きゅうり

 

盛々夏野菜のハードエッセイ & ショートストーリー 【思想、心理、書評、劇評、感想、あらすじ】
 

 

 
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俺は眼精疲労とのつきあいが長いのだが、特効薬はないし、寝ても癒らないし、一度患うと一週間は消えない厄介なやつだ。それが、本書のワークを実行したら数分で消えたのだ。

やりかたはこうだ。仰向けに寝そべり、手の人差し指、中指、薬指をそろえ、その三本指の腹のあたりで、まぶたの上から眼球に触れる(「固まっている筋肉のゆるめ方」33ページ)。たったこれだけなのだが、数分つづけると眼筋が芯からゆるんでくる。信じられないかもしれないがそうなるのだ。

いちおう理屈を述べれば、指で触れる行為が生体センサーを活性化させるので、緊張(凝り)の情報が滞りなく脳に伝達され、脳は遅ればせながら対処に動き出す(緊張をとく指令を出す)というわけ。理にかなっている。むりに揉みほぐそうとすれば、身体は反動によってかえって緊張するだけだからな。

次に、眼精疲労にならない技術である。PCの作業をするとき、ディスプレイ上の情報を「捉えよう」とするのではなく、「受け取る」ように見ればいい(「楽に目を使う方法・その2」126ページ)(注1)。これを実行してみて、俺は「目を凝らす」ことがなくなったし、文字情報を正確に得ようとしてディスプレイに顔を近づけることもなくなった。今では、まったく疲労しないというわけにはいかないけれども、対処可能な範囲の疲労になっている。

本書はこのように即効性のあるテクニックが満載であり、ミリオンセラーにならないのが不思議なほどである。疲れを取り、疲れを予防することがこれほど簡単なんて。藤本さんの施術者としての経験と、探究心の賜物であろう。一家に一冊、必携の書だ。俺は本書によって、健康に生きる自信を手に入れたと言ってもいい。

本書の中にふんだんに盛られたワークがどれも強力な効能を発揮する秘密は、著者・藤本さんによる、現代人のストレスと身体との関係についての深い洞察である。見たくないものを見つづけ、聞きたくない話を聞かされ、嗅ぎたくないにおいをかぎ、言いたいことをガマンさせられる現代人は、自己防衛のため必然的に目、耳、鼻、口を緊張させる。しかし裏を返せば、これら感覚器官に由来する疲れは、感覚器官そのものに働きかけるワークによって解消可能だし、一方では、感覚器官のしなやかな使い方をおぼえることによって、不快な刺激を侵入させず、したがって疲れをためずにいることも可能なのだ。

本書のシャープな記述が頂点に達するのは「痛み」の考察であろう。俺は「痛み」の対処についての考え方を百八十度転換させられた。つまり、「痛み」が生じたとき、われわれは当然ながら痛みの部位に意識をフォーカスし、それへの対処を考えようとする。たとえば痛み止めをのむとか、もみほぐすとか。しかしそれが大きな間違いだと藤本さんは述べている。われわれは痛みを感じるとその部分を全体から切り離して、健康な部分を守ろうとするが、それは、せっかく身体という大きな鍋があるのに、その鍋にわざわざ仕切りを入れ、狭いスペースに具材(痛み)を押し込んで調理するようなものだ。その狭いスペースに感覚が集中するので、調理しきれなくなり、痛みはいっそう手に負えなくなる。こういう場合は、仕切りを外して、鍋(身体)全体の大きな調理スペースがあることを思い出すだけでいい(「部分的な痛みや違和感が全身を覆う理由」102ページ)。鍋全体で受けとめれば、調理可能であることは自明の理だからだ。
この後は、鍋(身体)全体を思い出すワークの具体的な記述がつづく。しかし、上記の事実が理解できてしまえば、痛みの問題はワークを実行する前に解決してしまうこともあり得るだろう。「痛み」の強さが、症状の深刻さではなく、対処のまずさ(痛みの部位に感覚を集中させること)を表現しているだけだということが分かれば、あとはただその痛みを「やりすごす」だけで十分かもしれないからだ。もちろん、外傷とか臓器の損傷のように痛みの原因が明確な場合は別だ。

そうだ、これも言っておかなきゃ。本書のガイドにしたがって目、耳、鼻、口を上手に使えば、疲れ知らずの身体が手に入ることになっているが、それでも全身がガチガチに固まってどうにもならないこともあるだろう。本書はこういう場合の処方箋として究極のワークを用意している(「それでも疲れてしまったときにすること」137ページ)。椅子にかけ、両目で左耳を見るように意識すると、頭が左方向に回転していき、これにともなって背骨がねじれていく。この現象を利用し、決して無理な力を加えることなく、完全に後ろを振り返る状態になるまで背骨をねじってみよう(何度かくりかえしながら、すこしずつねじれの深さを増していくとよい)。この「ねじれ」が筋肉の凝りを巻き込んで伸ばしていき、左半身が芯からほぐれていく。もちろん左が済んだら右も同様に行おう。

最後の第4章「自分の軸のつくり方」では、「身体技法」と「催眠ワーク」が重なりあう領域へと果敢に分け入っていく。
(1)3人の司令官(頭の中の司令官、胸の中の司令官、腹の中の司令官)をつくるワークであるが、これらは順に、脳のレベル、スピリチュアルレベル、身体レベルと理解しておけば大きな間違いではあるまい。3つの中でおそらく日本人にとって一番大切なのは「胸の司令官をつくる」(「「胸」の中の司令官」174ページ)ワークであろう。不安や不満のためにキューっとつまってしまった胸の空間を取り戻し、自分の軸をつくるワークだ。俺は今のところあまりうまくできないのだけれど。
(2)他者との間の距離感を感じるワーク。他者と私の間に「つっかい棒」が介在しているイメージをもつと、心理的な距離感も保つことができる。

(レビュー終わり)

最後に本書の形式的な難点を二つ指摘しておく。もっとも内容は申し分ないので、そこは誤解のないように。
(1)造本が悪い。用紙が厚くて固く、ページがすぐ閉じてしまい、開いておくのに苦労する。特に本を見ながら実行するワークが多いので問題なのだ。そこで俺は本書の全ページにしっかり開き癖をつけ、書見台を使って読むことにした。
(2)独特のフォントを使用していて、内容がすっと頭に入ってこない(美しいフォントなのだけれど)。しかし本書は電子書籍にもなっている。こっちなら馴染みのフォントで読めるわけだ。俺は愛用のiPhone + Kinoppyで読んだらすっと頭に入った。なお、電子書籍ならば造本の問題もないのでお勧めである。

(注1)俺の場合、「目を楽に使う方法・その3」の「トンボの目で見る」はうまく行かなかった。かえって目が疲れてしまって。

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(2012/07/03)
藤本 靖

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テーマ * 健康 ジャンル * ヘルス・ダイエット

 

 

 

 
先日、かねてから念願だったNLPプラクティショナーコース(NLPセラピストアカデミー・かおり特別クラス・8日間)を無事修了することができた。
このクラスによって、俺は無限大のリソースを手に入れた。
その一部だけでも知っていただきたいので、トレーナーに送ったアンケート回答の全文を引用しておく。

なお、このスクールでは、現在、次回クラスの受講生を募集中だ。
興味をもたれた方は、

公式サイト
http://ameblo.jp/moon-usagi-kaorin/

を訪問していただき、できれば

きっかけレッスン
http://ameblo.jp/moon-usagi-kaorin/entry-11830674001.html

だけでも受けてみてはいかがだろうか。

以下 私のアンケート回答全文。

1.どうしてNLPプラクティショナーコースを受講しようと思いましたか?

こころの中に多くの未解決な問題があるらしく、生きづらさを感じていました。こうしてさまざまな心理学の本を読みあさるうちに、NLPのワーク「6ステップ・リフレーム」についての記述をみつけ、実行してみたところ効果てきめんでした。
この体験は強烈だったので、「私の癒しの道はNLPしかない」と確信しましたが、本を見ながら一人で実行することには限界を感じていました。それでNLPセラピーについての情報をさがしましたが、検索エンジンにヒットするのはNLPの「ビジネススキル」としての側面や、「コミュニケーションツール」としての側面に焦点をあてた講座の情報がほとんどでした。
そんなときでした。「自らの癒し手になる」ことをゴールにしている、かおりトレーナーの講座を見つけたのは。そして私にも参加可能な、日曜クラスの開講が告知されたとき、迷わず参加を申し込みました。


2.NLPプラクティショナーコースを受講して、どのような成果が得られましたか?

かおりトレーナーは、つねに学ぶ者の視点からクラスの運営を構想し、「教え方」についても研究をおこたらない、職人気質のプロフェッショナルです。教科書的な通り一遍の説明でなく、要点をさまざまに言い換え、繰り返すことによって、NLPの真髄を体感させてくれました。

得られた成果は、「こころの危機」「こころの苦しさ」に対するさまざまな対処法が身についたことです(具体的には3.で述べます)。

それと、これはかおりクラス最大の特徴だと思うのですが、「ノンジャッジ(判断しない)」と「相手の力を信じる」姿勢を、理論でも実践でも徹底的にたたき込まれたことです。それは、この姿勢がNLPの原点であり、これなくして自分の変化も相手の変化もありえないという考えにもとづいています。こうして、日常では決して体験できない「安全な空間」を空気のように体験するという稀有な経験をつみ、自分を信じて生きるための確固とした地盤を築くことができました。また共に学んだ仲間たちとは深い絆ができました。互いの存在が「パワーアンカー」になったといっても過言ではありません。


3.プラク(注1)の中で、特に自分自身に影響のあったワークや、楽しかったワークはどんなワークでしたか?他どんな時間が励みになりましたか?

・「サブモダリティ変換」によって、こころの危機を一瞬で回避する方法を学びました。たとえば「アソシエイト」と「ディソシエイト」を交換するだけで気分が劇的に変化すること。

・自分を苦しめている「こころの葛藤」を解決するため、葛藤を起こしている思考のひとつひとつを、形ある存在として生き生きと体感し、擬人法的にその存在の声を聴く「パーツセラピー」(「ビジュアルスカッシュ」や「6ステップ・リフレーム」)。劇的な効果をもたらす、この最強ワークを自分で取り組めるようになりました。

・「アソシエイト傾向かディソシエイト傾向か」を横軸とし、「チャンクアップ傾向かチャンクダウン傾向か」を縦軸とする2次元のグラフによって、自分の思考の癖と、NLPの各種ワークの中で得意・不得意のある理由が理解できました。こうして自分の長所を伸ばし弱点を補強するにはどうすればよいかが具体的にイメージできるようになりました。

・「ポジション・チェンジ」のワークで「関係を改善したい相手」の役になりきり、相手のしぐさを真似てみたところ、まったく想像もしていなかったことを口走っている自分に気がつきました。こうして私の抱いていた「恐れ」は杞憂にすぎず、そもそも関係はさほど悪くなかったことが理解できました。

・自分には絶対無理と思っていたトランス誘導が、アルゴリズムのとおりに実行すれば簡単にできることがわかりました。また自分自身、深いトランスに入る経験もできました。


4.もしこのクラスを誰かにお勧めするとするとどんな方におすすめできますか?

自分のこころの中の未解決な問題に取り組む準備ができた人。こころから「変わりたい」と願っている人。


5.今後のリクエストなどなにかありますか?

かおりトレーナーは、
・ワークがうまくいかないときは状況を打開するためのヒントを必ず提示してくれるので、すべてのワークを途中で手放すことなく実行することができます。
・折にふれてワークの意外な応用法についても話してくれます。
・理論の例外についても丁寧に解説してくれます。

これらは、NLPを深く理解しているトレーナーにしかできない職人芸ですが、クラスの中ではどちらかといえば余談として、駆け足で通り過ぎる部分であり、筆記の間に合わないことが多いのです。しかし市販の書籍からは決して得られない深い領域に入っていく知識であり、受講生にとってはとてつもなく大切だったりします。トレーナー自身、準備して話していることではないかもしれませんが、できればすこしずつでもテキストに盛り込んでほしいと思います。

(注1)「プラクティショナーコース」の略

 
テーマ * スクール ジャンル * 学問・文化・芸術

 

 

 

 
口撃を受けているとき、われわれは何が最も苦しいのだろう? 第一に永続性、つまり口撃が永遠につづくかもしれないという恐れであろう。第二に再現性、つまり今はおさまってもまた際限なくくりかえされるかもしれないという恐れであろう。これらの考えに襲われると絶望的な気分になり、反射的に、口撃を止めたくなり、反応してしまう。

こういうとき、反応の戦略には二種類ある。ひとつは相手の主張の論理的矛盾を突き、理屈でねじ伏せようする戦略。もうひとつは相手の理不尽な要求にしたがい、機嫌をとる戦略だ。しかしどちらも相手の神経を逆撫でし、口撃をエスカレートさせる。というのも、相手は自分の主張が論理的に破綻していることくらい百も承知なのだ。それに、相手の不満は、言語化された要求だけ通れば解消されるという体のものではない。要するに、ただ漠然と苦しくて、不満で、テンパってしまったのだ。したがって、論理的矛盾を突かれればますますいきり立つし、要求が通れば、それでも不満がおさまらないのでますます他の要求をしたくなる。大人げない行動にちがいないが、大人げないと決めつけたところで相手が恥じ入って行動を変えるわけではない。

しかし、このことは一筋の光明ではないだろうか? なぜなら、口撃の「永続性」「再現性」が、われわれの反応によって賦活されるのだとしたら、これらを止めるには反応しなければよいことになる。このように、人間関係のトラブルには原因と結果が循環していることがある。その原因と結果を構成している衝動の循環をどこか一か所で断てばいい。

しかも、われわれが苦痛を感じるツボはこの「永続性」「再現性」であった。言いかえれば、口撃の継続時間が有限であり、再現性もさほどではないと考えることができれば、口撃を受けることは苦しいけれども絶望するほどではない。

では、「反応しない」とはどういうことなのか? 期待をさせておいて梯子をはずすようで申し訳ないけれど、今の俺はたいした処方箋を用意できていない。おそらく「深くかかわらずに受け流す」ことであろう。

しかし一方ではこういう懸念も持つ。つまり、相手は「かかわらない」という選択自体を自分に対する「攻撃」と解釈し、恐怖心にかられて自己防衛のために反撃してくるかもしれないということだ。

ついでに言っておくと、口撃があまりに激しいときは自分の身を守るために席をはずすしかないと思うのだが、相手は「逃げる気か」と追いすがってくるかもしれない。そういうときのためにおぼえておきたいことは、相手を口撃(攻撃)に駆りたてているエンジンは「不安」や「恐怖心」だということだ。われわれが反論するたびに相手は自分の存在を否定されたと感じて恐れおののき、それゆえに反撃をしかける。われわれが席をはずそうとすると、相手はそれを自分に対する「あてつけ」「不信の表明」「挑戦」と受け取り、自分は完全に孤立してしまい、ひとりで戦いぬくしかないのだと絶望的な決意をする。したがって、そういうときは「私はこれから席をはずすけれども、それはあなたに対するあてつけではなくて、自分の都合でそうするだけなのだ」ということを、その時点の相手に届く言葉で丁寧に伝える必要があるかもしれない。そして、われわれがうまく切り抜けて席をはずすことに成功すれば、彼もまた攻撃する必要がなくなり、楽になるはずなのだ。

攻撃を受けている側にそういう配慮をせよと言うのは残酷かもしれないが、一層の攻撃を受けないように、スイッチを切っておく必要はあるだろう。それに、われわれと相手のどちらが苦しいかといったら、おそらく彼のほうが苦しいのだ。われわれとしては自業自得と言いたいところだが、たとえそのとおりだとしても、苦しいものは苦しいのである。

このエッセイは、口撃と反応の過程を素描して理論化する試みであった。後半歯切れが悪くなり、尻つぼみになってきたとはいえ、俺としては、現在の俺の実力の範囲内でよく書けていると思う。しかし実際の口撃の現場で起こることはもっと泥臭い。信頼のおける専門家に寄りそってもらいながらすこしずつ解決していくことをお勧めする。それから、「アサーション」を勉強することも役に立つかもしれない。

なお、以上のことは、「あなたを陥れようとして計画的にしかけられている口撃」に関しては全く役に立たないばかりか、かえってあなたを追いつめるかもしれない。その場合は全く別の対処が必要である。 
テーマ * 心の持ち方 ジャンル * 心と身体

 

 

 

 
昨年から読書ペースがめっきり落ちてしまった。作文をライフワークと考えている俺にとって読書は栄養補給であると同時に精神の鍛錬でもあるから、これはぬきさしならない問題だった。原因はわかっていた。

<問題1>

ひとつは年齢からくる視力の衰えだ。俺は電車通勤族だから、以前は一時間の通勤時間をまるごと読書にあてることができた。しかしこの一、二年、電車内の暗い照明で本を読むとひどい眼精疲労で健康を害するほどになり、電車内の読書は断念せざるをえなくなった。三・一一以降、車内の蛍光管が一本おきに抜きとられ、照度が低下したことが影響しているかもしれない。

<問題2>

もうひとつは難解本だ。わが読書の主力は人文書と文学書のいずれも翻訳で、なぜか難解本が多い。どうも俺には小難しいのを好む性癖があるようだ。多少とっつきにくくても、丁寧な訳業でさえあればどうにか読みこなせると思うのだが、問題は、訳語の選択に窮したまま放置された箇所のある翻訳なのだ。これには、その著作にたいする研究が十分にすすんでいなくて、訳者がいくら努力しても正しい読みを提示しえないという不可抗力的なケースと、出版社や訳者の都合により時間切れで推敲が打ち切られた確信犯的なケースがあるようだ。どちらの場合も疑問の箇所を直訳に近い形で放りだしてあり、俺は他の訳文との脈絡をつけようとして奮闘するが、訳者にも見いだせなかった脈絡が俺に見つけられるわけはなく、やがて集中力が切れてしまい、睡魔におそわれたり、気晴らしのためネット閲覧にふけるようになる。こうしてふたたびその本にとりかかるまでには一時間かかったり、一日かかったり、一週間かかったり、場合によってはそのまま読まなくなってしまう。


しかし実をいうと、現在の俺はこれらの問題をなかば解決してしまったのである。以下ではその経過を述べてみたい。

<問題1の解決 iPhone>

最初のほうは照明が問題だったから、ライトつきの電子書籍をためしてみようと思いたち、Kindle Paperwhiteを導入した。しかしドットの粗さと照明ムラによって余分な視覚情報が入ってきて、文字を追う作業の障害になるため、俺は集中して読むことができなかった。次に携帯用の読書灯を持ち歩き、紙の本を読もうとして各種の商品を試したが、携帯用の光源で十分な明るさが得られることはなかった。

こうしてやはり通勤時間の読書はできないものとあきらめていたのだが、それが携帯電話をiPhoneにしたら一気に解決したのである。iPhone標準の「ヒラギノ明朝」書体は癖がなくて、電子書籍専用端末の書体と比較しても断然読みやすい。ディスプレイの解像度は申し分なく、文字の輪郭がなめらかで紙の本とくらべても遜色がない。しかも俺が選んだ電子書籍アプリ=Kinoppyでは、文字の倍率が無断階で調整できるので、俺の視力に最適化した文字サイズで読むことができる。ゆいいつ気になっていたのは、iPhoneの光源はバックライトだからLEDの照明が液晶パネルを透して直接目に入るという点だった(これにたいして、専用端末はフロントライトで目にやさしいと言われている)。たしかに使い始めの頃は目の疲労が気になったが、これはブルーライトカット仕様の黄色っぽいフィルムを貼ることで解決した。そしてなんと、俺はこのiPhone+Kinoppyの組み合わせにより、今年一月中の職場への往復時間だけで、半藤一利『昭和史 1926-1945』『昭和史 戦後篇 1945-1989』の二冊を読破したのだ。二冊あわせ、原著で一千ページ超のボリュームである。

<問題2の解決 NLP>

さて、あとのほうの「難解箇所で集中力が切れる」問題については、要するに割りきって先へ進むことができればよいのだが、その「割り切る」という行為、断層を跳びこえる「決断」こそが困難なのだった。そこで、NLPのセミナーで習いたての「8フレーム・アウトカム」を試してみることにした。NLPの凄いところは、レシピのとおりにワークをすすめると、絶対に解決不可能と思っていた問題を解決するためのリソースを自分がもっていたことに気づくところなのだ。別の言いかたをすると、NLPは抵抗をコントロールするテクニックの宝庫なので、重要性は認識していながらも内的な葛藤(抵抗)のために手をつけられずにいた問題が、解決に向けて動き出すようなのだ。ところで、俺はNLPのレシピが効果的であることを多少は体験的に知っているけれども、レシピの意味は理解していないため解説することができない。だからワークの詳細については省略する。

今回俺が「8フレーム・アウトカム」のワークから引きだした解決策はこうだった。
(1)これから読もうとする章の最終ページに、上へはみ出すように付箋を貼る。
(2)そのページを読み終える目標時刻を、付箋のはみ出した部分に書き込む。ただし十分余裕をもった時刻とする。たとえば一ページあたり二分の計算とし、端数を三十分単位で切り上げた時刻だ。
(3)文字盤の大きな時計を机に置いて読みはじめる(ただし俺は手頃な時計をもっていないので、PCのデスクトップ時計アプリで代用する)。

こうして俺は、1巻から3巻まで読むのに三か月かかっていた『ジロドゥ戯曲全集』の4、5巻を、わずか三日間で読むことに成功したのだ。それで、上記の解決策のどこがよかったのか考えてみた。

若いころ、形だけの速読、つまり目で文字を追う速さだけをひたすら追求する読みかた(したがって内容はまったく頭に入らない)によって膨大な時間を棒に振った苦い経験から、俺は「ゆっくり読むことだけが正しい」という信念を抱くにいたった。こうして、「割りきって」先に進むとか、終わりの時刻を決めるという考えは、この悪しき速読の経験を呼びおこし、強い抵抗をひきおこすようになった。

しかし上記のワークの結果、俺は時間を区切る(終わりの時刻を決める)方法を積極的に評価する気になった。時間を区切っても、目標とする時刻が十分に遅ければ速読の強制にはならない。また時間の刻みを細かくし、一冊ではなく一章ごとに目標時刻を設けることによって、ゴールが見えやすくなり、一大決心をする必要がなくなる。これをやってみて、俺は自分に二時間で五十ページ読む能力があるという当然の事実を、いまさらのように思い出した。さらに、時間を区切る方法には嬉しい特典がついてくるという発見があった。それは目標時刻より早く予定の箇所まで到達したとき、残りの時間を自由に使えることだ。これはノルマに縛られない至福の時間であって、ボーっとしてもいいし、音楽を聞いてもいいし、読書をすこし先に進めるのに使ってもいい。つまり、読書の能率をアップさせる工夫を実行にうつすことによって、俺は同時に、読書中心のわが人生に読書とは別の価値を挿入たり、あるいはまったく反対に、読書生活をいっそう研ぎ澄ますことがきるわけだ。しかも、もともと目標時刻を遅めに設定しているから、たいていの場合はこの特典が手に入ることになっている。

なお、「付箋に書かれた時刻」と「机の上の時計」という演出は、「時間の区切り」に身を任せてみるというしなやかな決意を、視覚の側から後押しする仕掛けであった。 
テーマ * 心の持ち方 ジャンル * 心と身体

 

 

 

 
今までに知った悲しみのすべてと
今までに聞いた秘密のすべてについて
もしも私が大声で叫んだなら
誰かが重荷をひきうけてくれて
私の心は安らぐだろう
でも 私は何も言うまい

沈黙(静寂)と私
二人は同類
二人で語り合えるといいね 思っていることのすべてを

沈黙(静寂)と私
二人は同類
その夢はきっと実現できるだろう
(以下略)


奇跡の名作だ。この楽曲は音楽の可能性の極限に挑戦した。そして音楽には人間の深い悲しみを表現する力があるということを証明した。

この曲の歌詞の凄さは「沈黙(静寂)」を擬人化したことであろう。深い悲しみのあまり沈黙を友として生きる「引きこもり」の主人公は、沈黙(静寂)と語り合いたいと願う。もちろん、そんな夢が実現するはずのないことは彼(彼女)にも痛いほどわかっている。しかしその夢は彼(彼女)にとって唯一の希望なのだ。

間奏における管弦楽の爆発はあまり評判がよくない。ボーカル部分と間奏部分との音量の差が激しすぎて、バラードの小品を無理やりプログレッシブ・ロックの大曲に仕立てたような印象を与えるからだ。しかしそうではない。それは作曲家の意図なのだ。「沈黙」を歌うバラードであるがゆえに、沈黙の裏側の「欲動」を表現する間奏は饒舌でなければならなかった。ボーカル(言葉)が沈黙し、管弦楽に主役の座を譲るとき、彼(彼女)の意識も背景に退き、無意識の欲動が駆けめぐる(注1)。それは言葉にできない悲しみかもしれないし、言葉にできない怒りかもしれない。あるいは、言葉によって疎外されないゆえに自分らしく振るまえる喜びかもしれない。

もし彼(彼女)が「沈黙(静寂)」と語り合うことができるなら、二人がコミュニケーションに使うのはおそらく「欲動」の渦であろう。沈黙には言葉がないからだ。そう考えると、この間奏は二人のありえない「語り合い」を表現しているともいえるだろう。

(注1)言葉の消去と欲動の爆発。この手法にはおぼえがある。それは「崖の上のポニョ」で、ポニョの欲動が海底世界のエネルギーを解き放ち、高潮を引き起こすところだ。

Alan Parsons Project - Silence And I

アイ・イン・ザ・スカイアイ・イン・ザ・スカイ
(2013/07/24)
アラン・パーソンズ・プロジェクト

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蜷川幸雄演出「唐版 滝の白糸」がWOWOWで放送される。
WOWOWライブ 12/28(土)よる 9:30

http://www.wowow.co.jp/pg_info/detail/104436/ 
テーマ * 演劇 ジャンル * 学問・文化・芸術

 

 

 

 
俺が観たのは11月9日13時30分の回であった。この回が特別だったのか? 何かあったのか? 演出の鵜山さんはどうかしてしまったのか? 見るべき場面がほとんどなく、カーテンコールなしという異例の終わり方であった。俳優のモチベーションも下がりっぱなしであろう。

全編を通じて法華経問答が延々とつづく、ディスカッションドラマの性格が強い本作は、決して取り組みやすい本ではない。安易な姿勢で臨めば大やけどするたぐいの難物であり、文字通り大やけどを負ってしまったのがこの公演であった。どこが駄目だったかを考えてみた。

(1)喜劇的人物が喜劇のキャラクターとしてしか描かれていない。山男(小倉毅)も三十郎(土屋良太)も、本人たちの切実さが周囲と化学反応したときにはじめて「おかしみ」を醸すはずなのだが、最初から笑いを狙いにいってしまった。だから、長ゼリフを聞いていると飽きてきて、早く言い終わることを願ってしまう。

(2)この本では、擬音(汽車の走行音)を俳優の声で表現するという特殊な趣向がドラマの推進力になっているのだが、本公演では擬音担当になった俳優を囃し方のようにホリゾントの前に座らせ、折り目正しい「演奏」をさせただけだった。では、俳優に言わせることの意味は何なのか? 俳優に言わせる以上は、たとえト書きに書いてあっても「セリフ」なのだから、自己主張し、でしゃばり、前景の芝居に介入してよいのだし、それが作者の意図であろう。特に「8場」の「シュラシュシュシュ」は瀕死の賢治に捧げる鎮魂のコーラスであって、執拗に自己主張し、前景を圧倒してしまえばよかったのだ。しかし、本公演では予想どおり間の抜けた「演奏」でしかなかった。

(3)「5場」における賢治(井上芳雄)と父(辻萬長)との仏教問答は、上滑りな会話が続き、退屈この上なかった。賢治を演ずる俳優に「日蓮の思想への共鳴」を要求しては行き過ぎかもしれないが、「日蓮の思想に共鳴する賢治」に共感することはできるはずであり、そういうプロセスを経ればこそ日蓮を擁護するセリフにも熱が入るというもの。浄土真宗を擁護する父親役とて同様である。しかしこの場面では、二人とも他人事を話しているようにしか聞こえなかった。
舞台上で本格的な宗教論争を展開するわけにはいかないという配慮から、戯曲の中ではそれが「言葉遊び」や「揚げ足取り」に置換えられている。しかしそれを単なるコメディとして演じてしまっては、この親子をなりふりかまわぬ真っ向勝負に駆り立てている、それぞれの信仰の深さがまったく見て取れないのだ。

(4)「9場」における第一郎(石橋徹郎)のセリフに石原莞爾の名前が出てくるところは、賢治の奉ずる日蓮の思想がねじまげられて政治利用され、侵略の大義名分として使われようとしていることが明らかになる場面だ。つまり、この場面は「賢治と歴史との対決」という意味をもっている。したがって、石原莞爾の名が聞かれた瞬間、舞台には軍靴の音を幻聴させるくらいの緊張が走るはずなのだ。ところが実際の舞台のゆるさは何であろう? 茶飲み話に毛が生えた程度のテンションでしかなかった。作者が彫琢したセリフを、一語一語丁寧に読みこむ努力を怠った結果であろう。

(5)同じ「9場」で、賢治が自分を「三十五になっても親がかりのデクノボー」と呼ぶところがある。俺は、「あーそのとおりだね、デクノボーだね、どうしようもないね」と言いたくなった。
賢治のどこが「ただのデクノボー」とは違うのか、セリフには書かれていないその答を提示するのが、この芝居の役割であるはずなのだ。

初演(木村光一演出)の評判が高かっただけに、失望は大きかった。このままでは納得できない。蜷川氏か栗山氏の演出で、リベンジを果たしてもらいたい。

イーハトーボの劇列車 公式サイト


戯曲は面白い。
井上ひさし全芝居 (その3)井上ひさし全芝居 (その3)
(1984/07)
井上 ひさし

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テーマ * 演劇 ジャンル * 学問・文化・芸術

 

 

 

 
こちらに引っ越しました。












二晩経って、もうすこし感動の意味がわかってきた気がする。

心中をのりこえて手にした小人たちとの幸福な生活(彼女じしん、この生活を白雪姫に例えている)は、お甲が人の優しさに触れ、生まれて初めて味わう深い「癒やし」の時間であった。それはすさんだ生活を送ってきたお甲にとって、命と引きかえにしても惜しくないほど大切だった。だから、鮮血を迸らせながら披露する水芸は悲劇の形象なんかではない。彼女は自分の命を差し出すことによって、愛する小人たちの優しさに応えたくてしかたがないのだ。これは歓喜の舞いなのだ。

一方、鮮血を浴びてのたうちまわるアリダは傍観者にとどまる。彼がいくらお甲に肩入れしようと、お甲が舞っているのは小人たちのためであって彼のためではない。しかし、お甲の人生に立ち会うことによって得た深い感動は、今後の彼の人生を変えずにはおかないだろう。 
テーマ * 演劇・劇団 ジャンル * 学問・文化・芸術

 

 

 

 
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昨日の昼公演に行き、一晩経ってまだ興奮がさめない。そんなことはいまだかつてなかった。

本公演のどこが凄いかを一言でくくるなら、「あふれる詩情」と「キッチュ」の融合という奇跡であろう。もちろん、すべての唐戯曲はこの称号にあたいするかもしれない。とはいえ、唐さんの多幕物ではこの両者がもっと複雑なかたちでからみあう。いいかえれば、両者のあいだの断層は、作家の力量により、ストーリーの中で馴化されるのだ。それにひきかえ本作は、「あふれる叙情性」のいっさいが、終幕における「血糊の噴出」というあざとい視覚効果の猟奇性によって一気に形象化される、単純きわまる構成であり、馴化の余地がない(注1)。両者の断層は深く、薄氷を踏むようなバランス感覚と、なみはずれた力業(ちからわざ)を同時に発揮することができなければ成功はおぼつかないはずだ。ところが、本公演はこの両方をわがものとし、断層を一気に飛びこえてみせる。俺たちがおぼえる感動の深さは、この困難な跳躍の高さと速度に比例するのではないだろうか。そう考えれば、かつてない感動の深さに説明がつく気がする。

本公演最大の収穫は女優・大空祐飛さんであろう。シェイクスピア顔負けの叙情性をもち、それゆえに手強い、唐戯曲との格闘の中から、崇高というべきヒロインの存在をひきだしてきた。そうなのだ、この崇高さこそが唐戯曲ヒロインの理想形なのである。

登場場面とか、ラストとか、名シーンはたくさんあるのだが、もっとも俺の印象に残ったのは、いきなり正座して、滝の白糸の口上を述べはじめるところだ(注2)。正座した彼女は、口上を述べるまえにほつれた髪をなでつけて(注4)、見えない観衆への敬意をあらわす。戯曲には書き込まれていないこの小さな動作が、舞台に緊張を走らせ、幕切れの悲劇に向けて一気にドラマを加速させる。

白糸太夫の装束に着替えて披露する水芸のシーンは、菖蒲と噴水に囲まれてたぐいまれな美しさだし、手首を切り、鮮血を迸らせながらクレーンにのって宙を舞うラストも美しい。「それでは皆さま、手首の蛇口を外しましょう!」こんな美しい決めゼリフを書ける作家は二人といないだろうが、このセリフを彼女ほど完璧に言える女優もいないだろう。

それから、彼女の存在感の秘密のひとつが、挑むような、それでいてつねに淋しそうな目線であることは、この舞台を観た人なら誰でも気がついているだろう(注3)。

ところで、『唐十郎全作品集 第四巻』の解説によると、朝日新聞<彦>は1975年の初演を評して「この公演が必ずしも成功していないのは、第一に、元来がこじんまりとしたまとまりのよさをもつこの一幕劇が、いわば強引に”演劇スペクタクル”に拡大されたため、そこにどうにも埋められぬすき間、つまりは一種の空々しさがつきまとうためだ」と書いたそうな。しかし本公演を観たあと、俺はこの批評を「たわけ」と思った。すべての要素が幕切れの悲劇に向けて収束していくこの戯曲の構造は、血しぶき飛び交う”演劇スペクタクル”を不可避的に要請する。したがって、この野心あふれる戯曲は、現場に対し、そして観客の想像力に対し、(朝日新聞<彦>の言葉で言えば)「すき間」を埋めてみろと挑戦しているのだ。そんなこともわからないのだろうか。

いやそれとも、俺の観ていない初演の舞台成果がその程度のものだったのだろうか。今となっては知るすべはない。しかし、演出の蜷川氏は、「エンタメターミナル」のコメントで「殊にこの作品には出会った時から恋をし続けており、今回はその恋がひとつの成就を迎えたと言って良い仕上がりになりました」と述べている。すると、本公演は過去4公演の中でぬきん出た舞台成果を上げていて、それゆえに、俺は最初に述べた「詩情とキッチュの融合」を語ることができたということなのかもしれない。融合が成功しているのを見なければ、語ることはできないからね。

(注1)お甲を中心としてあらすじを述べればこうである。お甲はかつて激情に駆られ、男と二人で手首を切り心中をはかって生き残った。その後過去を清算し、地味だが平穏な生活を小人たちと送っている。そして今、彼女は自分の命とひきかえにその小さな幸福を守ろうとして、もう一度手首を切る。

(注2)「あ、そうだ、滝の白糸。(急に変な声で)これより、お目にかけまするは白糸太夫の涙の恋がらみ、ちぎれてはなれし、天界の、あの人の供養の特別興行でございます」(角川文庫『唐版 滝の白糸』81ページ。冬樹社『唐十郎全作品集 第四巻』230ページ。ただしどちらも絶版。今年の連続公演を期に「盲導犬」「唐版 滝の白糸」だけでも復刊されないだろうか。)

(注3)舞台写真からその片鱗が見て取れるかもしれない。

(注4)2013年12月29日の追記。WOWOWの放送をみたら、この動作はしていなかった。俺の記憶ちがいかもしれない。

お甲の癒やしの物語--蜷川幸雄演出「唐版 滝の白糸」(つづき)

作品公式ホームページ

アマゾンに収録戯曲集の画像が見当たらないので、スキャン画像を掲載しておく。
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1.melody.「Take a Chance

大うつ病の診断を受けるすこし前、この曲ばかり聴いていた。1コーラス目の最後、「はっきりと答えが見えなくても 行く先は自分の気持ちに聞こう」のところを聴くたびに、自然と涙があふれてきた。自分の気持ちを置き去りにし、無理に無理を重ねた結果、心身がボロボロになっていた。しかし救いを求める方法がわからなかったし、逃げ出したら人間として終わりだと思っていた。

今の俺は援助の求めかたを知っているし、人間には苦しまない権利があるということも理解している。俺たちの社会にはセーフティネットがあり、そう簡単に破滅しないようになっている。しかし当時はもう決して引き返せないところまで来てしまったというディストピア的な絶望感にとらわれていた。そして、「義務」というヴァーチャルにのみこまれていた俺が、かろうじて「自分の身体」というリアルに繋ぎとめられていたのは、この曲のおかげだった。


2.ももいろクローバーZ「サラバ、愛しき悲しみたちよ

サビの部分「サラバ、昨日をぬぎすてて 勇気の声をふりしぼれ 「じぶん」という名の愛を知るために」のところは何度聴いても泣ける。昨日までのしがらみなんて捨ててしまえばいい。今自分はどうありたいのか、何をしたいのか。それが、私の生きる意味のすべてなのだ。

シングル盤
realize/Take a Chancerealize/Take a Chance
(2005/08/17)
melody.

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サラバ、愛しき悲しみたちよ(初回限定盤)(DVD付)サラバ、愛しき悲しみたちよ(初回限定盤)(DVD付)
(2012/11/21)
ももいろクローバーZ

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収録アルバム
Be as oneBe as one
(2006/04/12)
melody.、m-flo loves melody.&山本領平 他

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5TH DIMENSION5TH DIMENSION
(2013/04/10)
ももいろクローバーZ

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いじめっ子Aがいるとする。いじめっ子ではイメージしにくいとしたら、強権的な上司Aでも、意地悪な友人Aでも、支配的な父親Aでもよい。そしてAに反発を覚えている私は、その反発を態度で示したくなったり、逆にAを懐柔しようとして機嫌を取りたくなるかもしれない。問題は、どちらの場合も緊張して苦しさを感じるということだ。身体の「緊張」は主観的には「苦しさ」として感じられ、内実は同じものである。

ところで、この「緊張=苦しさ」は相手(A)に感染する。つまり相手も苦しくなるのだ。私の身体と相手の身体が、緊張という共通言語によって自動的にコミュニケーションしてしまうのである。相手の「うざい」という感情は、この苦しさを指している。それで苦しさを処理するために攻撃せずにはいられなくなる。

攻撃することはあきらかに悪であるが、このように攻撃のスイッチが入る過程が存在することも事実だ。だとすれば、攻撃することの倫理的な是非はともかく、攻撃のスイッチを入れない工夫をすることには合理性がある。

そこで私にできることは、「緊張=苦しさ」をシグナルとして、自分の行動を組み替えることである。ある行動にとりかかったり、あるいはその行動のことを考えたときに「緊張=苦しさ」が生じる場合には、その行動は自分のためにならないと判断して別の行動に差し替えればいい。「緊張=苦しさ」は相手の攻撃スイッチを入れるばかりでない。それ自体、私の身体的ダメージとなり体をむしばから、自分の健康のためにも回避すべきなのだ。

では、まず深呼吸して緊張を静めよう。そして余裕があるときはどういう行動をすれば緊張せずにすむかを試してみよう。さまざまな行動について考え、そのたびに自分の身体反応(緊張しているかどうか)を確認するだけでいい。


このエッセイは小池龍之介氏の各著作の影響下で書かれている。興味のある方は、特に下の本の第六章を参照されたい。

もう、怒らない (幻冬舎文庫)もう、怒らない (幻冬舎文庫)
(2012/01/14)
小池 龍之介

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こちらに引っ越しました。










神楽坂の喫茶店で行われた連続公演だ。

人生漫画@cafe SKIPA
-----揚野浩 著(光風社書店)『プロレタリア哀愁劇場』より

小さな喫茶店のテーブルと椅子を片づけた四畳半程度の空間が舞台で、観客は約二十人程度。本作の上演スタイルは「物語る演劇」。原作(小説)を戯曲として再構成することなく、原作の地の文も会話文もほとんどそのまま二人の俳優に割りあててある。ベテランの木野本啓氏は寺中、新人の高橋祐介氏は川路と清子の担当。俳優はこの二人だけなので、警官、矢板氏、老婆、社長という脇役は、二人のどちらかが張り子の仮面を被って演じるという趣向だ。トレーラーの運転席は高いところにあるので、二人はキャタツを二台ならべ、それぞれの天板に腰かけてその高さを表現している。

ところで、俳優の身体にとってセリフと地の文とでは距離感が異なるから、これらの両方を同時に語ることは難度の高い技であるはずなのだ。しかしかれらは絶妙なバランスでこれらの距離感を使いわけ、どん底生活を生き抜く登場人物の必死さと、一歩引いてかれらを眺めている作者の視線を、立体的に浮かび上がらせる。「やっぱり黒テントの俳優は上手いなあ」と舌を巻いた。原作に頻出する擬音語の処理も丁寧で、この芝居のアクセントになっていた。

山崎方代@茶廊トンボロ
-----田澤拓也 著(角川出版社)『無用の達人 山崎方代』などより

cafe SKIPAの姉妹店で、隣接する茶廊トンボロに作り付けのテーブル席があり、そこに宮小町、斎藤晴彦、滝本直子、平田三奈子の四氏がすわり、内沢雅彦氏(宮崎恵治氏とダブルキャストのようだ)はレジの前に立っている。観客の大部分はカウンター前の椅子にすわってテーブル席の方(カウンターとは逆方向)を向いている。残りの観客(俺を含む)は、カウンターの中のハイスツールにすわって観ている。

俺は原本『無用の達人 山崎方代』をちゃんと読んでいなくて人物の名前が頭に入っていないうえに、フリードリンクの白ワインを飲んでしまい、劇の構造を分析するどころではなかったのだが、まあとにかく、方代ゆかりの人物たちがひとりずつ、方代の人物像とエピソードを語って行く構成であったことは確かである。人物たちのうち二人はくま(方代の姉)と吉野秀雄(歌人)。あとは俺の頭の中でしっかりと分節化できていない人物なので、記憶しようがなかったのだ。失礼。

本作もやはり「物語る演劇」であるが、原本はノンフィクションであって会話文が少ないため、上の「人生漫画」のように俳優と登場人物を一対一で対応させることが難しい。それで五人の俳優が一センテンスずつ、ほぼ同じ分量のテキストを交代で語って行くスタイルであった。

そして俺の観た回には、なんと、『無用の達人』の著者=田澤先生が、方代ゆかりの女流歌人三人(注2)と一緒に、観客としていらしていた。

山崎方代の破天荒な生きかたは、自由なるものの意味について再考を迫る。「自由」はみっともなくて、ある意味えげつない。心のままに生きるということは、人目を気にしないし、多少の迷惑はかえりみないということでもある。言いかえれば、底なしの自由が欲しければ、紳士と思われたい欲を手放す必要があるということだ。しかし、俺たちは他者から評価を得ることに汲々とし、自分を信じとおすことを躊躇してしまう。いまさら何が惜しいのか、なぜ自分を信じないのかと自問してみるが、自我という病気は自分で思っていた以上に重症らしく、自由の手前で足踏みするだけなのだ。


この連続公演は、黒テントが神楽坂のイワト劇場を手放し、新宿山吹町(最寄駅は江戸川橋)に移転してから最初の作品であるそうだ。黒テントはその長い歴史の中で、はじめて常設劇場をもたない劇団になったようである(注1)。今回の公演は、規模からいうと番外公演よりも秘演会と言ったほうがふさわしい。たった二十人で濃密な演劇空間を独占する贅沢な時間であった。しかし黒テントには、やはり大きな劇場での公演を実現してほしい。俳優の宝庫というべき、実力派ぞろいのこの劇団には、日本の演劇界を牽引する使命があるはずだ。

(注1)木野本氏は「人生漫画」終演後の口上で、「俳優というものは空き地でも路上でも、そこに空間さえあれば演じることができる」と言っていた。
(注2)そのうちの1人は山形裕子さんであることが、彼女たちの会話からわかった。山形裕子さんは、『無用の達人』各章の冒頭で方代の回想を述べておられるので、俺のいいかげんな読み方でも記憶に残っているのだ。

無用の達人 山崎方代 (角川ソフィア文庫)無用の達人 山崎方代 (角川ソフィア文庫)
(2009/06/25)
田澤 拓也

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こちらに引っ越しました。














1974年 光風社書店発行の連作短篇集
作者名の読みは あげの ひろし

目次
人生漫画
ゲリラの棲む岸壁
F4ファントムジェット機を降ろせ
プロレタリア競艇哀話
プロレタリア蟻地獄渡世
プロレタリア哀愁劇場

一、ニ、三話の語り手は寺中くん。かれは「けそけそした性格」のために、公務員、不動産屋、選挙カーの運転手、バーテンと次々に職を変えたあげく、今はトレーラーの運転手になっている。同僚の川路くんとコンビを組み、会社からなかば強制された形で最大積載量20トンのトレーラーに45トンの鉄筋を積んで走り、警察の検問をけむにまく。

さんざん搾取されてその日暮らしをしているかれらは、同僚のいやがる難度の高い任務を「カネのため」に次々と引きうける。こうして日本に五台とない巨大なスクレパーや、蒸気機関車や、35トンクレーンの陸送をなしとげる。それでいて、いよいよカネに困れば会社の持ち物である「軽油」や「ブリジストンタイヤ」を売り飛ばして生活費の足しにすることも躊躇しない。

港湾労働の頂点に立つ<博多開運株式会社>の配車係長=石山氏は、カリスマ性があるが一筋縄でいかない山師的人物である。二人に蒸気機関車や35トンクレーンの陸送を斡旋したのはかれであった。

第二話「ゲリラの棲む岸壁」では、青春時代に社会主義思想にかぶれた経歴をもつかれが、若い運転手たちを「日雇いゲリラ」として組織し、原子力潜水艦寄港反対闘争に送り込む。

第三話「F4ファントムジェット機を降ろせ」では、九州大学の建設中の校舎に突っ込んだ米軍機の撤去を請け負う。防衛施設庁、大学当局、文部省、中核派、米軍の思惑が交錯し、誰にも手が出せなくなっていたいわば「火中の栗ひろい」に、寺中くんたちを動員して敢然と挑んだのだ(注1)。

第五話「プロレタリア蟻地獄渡世」では、波止場の荷揚げ人夫上がりで素行の悪い消防士コンビ(一色肇と栗原多情丸)が山火事の出火原因をつきとめる。しかしその出火原因は市役所にとって都合が悪かったので、二人は解雇される。

最終話「プロレタリア哀愁劇場」では、暴力手配師の栗原清右衛門、アメリカ人カークランド、身体障害者の玉島富良吉が登場し、かれらと寺中くんとの心の交流は神話的な次元に達する。

破天荒なエピソードはいうにおよばず、博覧強記の作者が随所で披瀝する薀蓄、リズム感のある洒脱な文体、そしてシニカルな人間観察は、本書がもつ強烈な魅力の源泉であろう。

俺が本書の存在を知ったのは、1987年、68/71黒色テント(現在の黒テント)が「赤いキャバレー」のレパートリーとして最終話『プロレタリア哀愁劇場』を舞台化したときだった。俺が観た黒テント作品の中でベストプレイというべき一本である。玉島富良吉を演じた俳優、内沢雅彦さんとはそのときに知り合った。

当時、本書は手に入れにくい本のひとつだったが、やがてインターネットが普及し、全国の古書がデータベース化されるようになるとわりと簡単に見つかった。しかし手に入れて安心してしまい、そのまま眠らせていた。

今回、『プロレタリア哀愁劇場』から26年ぶりに、同じ黒テントによって第一話「人生漫画」が舞台化されることを知り、あわてて読み始めた次第なのだ。掛け値なしの傑作なのに、このままでは忘れられてしまう。復刊する手だてはないだろうか。

黒テントのウエブサイト
「人生漫画」の公演は9月26日、27日、28日@神楽坂 cafe SKIPA

(注1)第三話の末尾はこうだ。「墜落する途中、ジェット機の右の車輪が吹ッ跳ンで、その車輪だけが今も六階建の建物の三階あたりにひっかかっている」これ、ロートレアモン『マルドロールの歌』第六歌の末尾に似ていないかな? 
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予想外のできごとが不意打ち的に起こった場合、しかもそれが嬉しいできごとであるほど、金縛りにあって適切な行動が取れなくなってしまうことがある。そういう場合、俺は目の前で進行しているできごとの意味が把握できず、嬉しいできごととして認識できていない。現象に多義性があって、解釈の幅があるほどそうなる。後で冷静になり、現象の全体を眺めれば「これしかない」とわかるのだが、目の前で現象が進行している現場では、その各パートに過度に注目してしまい、全体像を見失っている。思うに、俺には自己信頼が不足しているのだろう。それでとっさに「そういう幸福は俺に値しない」と考えてしまう。「だから、そんなことが俺に起こるわけはない」と。こうして、一見否定的と見える(注1)パートにひきずられて解釈に失敗する。

こういう事態の対処法は、予定調和を信じること、つまり「世界は俺に最適化されている」と信じることなのだ。それは精神的に健康であるための基本であろう。数年前の俺にはとてもできなかったけれど、今の俺にとってはたやすいことだ。だからもうすこし。今よりもうすこし強く、俺が自分のことを信じられるようになれば、形勢は一気に逆転し、無意味に後ろ髪引かれることなく、適切に行動できるようになるだろう。

(注1)俺には主観的にそう見えるということであって、現象の側には責任はない。 
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ブルース・フィンク著『後期ラカン入門』(人文書院)の発売が予定の9月6日より少し遅れていた(注1)ので、その間、同じ著者の『ラカン派精神分析入門』(誠信書房)の一部(三~五章)を読み返していた。明晰にして丁寧な解説を特徴とする、ラカンの入門としては右に出るもののない名著であるが、ラカンの主張自体が複雑きわまるのだから、そう簡単に頭に入るというわけにはいかなかった。しかし昨日『後期ラカン入門』が届き、早速開いてみると、序文の中でラカンの仕事が素描されていて、さすがはブルース、臨床に軸足をおき、難解語の実践的な意味を少ない字数で明晰に述べている。俺はその部分を読んですこし展望が開けた気がしたのだ。そこで、俺の現時点におけるラカン理解を簡潔に整理してみたい。『後期…』の本文を読み進める前に、俺としてはいったんこういう作業を経由しておくことが必要と思ったのだ。でははじめよう。


有名な「人間の欲望は他者の欲望である」という命題の意味は、人間は自分の(無意識的)欲望をもって生まれてくるのではなく、他者(大文字の他者A)つまり両親の欲望を植えつけられることによってはじめて欲望をもつ存在になるということだ。私の欲望に私は主体的にかかわることができず、他者から一方的に押しつけられるのだ。こういう存在のあり方が「疎外」。反対に「疎外」の解消、すなわち「他者の欲望」からの離脱が「分離」だ。そして、この「疎外」という不安定な存在様式は思春期以後に「神経症」という名の問題をひきおこす(たとえば自由を望みながらも自由を追求できない自縄自縛におちいる)。そしてそこには、私に自分の欲望を押しつけ、私の主体性を不当に奪い、不本意な境遇にいたらしめた(たとえば私の自由を制限した)他者つまり両親への強い怒りがともなっている(注2)。もっとも、他者から欲望を植えつけられない限り、そもそも私は欲望をもつにはいたらない、言いかえれば人間になることができないのだが。

ところで、他者つまり両親は、無力な幼少時代の私にとって、私の生殺与奪をにぎっている一方で、強烈な愛情によって私をのみこんでしまいかねない危険な存在でもある。したがって「他者の欲望」と正面から向き合うことはトラウマ的であり、私はそれに耐えられない。「他者の欲望」とのこのトラウマ的な出会いを「享楽」といい、私はやがてこれに直面するのを避けるために「幻想」(たとえば際限のない強烈な自由ではなく、制限された自由に甘んじる幻想)を生み出し、これと表裏一体の関係にある「神経症」を病むことになる。

ラカン派のキーワードというべき「対象a」については、まず、対象という名称にもかかわらず「欲望の原因」を指していることを言っておかなければならない(注3)。次に、この概念がいかなる技術的な要請によって導入されたかを押さえておかないと、見かけ上の多義性にめまいがして混迷におちいることになる。「対象a」とは、精神分析において分析家が占める立ち位置なのだ。ラカンによれば、被分析者は、毎度のセッションで自分の夢や願望を分析家に報告しているうち、やがて、自分が夢や願望を生みだすのは分析家に話すためだと感じるようになる。要するに分析家は「欲望の原因」とみなされるのだ。こうして「転移」が起こる。かれ(被分析者)は自分の欲望の中に住みついてしまった(注4)分析家の存在に耐えられなくなり、主体性を取り戻すための抵抗をはじめる。つまり、分析家を権威的人物(大文字の他者A)とみなし、機嫌をとって懐柔しようとしたり、想像的ライバル(小文字の他者a’)とみなして攻撃を加えたりする。しかしここで、分析家はかれの挑発に応じて権威的人物としてふるまったり、想像的ライバルとしてふるまってはならない。人格をもたない空虚な「対象a」としてふるまい、かれの不満の内容をひたすら言語化させることにつとめなければならない。するとかれは自分の挑発が必ずしも功を奏しないことを理解し、それにともなって、かれが(分析家に代表される)他者にたいして抱いていた固定観念(≒幻想)も変更(横断?)を余儀なくされる(たとえば、「他者が私の自由を制限している」という考えは、「自由の制限を望んだのは実は自分だった」という考えに変わるかもしれない)。やがてかれが欲望を主体化(他者から押しつけられた欲望を、自分自身が望んだものとして引きうけなおすこと)することに成功するならば、そのとき、かれは不合理な思考や行為を自分の意志でやめることができるようになるだろう。

(注1)結局9月12日か13日に書店に並んだようだ。
(注2)この怒りは意識されていることもされていないこともある。
(注3)そして欲望の原因は「他者の欲望」なのだから、対象aは「他者の欲望」でもある。
(注4)もちろんそれはかれの被害妄想にすぎない。

ラカン派精神分析入門―理論と技法ラカン派精神分析入門―理論と技法
(2008/06)
ブルース フィンク

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後期ラカン入門: ラカン的主体について後期ラカン入門: ラカン的主体について
(2013/09/06)
ブルース・フィンク

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『後期ラカン入門』の序文は人文書院のサイトからダウンロードすることもできる。
http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b110261.html 

 

 

 

 
近い将来に起こるかもしれない危機のことを想像して、思わず身体がこわばるときは、深呼吸して身体をゆるめてみよう。そうすれば次のことがわかるだろう。
(1)すくなくとも今は危険な状態ではないこと
(2)したがって危険にそなえて身構えるのは無益であること
(3)その無益なわざのために、体力を消耗し、ひや汗をかき、平静さを失うにはあたらないこと

こうして、さし迫った危険は自分の脳内にしか存在しないということが、心身両方のレベルで理解できるだろう。
そうなると、ありうべき危機から距離をとって、事実のみを冷静に検討することができるだろう。 
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宝彩有菜氏の『始めよう。瞑想』、『楽しもう。瞑想』を読み、多少は瞑想を実行している。こころがすこし澄んできた気がする。一方で、瞑想理論を使ってものごとを考える習慣がついてきた。それで「強迫的思考」について考察してみた。

脳内メモリ領域のほとんどが不安や悩みごとで占拠されていると、人は新たな問題にわずかなメモリ領域で対処しなければならなくなる。問題を多面的にとらえ、なりゆきをみまもり、総合的な判断を下す余裕がないから、見切りが早くなる。つまり、少しでも危険そうに見えるものを放置することは不安でならないために、「危険そうに見えるものはとりあえずすべて拒否」という乱暴な分類法によって、自分を守るしかなくなってしまう。しかも脳内メモリ領域の不足はつづいているから、「とりあえず」の判断を見なおして修正する機会はついにめぐってこない。こうして、かれの脳内では「危険そうに見えるもの」=「危険なもの」という判断が固定化されてしまい、疑う余地のない前提として次なる判断を拘束するので、世界観は日に日に妄想的になっていく。以上の過程が理解できれば、やがて、かれがたとえば「今日は左の足から歩き始めてしまったから不幸が襲ってくる」と本気で考えて、立ち尽くしてしまうにいたるのも無理はないということがわかるだろう。また、そこまで深刻ではなくても、「行けない場所」、「会えない人」、「開けられないドア」があるという人は多いだろう。

では、どうすればいいのだろう。脳内メモリの「空き領域」を増やせばいいのだ。要するに瞑想だ。宝彩氏の瞑想は「脳内メモリの片づけ」として明快に体系化され、その方法も単純きわまる15ステップのアルゴリズムに集約されている(それでいて本格的な瞑想に必要な要素をすこしも割引していない)ので、理論にも納得がいくし、初心者にとってハードルが低いというか、ほとんど障碍を感じずにすむ。だまされたと思って、すぐにはじめてみてはいかが。

始めよう。瞑想―15分でできるココロとアタマのストレッチ (光文社知恵の森文庫)
楽しもう。瞑想 心に青空が広がる (光文社知恵の森文庫) 
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瞑想は脳を扱うためのテクノロジーであり、本書で厳密に体系化されている。瞑想の理論が一点の破綻もないロジックによって明晰に記述され、著者の言わんとすることがすっと腑に落ちた。

著者によれば、瞑想とは脳内デスクトップの片づけである。しかしPCにたとえるならば、デスクトップよりもメモリといったほうが正確であろう。思考を棚上げし、メモリの空き領域を増やしさえすれば、システムが安定して心身ともに健康になり、あらゆる問題が解決し、うまくいきはじめる。反対に空き領域が不足すれば、エラーが頻発し、問題が山積みになり、苦しみがつのっていく。要するに問題の解決とは、問題を思考しつづけることではない。思考はメモリ領域を無駄に占領し、堂々めぐりするだけで、解決のための何物も生みださない。そうではなくて、解決とは無意識の自動的な過程なのだ(注1)(注2)。そして思考は不当にメモリの負荷を高め、無意識の働きを妨げる危険因子である。してみると、われわれにできることは、メモリの空き領域を増やし、無意識がサクサクと活躍できるように道を空けてやることなのだ。

本書の立場は、明らかに「われ思うゆえにわれあり」というデカルト説の否定を含んでいる。思考は「わたし」という主体の存在を証明しない。思考は脳という不完全な器官がうんだ徒花であり、堂々めぐりする自動機械にすぎない。もしどうしても「わたし」という主体が必要ならば、メモリの空き領域がじゅうぶん確保されたときに最大の実力を発揮する「動物的勘」こそがそれであろう(もっとも、これは著者の意見ではなく俺の意見であるが)。

瞑想をはじめて五日間。まだ少しもうまくできなくて、十五分もたないのだが、心身に変化が出てきた。
(1)一日でこなせる仕事のボリュームがアップした。
(2)長くわずらっていた皮膚炎が、薬をつけなくても治った(「薬をつけないから治った」のかもしれない)(注3)。
(3)小さなストレスの処理がうまくなった。不快なできごとを、胃痛や頭痛という形で身体にフィードバックさせず、横道にそらすことができるようになってきた。

この著者との出会いは、高橋和巳先生、石原加受子先生以来の衝撃であった。

(注1)「無意識」といっても、トラブルをつくりだすフロイト的な無意識とは真逆の存在である。この文脈でいうと、フロイト的無意識はむしろ「思考」のカテゴリーに入る。それも肥大化した怪物的な思考だ。

(注2)なぜ自動的に可能であるかについては、カテゴリ「全体は部分に優先する」特に「アーサー・ケストラー『機械の中の幽霊』―全体は部分に優先する(3)」を参照されたい。上位の自我は、下位のシステムに簡潔な命令を下し、具体的な手順はそのシステムに「委譲」することによって、自分自身で手を下すよりもうまく課題をなしとげる。意識することはかえって邪魔なのだ。

(注3)「このままでは治らないかもしれない」という不安(注4)は治癒を遅らせるようだ。脅迫的に薬を塗りつづける行為はこの不安と共犯的だ。

(注4)われわれは何度も「気がついたら治っていた」という経験をしているだろう。いやむしろ、そうでないことは稀であろう。そもそも治癒とはそういうものであろう。特効薬のパワーだけでなく、いや特効薬のパワーと同等か、あるいはそれ以上に、身体の総合的バランスの回復が治癒的に作用する。事実、人びとは特効薬が開発される前でも治癒していた。こういう経験の意味が十分腑に落ちていれば、「これまで何とかなってきた」ことの論理的帰結として「今回もなんとかなるはず」という結論が導けるはずなのだ。しかし、強力な特効薬の誕生がこういう経験則を不要にしたなどと考えて、特効薬のパワーでねじ伏せるイメージに執着してしまうと、身体バランスの変化への感受性を失い、せっかくの治癒のチャンスを棒に振り、希望を見いだせなくなってしまうかもしれない。こうして、「このままでは治らないかもしれない」という不安の出現は、特効薬信仰の危険な副産物かもしれないのだ。(注5)。

(注5)患者の「経験則」と同様に、医師における「治療スキル」の喪失も問題になりうる。特効薬の誕生によって医師の「治療スキル」も不要とみなされ、治療文化の伝承が途絶えてしまうとしたら、医学にとって深刻な打撃であろう。

始めよう。瞑想―15分でできるココロとアタマのストレッチ (光文社知恵の森文庫)始めよう。瞑想―15分でできるココロとアタマのストレッチ (光文社知恵の森文庫)
(2007/08)
宝彩 有菜

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 線路ぞいに細道があり、そこは鉄道会社の土地であったが、地域住民は抜け道として重宝していた。ところが鉄道会社にはあまり評判のよくない社員がいて、細道の一箇所に自分のランドクルーザーを停めはじめた。もともと細い道であるから、一箇所でも塞がれてしまうと通りぬけはできなくなり、ひとびとは迂回を余儀なくされた。こういうわけで、われら自治会役員五名が鉄道会社の支社へ直談判にいったところ、応対はすこぶる丁寧であったが、会社の対応については明言を避け、言質をとられるような約束めいたことは一言も口にすることなく、お申し越しの件について、回答は後日文書で差し上げるという返答を述べるにとどまった。
 一週間後に回答がきて、われらは呆気にとられた。いわく、件の道路はわが社の私有地であって、その用途について貴殿らから指示をうけるいわれはない。わが社の社員に駐車場として利用させることは、正当な権利の行使である。これで鉄道会社は完全に地域を敵に回してしまったことが明らかになった。われらはこの事実をできるだけ多くの人に知らしめることが必要と考えて、会う人ごとに語って聞かせた。
 すると今度はおまわりが訪ねてきた。どこぞの国ではあるまいし、噂を広めたかどで拘束されることなどないとわかってはいたが、それでも敵の手の内がわからず、どんな隠し球をもっているかわからないので、われらは警戒をおこたらなかった。おまわりの話によれば、鉄道会社の重役で警察に強力なパイプのある人がいる。それで、自分は、気が進まないのだが、偵察に来るはめになった、ということだ。それだけ言うと、他に何かできるわけもなく、おとなしく帰っていった。
 翌日、細道の両端にカラーコーンが出現した。そんなものを置かずとも、通りぬけのできない道に乗り入れるも者はいないのだが、鉄道会社の意思を示すにはじゅうぶんだった。それとも誰か個人の意思なのか?
 われらは署名活動を行なうことに決めた。そして署名用紙の印刷を発注した。しかし納品日になって、印刷屋は、今回の発注はなかったことにしてくれと言って、原稿と、手付金の戻しと、菓子折りを持ってきた。
 われらは熱意がつづかなくなり、五名で集まることも少なくなった。
 ところがある日、カラーコーンが忽然と姿を消した。ランドクルーザーもなかった。翌日も同じだった。様子見をしていた地域住民は、やがて何事もなかったかのように細道を利用しはじめた。その後、例の社員とすれ違ったとき、こやつはわれらを睨みつけた。まるでわれらが直接手を下しでもしたかのように。  
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Author:盛々夏野菜

男性、既婚、事務系サラリーマン。
現代思想フェチだが、本を読むのが遅いのであまり多くは読めない。地底人生活を経て現在は臨床心理に関心がある。新鮮な胡瓜が好き。
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