は「型の作成の失敗」であり、回復は「型の作り直し」である。

(4)(ここいら辺がおそらく「空想身体」論のキモにあたる。)芸術家の創作能力は、観察眼や、入念な準備、日頃の訓練という意志的努力だけでは説明できない。むしろ「彼自身の肉体よりも柔軟な」空想身体が作動し、彼のかわりに最適な「型」をみいだす。

(読解者注。ここで少し本文を離れ、俺たちが日常で出会う「空想身体」の働きを見ておこう。第一に、モノマネ芸人の能力である。観察眼に優れ、細部の扱いに秀でているだけでは一流のモノマネ芸人になれないだろう。彼の「空想身体」は大物歌手の身体に共鳴し、そのトータルな身体感覚をたよりに歌唱を再現する。第二に、あくびの感染である。生理的にはあくびの感染は起こりえない。空想身体が他者の身体に共鳴してつりこまれるのだ。第三に、重大な決断を迫られたとき、精緻な情勢分析よりも、むしろ尊敬する先人の身体に共鳴し、彼ならばどうしたかと考えるほうが、正しい結論に至る近道であることを、俺たちは経験的に知っている。)

(5)上の注で述べたことにもかかわるが、空想身体の「非人称的」性格を強調しておかねばならない。空想身体は私の自我(つまり意志、意図、観察、分析)とは独立して、自律的、自己組織的に作動する。

(6)不健康なタイプの現実触発は、現実の中に秩序化不可能な矛盾や葛藤をはらむ。それゆえに空想身体は作動することができず、「意味」は産出されず、不安が引き起こされる。この不安には身体の硬直(緊張と不快感)がともなうが、それは「空想身体」の硬直が「生身の身体」に影響するからである。

(7)すでに述べたように、夢は現実界からの触発を馴致して無害化する。この過程において、睡眠と夢の治療的機能の核は、現実から距離をとる働きであった。ところで、夢(と夢を生成せしめている空想身体)が現実触発の処理に行き詰まったときは、距離を取るための「覚醒」が起こりうる。したがって夢だけが治療的なのではない。治療的なものの本体は「距離を取ること」なのだ。

(8)これと反対に、真性の悪夢では、主体が現実界の圧力を処理できなくなってパニックを起こす。そのとき現実触発、空想身体、生身の身体の間の距離は消失して混沌となる。そして覚醒と睡眠の間の距離も消失し、不眠に陥る。空想身体が作動しなければ、現実触発は生理学的な身体の審級へと排除され、身体症状としてあらわれるよりほかない。

(9)空想身体が「意味」生成の能力であるならば、その能力が活躍する場(地平、外延、空間)が必要である。本書ではそれを「意味のスクリーン」と呼ぶ。

(10)一方で、空想身体はその土台・前提として「他者の見守る視線」を必要とする。主体が不安をのりこえて成長しようとしているとき、すでに述べた「沈黙」とともに、他者(両親または治療者)がつねに見守っているという確信が治療的に作用する。この「見守る視線」が十分に作用すれば、やがて子どもはこの視線を内面化し、ひとりでも困難に立ち向かえるようになる。この「見守る視線」のことを「基礎的視線触発」と名づけよう。

(11)上記の「見守る視線」は、「沈黙」や「睡眠」において露出する。つまり、「沈黙」と「睡眠」は空想身体が活躍する前の「空白の時間」であるから、空想身体に由来する身体感覚やイメージに埋もれていない、ナマの「見守る視線」をとらえることができる。健康な人の場合、それは「心強さ」や「ひとりではない感覚」であろう。土台(見守る視線)の壊れている人の場合、それは恐ろしい「解体の感覚」や「落下の感覚」としてあらわれる。

(つづく) 
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盛々夏野菜

Author:盛々夏野菜

男性、既婚、事務系サラリーマン。
現代思想フェチだが、本を読むのが遅いのであまり多くは読めない。地底人生活を経て現在は臨床心理に関心がある。新鮮な胡瓜が好き。
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